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Series 歴史
創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
07/03/15

第2回 見直された『甲陽軍鑑』

2007年のNHK大河ドラマは「風林火山」。戦国大名武田信玄のもとで、縦横無尽に活躍する“軍師”山本勘助が描かれるが、ドラマのなかの勘助の物語は、はたしてどこまでが事実なのであろうか。新進気鋭の武田氏研究者が山本勘助の実像と虚像を紹介し、歴史事実を明らかにするとはどういうことかを考察する。

  前回、山本勘助について確実な史料は1点しかないこと、そして勘助についてより知りたいのであれば『甲陽軍鑑』という史料に頼るしかないと述べた。しかし『甲陽軍鑑』には、事実であったと思われる内容と事実とは異なる内容とが混在してしまっており、部分部分で吟味をしながら使用しなければならない、注意を要する史料であることも指摘した。
『甲陽軍鑑』は以前、「史料としての価値は低い」という評価をくだされていた。理由は大きく二つある。一つ目は『甲陽軍鑑』には「高坂弾正が書き、彼の死後はその甥の春日惣次郎によって書き継がれたものを、小幡景憲が編集した書である」と書かれているが、はたして本当にその通りなのかどうか疑問が持たれること。二つ目は内容に事実とは異なる箇所が多いことだ。
  しかし、これらの疑問は国語学者である酒井憲二氏による新しい視点、光の当て方によって解決の糸口がみつかり、史料として利用するに足ると認められるようになってきた。

同時代に書かれた一級の史料?!

春日虎綱が城代を勤めた海津城跡
(長野県長野市)

 『甲陽軍鑑』が本当に「高坂弾正、春日惣次郎が書き綴ったものを、小幡景憲が編集した」書であるならば、これは武田氏の家臣によって書かれ、まとめられた「同時代史料(その当時に作成された史料)」である。同時代のものであれば、その記載内容は信憑性が高いと考えられ、史料的価値が高いということになる。しかし、高坂や春日惣次郎が書いて小幡が編集したとするには、以下のような疑わしい点がある。
  〈高坂弾正〉は『甲陽軍鑑』の中で、もともと春日源五郎と名乗っていたが、信玄の命令で〈高坂家〉に養子に入った。その後、海津城(信濃国北部の城)で対上杉戦線を担当したと、自分の生い立ちを述べている。同時代の史料で明らかになる事実から、〈高坂弾正〉と経歴が一致する人間を探すと、春日(香坂)弾正忠虎綱という人物が、信玄の重臣に存在する。したがって『甲陽軍鑑』のいう〈高坂弾正〉は、この春日虎綱を指すと研究者の間では考えられている。
  彼は信濃国(長野県)の有力豪族・香坂氏に養子入りしたため、一時香坂姓を名乗った(しばらくして春日姓に復帰している)。ところが『甲陽軍鑑』では、肝心の執筆者の名前を「高坂」と表記している。もっとも、戦国時代に宛て字はめずらしくないので、「香」の字を「高」と記すことはあり得ることだ。しかし問題なのは、『甲陽軍鑑』の中に〈高坂弾正〉の諱(名前)を「昌信」と記した箇所があることだ。香坂の名前はあくまでも「虎綱」であり、彼が「昌信」と名乗った事実は確実な史料には出てこない。いくら何でも自分の名前を間違えることはあり得ないのではないか、というのが第一の疑問点である。
  また、本当に春日虎綱が書いたとするならば、もう少し詳しく書いてもおかしくないのではないかと思われるくだりが存在する。例えば武田、上杉両軍が激突した第4次川中島合戦で、武田軍は本隊と別働隊に分かれて上杉軍を挟撃する戦法を取り、春日虎綱は別働隊に参加していたと書いてある。にもかかわらず、不思議なことに参加していない本隊の様子は克明に記されているのに、自分が参加した別働隊の動向についてはほとんど言及していない。
  これらのことから、〈高坂弾正〉=春日虎綱が執筆したというのは、間違いではないかと考えられた。そしてその前提に疑問がはさまれたため、その甥の春日惣次郎が書き継いだことも疑われたわけである。では誰が書いたのか。様々な説があるが、編集者の小幡景憲ではないかという説が有力だった。
  小幡景憲は、「甲州流(武田流)軍学者」として江戸時代初めに身を起こした人物であるが、その際に『甲陽軍鑑』を編集して世に送り出した。『甲陽軍鑑』は、“甲州流の軍学書”として世間に流布し、その結果、編集者の小幡も軍学者として成功をおさめた。つまり『甲陽軍鑑』の流布と小幡の成功が表裏一体であったため、『甲陽軍鑑』はそもそも小幡景憲が自分で執筆したもので、「甲州流軍学」としての箔を付けるために〈高坂弾正〉の名前を借りたのではないか、という疑念が生じたのだ。
  さらに『甲陽軍鑑』には、内容的に事実とは異なっている記述が多いことも、この史料の信頼性を低くしていた。例えば『甲陽軍鑑』に記されている出来事の年月日を、他の複数の史料と突き合わせて比較してみると、『甲陽軍鑑』の記載だけが異なっている場合がしばしばだ。例えば1541年(天文10年)に行われた信玄の父・武田信虎追放(信玄によるクーデター事件)を、1538年(天文7年)と間違えている。
  また記された出来事の中には、明らかに創作されたと考えられる話がある。例えば長篠の戦いの直前の軍議で、勝頼の側近長坂釣閑斎が主戦論を展開し、実戦経験豊富な重臣の反対を押し切って勝頼に無謀な戦を決断させたという描写がある。しかし長坂はこのとき、留守居役として武田氏の本拠地・甲府に残っており長篠の戦いには参加すらしていない。
  以上のように、『甲陽軍鑑』には高坂弾正(春日虎綱)、春日惣次郎が執筆して、小幡景憲が編集したと書かれているが、それはそのまま信じることはできない、と考えられてきた。また、年代や内容にも明らかに事実とは異なっている箇所がある。したがって『甲陽軍鑑』は史料的価値が低い、とされてきたのである。

国語学者の手による再評価

  こうした評価に一石を投じたのが国語学者の酒井憲二氏である。酒井氏は、江戸時代に広く流布し、それまでの研究者が利用してきた木版印刷本の『甲陽軍鑑』ではなく、研究者が見逃してきた写本(手書きによる写)の『甲陽軍鑑』に、初めて注目して『甲陽軍鑑』の再検討をしたのである(酒井憲二編『甲陽軍鑑大成』全七巻、汲古書院。

   なぜこの違いが重要なのか。同じ『甲陽軍鑑』であっても、中身が微妙に違っているからである。江戸時代以前においては、書物を写したり、印刷をする時に、断りなく文章を付け足したり内容を書き替えたりしてしまうことは珍しくない。例えば「この部分は分かりづらいから表現を直しておこう」「この部分は説明が不十分だ、自分の知っている話を付け足しておこう」といった具合である。増補をする際には1巻丸ごと追加してしまう場合もあり、ひどい場合には本の題名まで変えてしまうことすらある。だから『甲陽軍鑑』同士の比較検討が重要となるのだが、信頼できないという色眼鏡が存在したために、このような地道で手間のかかる作業には手がつけられていなかった。それをはじめて、かつ厳密に行ったのが、酒井氏というわけである。
  酒井氏の研究の特徴は、”言葉”という観点から『甲陽軍鑑』を読み込んだことである。具体的には、『甲陽軍鑑』に書かれている日本語が、いつ頃使われたものかという観点から検討を行った。酒井氏の研究によれば、木版印刷本より写本の『甲陽軍鑑』の方が、元々の表記、内容に近いという。なぜならば、木版印刷本『甲陽軍鑑』は、ひらがなを漢字に書き改めたり、戦国時代の言葉を江戸時代の言葉に直したりという編集が行われていることが明らかになったからである。そして元々の『甲陽軍鑑』の言葉が戦国時代のものであったことから、戦国末期に生まれた小幡景憲が白紙の状態から創作したとは考えがたいと評価した。もうひとつ酒井氏が注目したのは、写本の『甲陽軍鑑』には「この部分は切れて読めなかった(ので写せなかった)」という注記があちこちに存在することである。なかには「半分以上読めなかった」という注記もある。木版印刷本では、そのほとんどが削除されていた。酒井氏はこれを、小幡が入手した『甲陽軍鑑』の原本がぼろぼろの状態であったため「読めなかった」ときちんと注記していたのに、木版印刷本では削除されてしまったのではないかと結論づけた。
  酒井氏の研究により、少なくとも『甲陽軍鑑』を小幡が最初から偽作したという疑念は払拭され、現在はこの酒井氏の研究を踏まえて、『甲陽軍鑑』の見直しが行われはじめている。
  そこでこのような酒井氏の検討を踏まえて、先述した問題点について、私見を述べてみることとしたい。まず執筆者〈高坂弾正〉の名前の問題だが、実は『甲陽軍鑑』の本文には「昌信」という間違った名前は一箇所も出てこないのである。「末書」という増補部分にのみ出てくる。「自分の名前を間違えるはずがないから、春日虎綱が書いたものではない」という批判は、誤解に基づくものであったことが判明した。また編集者の小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めており、小幡景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということができる。
  次に年代の間違いについてだが、『甲陽軍鑑』冒頭には「昔のことなので細かい年代は記憶違いが多い」という断り書きがある。確かに何十年も前のことや、自分が子供の頃の政治動向に、記憶違いや勘違いが多いことは自然なことであり、実際、後半(=春日虎綱の活躍と同時代)になるほど、内容の正確さは増している。
  また先述した「長篠の戦いの直前の軍議で長坂が主戦論を主張した描写があるが、実際には甲府にいた」など、事実とは異なる内容が書かれている箇所については、『甲陽軍鑑』が勝頼の側近を批判し、信玄の事績を教訓とする論理を展開する上で、意図的につくり出されたものがかなりあると考えられる。
  1575年(天正3年)5月、長篠の戦いがあった。この長篠の戦いで、武田勝頼は織田信長、徳川家康に大敗し多くの重臣を失った。戦死したメンバーには、東海地方の軍政を担当していた山県昌景、北陸担当の馬場信春、北関東担当の内藤昌秀、信玄の側近筆頭であった土屋昌続が含まれており、家臣団の中核を喪失するという惨敗であった。当然中堅以下の武士の損害も大きかった。『三河物語』という徳川氏家臣が後年書き残した記録によると、勝頼は兵員の不足を補うために、わずか12、13歳の子供まで動員せざるを得ない状況に追い込まれていったという。長篠の戦い後の状況が、いかに深刻であったかがよく分かる。
  『甲陽軍鑑』は、この長篠の戦いの直後に、春日虎綱が長坂釣閑斎・跡部勝資という武田勝頼の有力側近を諫めるというスタイルで書かれている。このスタイルから読み取れる春日虎綱の執筆動機は、事実を反映したものとみてよいであろう。春日虎綱は、長篠の戦いで敗れその後の苦境を生み出したのは、若い勝頼をそそのかして“冒険的軍事主義”に奔らせてしまった勝頼側近集団にあると考えた。そこで彼らを諫め諭すために、武田氏の全盛期を創出した信玄の教えを教訓として述べるという形で『甲陽軍鑑』をまとめたというわけだ。
  ただし、本当に春日虎綱が書いたにしては不自然な箇所がある点などを考えると、すべてを彼が著述したと考えるには慎重であらねばなるまい。とは言え、酒井氏の研究を踏まえて『甲陽軍鑑』を読み返すと、その原型の成立に春日虎綱が関与したことを、積極的に否定する材料は見あたらない。現在に伝わる『甲陽軍鑑』は、春日虎綱の著述が全てではないとしても、少なくとも信玄、勝頼に仕えた家臣によって執筆され、それに様々な記録が付け足されて流布したと考えたほうが自然であると、私は考える。

オリジナルを見極めることが重要!

  このように、『甲陽軍鑑』は史料としての価値が見直され、利用がなされるようになってきた。それは『甲陽軍鑑』の本来の姿はどのようなものであったかを追究し、その上で『甲陽軍鑑』の性格を考えるという作業を経て、はじめて可能になったことである。
  これは何も『甲陽軍鑑』に限ったことではないが、史料というものは、長い時間の経過や、多くの人手を介する過程で、様々な改変が加えられている可能性があるのである。
  さて、こうした改変に際して、他の史料の影響を受けることは当然あり得ることだろう。実は『甲陽軍鑑』は、江戸時代に広く刊行されたことなどにより、他の史料に多くの影響を与えている。極端な場合、『甲陽軍鑑』の記述を下敷きにして、ほとんど想像で話を膨らませたような史料すら存在する。こうした史料になると、戦国時代の出来事について書かれていても、戦国時代のことを考える材料として使うことは難しい。
  前回、「山本勘助に関する確実な史料は1点だけで、後は『甲陽軍鑑』に頼るしかない」と書いたのは、このためである。山本勘助が登場する史料の大半は、『甲陽軍鑑』が成立し、普及した後に、『甲陽軍鑑』の記述を膨らませて書かれたものであることが、様々な研究によって明らかにされている。
  繰り返しになるが、現在われわれが目にする史料は、本来の形がそのまま伝わっているとは限らない。また中には、他の史料を参考に一から作られてしまった史料も存在する。史料を読み解く際には、本来の姿がどのようなものであったかを常に考え、オリジナルに少しでも近づこうとする姿勢が不可欠であるといえるだろう。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

丸島 和洋

1977年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部非常勤講師。専門は、戦国大名論および史料論。甲斐の武田氏を主な題材に、戦国大名同士の外交や、戦国大名「国家」のあり方について追究をする日々を送っている。
主な著作:
『武田信虎のすべて』(分担執筆、新人物往来社)、『武田勝頼のすべて』(分
担執筆、新人物往来社)、『戦国遺文武田氏編』第六巻(共編著、東京堂出
版)、『戦国人名辞典』(分担執筆、吉川弘文館)

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