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Series 日系アメリカ人と日本人
二つの国の視点から 須藤 達也
10/08/31

第13回 カレン・テイ・ヤマシタ~自分の居場所を問い続ける日系3世作家

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

Kenny Endo
カレン・テイ・ヤマシタ
Photo by Mary Uyematsu Kao.

 今回は、日系アメリカ人の表現者の中で、とりわけ特異な才能を持つ、カレン・テイ・ヤマシタを取り上げたい。
 カレン・テイ・ヤマシタは、1951年にカリフォルニア州のオークランドで日系3世として生まれた。ミネソタにあるカールトン・カレッジで英文学と日本文学を専攻したが、1971年、日本の文化と文学を学ぶため、交換留学生として1年半早稲田大学に留学した。1975年、奨学金を得た彼女はブラジルの日系移民を研究するためにサンパウロに渡り、10年間滞在する。ブラジル滞在中にブラジル人と結婚して家庭を持ち、短編や戯曲を書き始める。1984年にアメリカに戻った後も創作を続け、ロサンゼルスのアジア系劇団、イースト・ウエスト・プレーヤーズ(EWP)のために多くの戯曲を書いている。この頃ロサンゼルスにいた私は、ヤマシタのHiroshima Tropicalという芝居を、当時サンタモニカ通りにあったEWPで観ている。日本に強い関心を持つ彼女は、舞台に能、歌舞伎、さらには舞踏の要素も入れている。
 1990年以降、ヤマシタはこれまでに5冊の本を上梓し、現在はカリフォルニア大学サンタクルツ校で、創作とアジア系文学を教えている。
 なお、彼女のミドルネームであるテイは祖母の名前で、正確には平仮名で「てい」。彼女自身は、自分の名前を、「カレンてい山下」と、片仮名、平仮名、漢字混じりで表記してほしいそうだが、本稿では、片仮名で統一したいと思う。

理想郷への共感と文明への問いかけ

Kenny Endo
『熱帯雨林の彼方へ』

 1990年、ヤマシタは、ミネソタにあるCoffee Houseという小出版社から『Through the Arc of the Rain Forest』(邦題『熱帯雨林の彼方へ』)、1992年に『Brazil-Maru』(ぶらじる丸)を出版した。どちらもブラジルでの体験をベースにした本だが、前者は主人公が、カズマサ・イシマルという人間に取り付いた球体という、奇想天外な発想の小説。他にも腕が3本あったり、乳房が3つある人物らが登場して、マタカンという大地の鉱物資源をめぐる抗争に巻き込まれていく。やがて鉱物資源を土台にしてできたマタカンの文明は崩壊してしまうが、森は再生しはじめていくという物語で、熱帯雨林を救いたいという思いで彼女はこの小説を書いたという。
 一方、『ぶらじる丸』では、1925年に日本から「ぶらじる丸」でサンパウロに移住してユートピアを目指したキリスト教社会主義者たちを描いた。ブラジル移民史であるが、単に出稼ぎで金を儲けて一旗上げて故郷に錦を飾ろうという移民でなく、志を持ってブラジルに骨を埋めようと思っている移民なので、日本人移民としては異色の集団だ。
 北米でも同様の移民集団があった。長野県安曇野で研成義塾を創設した、キリスト教徒の井口喜源治の弟子たちが、理想郷をつくろうと、1910年代に集団でシアトルに移住している。彼らが創刊した『新故郷』という同人誌のタイトルに彼らの思いが表されているし、彼らが始めた農場「共働園」に彼らの目標が見て取れる。「共働園」をはじめた一人、平林俊吾の息子の一人が、第二次世界大戦中に日系人強制収容所を拒否したことで知られるゴードン・平林である。他にも、銀座ワシントン靴店の創業者・東條タカシや、『暗黒日記』などで知られるジャーナリストの清沢洌が研成義塾出身である。

『Eternal Energy』
『Brazil-Maru』

『ぶらじる丸』ではサンパウロの奥地、エスペランサ(希望)という場所が理想郷に選ばれている。主人公のイチロー・テラダの家族は長野県松本の出身で、これはヤマシタ自身のルーツからとっているのだろうが、偶然にも研成義塾があった場所と近い。イチローは、日本への帰属意識のない、新しい感覚を持った人物として描かれている。また、この本に出てくる移民家族、ウノ家の長男であるカンタロウ・ウノはカリスマ性を持った事業家で、後に養鶏場で成功して卵王国を作るのだが、ロシアの文豪・トルストイや、日本の作家・武者小路実篤を読みふけるという場面がある。武者小路実篤は作家としてだけでなく、1918年に「新しき村」という共同体を宮崎県で創設した社会運動家でもある。トルストイも同様だ。そんなところにも、ヤマシタの社会に対する考え、あるいは理想郷への共感が見てとれるような気がする。カンタロウの卵王国は彼の独裁性のために結局は滅び、最後は飛行機事故で命を落とす。
 マジック・リアリズムとかシュールリアル・ファンタジーなどといわれる『熱帯雨林の彼方へ』と移民集団を描いた『ぶらじる丸』は随分違う印象を受けるが、文明が栄え、滅びた後、何が残り、人はどうするのか、という問いかけは同じだ。また、後者にも、イチローやカンタロウだけでなく、知的障害を持ったゲンジなど、さまざまな背景を持った人物が登場する。その点においても共通項があると言っていいだろう。『ぶらじる丸』は浅野卓夫氏が翻訳中と聞いている。出版の日を楽しみに待ちたい。


日本、ブラジル、アメリカの3つの視点

『ぶらじる丸』にこんな記述がある。

〈イチロー・テラダは、最近自分の孫が、大学農学部の入試に合格したことを誇らしげに語った。かれは、この達成をまるで自分のことのように喜び、こう話している。「日本人は、もともと大地とともに生きる人々です。原生林の処女地に移り住めば、人間はその大地に対して責任を担うことになります。農業によって大地のために力を尽くさなければなりません」。またその一方で、テラダは自分の孫娘についての複雑な想いも語る。彼女は成績優秀者として建築学科を卒業した。しかしブラジルでは安定した職が見つからず、彼女もまた、近年下層労働者として日本へと渡る、十五万人を超える日系ブラジル人のひとりとなった。〉(浅野卓夫訳)

『Jugoya』
『Circle K Cycles』

 最後の部分で、日本に労働に来る日系ブラジル人のことについて言及されているが、ヤマシタの『Circle K Cycles』(サークルKがめぐる)は、この部分に焦点を当てた作品である。『ぶらじる丸』が出版された5年後の1997年の3月から半年間、彼女は、愛知県の瀬戸市に家族とともに暮らした。そのときの体験が、リアルタイムでcafecreoleというウエブサイトで紹介され、2001年に本にまとめられた。彼女が住んだ瀬戸市にはコンビニのサークルKが多く、友人の家に行くにも、サークルKを目印に右折、あるいは左折していくことから、このタイトルがつけられた。
 この本の中で、日本に来て働いている日系ブラジル人がどのような暮らしをして、どのような問題に直面しながら生きているかを、ヤマシタは包み隠さず報告している。3月から8月まで、時系列で書かれているが、エッセイと物語が交錯し、写真やイラストも満載。横長の本で、さながらスケッチブックの体裁である。
 日本で生活するにはさまざまな規則に従わなくてはならない。騒音を立てるな、ペットを飼うな、ゴミは決まった日に出せ、組合費を納めよ、回覧板を回せ、共同清掃せよ、などなど。ヤマシタは、日本のルール、ブラジルのルール、アメリカのルールを解説し、文化の多様性を説く。彼女の場合、日本とアメリカという2つの視点に加えて、ブラジルがあるのが大きな特徴で、この3つの視点から彼女は物事を見つめていることが、彼女の作品を魅力あるものにしている。

祖父母につながる自分を確かめながら

『サークルKがめぐる』の序で、ヤマシタは、「純粋に日本的」という一文を載せている。20歳のときに留学生として初来日した彼女は、表向きは日本文化の研究だったが、実際にはほとんど、岐阜と長野で自分のルーツを探す旅に明け暮れていた。父方の祖父が岐阜県の中津川に近い小村の生まれで、母方の祖父母が長野県松本市の出身だった。日本人から時折、彼女は自分の祖先のことを尋ねられた。岐阜と長野の祖父母の話をすると、「それならあなたは純粋に日本人だ」という反応が一様に返ってきた。日本人のこのような発言は彼女を傷つけ、憤らせた。人種差別と闘う人が多いアメリカで生きてきた彼女は、人種の純血性など価値がないと思ってきたからである。しかし、一方で、受け入れられたい、帰属したい、という気持ちも強くあった。
 ブラジルにいるときも、純粋な日本人とは何か、がずっと彼女の心に引っかかっていた。ある時、1世のブラジル移民からルーツを聞かれた。岐阜と長野の話をするとその人は、純血の日本人が3世代のうちにこんなに変わってしまうとは、という驚きの表情で話を聞いていたという。
 ヤマシタは、日本のイメージというと、先ごろ亡くなった舞踏家の大野一雄、マツダRX7、それにピチカート・ファイブのボーカル・野宮真貴だと、この文章の中で語っている。また、「浦島玉手箱博物館」(『約束の大地/アメリカ』所収)では、「日本について書かれた本で私が一番好きなもののひとつに、茨城県土浦の最年長の老人たちに聞いた話を、佐賀純一という名の医者が転写しまとめたものがある。英訳が1987年に出版されていて、題名を『絹と藁―小さな町に見る日本の自画像』(日本語版は『田舎町の肖像』)という」と記している。佐賀がこの本で描いた日本は、19世紀の終わりから20世紀初めにかけての日本で、ヤマシタは、彼女の祖父母が知っていた日本と変わらないだろうと推測している。祖父母の日本の記憶と自分がつながっているという思いが彼女の中にあるのだろう。
 過去を確かめながら、今の自分の立ち位置を確認する。彼女は、アメリカとブラジルと日本を行き来しながら、常にその行為を繰り返しているのだろう。純粋に日本的とは何か、は、彼女にとっては自分を確認する象徴的な問いかけなのだ。今年出版された600ページを超える最新刊、『I Hotel』もまた、その問いかけの中で生まれた作品だといえる。

激動の10年に重ねた青春期

  I Hotelとは、かつてサンフランシスコのマニラタウンにあったInternational Hotel(国際ホテル)のことで、主にフィリピン系の低所得者層が暮らすアパートだった。
 1920年代によりよい生活を求めてアメリカにやってきたフィリピン人にとって、低料金で利用できるI Hotelは不可欠な存在だった。1950年代には、このホテルを中心として約1万人のフィリピン人が暮していた。

『On the way (Michi Yuki)』
『I Hotel』

 1968年の12月、ホテルのオーナーであるミルトン・マイヤー社は、ビルを駐車場にするので立ち退くよう、住人に通達した。この頃には、マニラタウンは、I Hotelがある一角だけになっていた。高齢者のために安い宿泊施設を提供してきたこのホテルを守ろうと、労働団体、教会、活動家などが抗議運動を起こした。その結果、ミルトン・マイヤー社が統一フィリピン協会(UFA)にホテルをリースすることになったが、その契約の前日にホテルで不審火が発生し3人の犠牲者が出た。契約は中断された。放火の疑いが強かったが、マイヤー社もサンフランシスコ市も事故扱いとし、市は同社に建物の取り壊しを命じた。その後の運動でホテルが期限付きでUFAにリースされたが、1977年8月4日の未明、武装した警官300名が、ホテルを囲む数千人のバリケードを突破して、最後の50人の住人が強制退去させられた。
 I Hotelというと、中国系の映画監督であるカーティス・チョイが1983年に制作したドキュメンタリー、「The Fall of the I-Hotel」(国際ホテルの陥落)を思い起こす。リアルタイムでカメラを回して作られたこの作品はアジア系コミュニティで話題になり、チョイは、アジア系のドキュメンタリー映画として一つの金字塔を打ち立てた。ヤマシタの『I Hotel』の最終章で描かれる強制退去の場面は、「国際ホテルの陥落」さながらで、活字にしても迫力を感じさせる。
 だが、ヤマシタが描くI Hotelは、単にこのホテルの顛末にとどまらない。物語は、アジア系アメリカ人の市民運動がはじまった1968年からホテルが陥落した1977年の10年間に、アジア系アメリカ人のコミュニティでどんなことが起き、人々がどんなことを考えてきたのかを克明に描いている。
 手法は前著の『サークルKがめぐる』と同じで、わかりやすく時系列に1年ごとの出来事を並べており、エッセイ、物語、戯曲、映画の脚本、漫画、イラストなどが入り混じる。さらに、孔子、マルクス、エンゲルス、レーニン、マルコムX、チェ・ゲバラ、フランツ・ファノン、フェルディナンド・マルコス元フィリピン大統領、イメルダ・マルコス夫人、ネルソン・マンデラ、リチャード・ニクソンらの数々の言葉の引用が散りばめられており、壮大なスケッチブックを手にしている感がある。
 さまざまな固有名詞は、差し支えないと考えられる場合は実名で、そうでない場合は偽名が使われている。偽名の場合は実名を推測するマニアックな楽しみもある。この本を書くにあたって、10年取材したというだけあって、その量たるや圧倒的で、アジア系アメリカの歴史や文化に多少なりとも関心を抱いてきた私も知らないことが多く、読むのにひどく手間取った。
 手を焼きはしたが、思った。ヤマシタが生まれたのが1951年。1968年から77年といえば、彼女が高校生から大学生、そしてブラジルに赴いた最も多感な時期である。この本は単にアジア系アメリカ社会が最も激動した10年を記録し紹介しているのではなく、その時代を自分がどう生きてきたかを振り返り、今の自分の位置を確認しているのだろうと。そう思うと、彼女のことが少しだけわかった気がした。
 徹底した取材の中で、対象者の声を選択しながら、あるいは選択を余儀なくさせられながら、重層的な物語を紡いでいく。それは、ヤマシタにとっての歴史であり、真実であるが、読者もその真実の一部を共有し、自分を振り返ることができる。読みながら、私もその作業をした一人だった。

 以上、1年と少し、日系アメリカ人をとりあげて、彼らの視点が私たち日本人にも何らかの参考になるのではないかという思いで連載を続けてきたが、ひとまず、今回をもって連載の最後にしたい。お付き合いしていただいた方、ありがとうございました。
(敬称略)

   カレン・テイ・ヤマシタの作品(英語)

  • Through the Arc of the Rain Forest , Coffee House, 1990
    邦訳『熱帯雨林の彼方へ』白水社 1994
  • Brazil-Maru, Coffee House, 1992
     抄訳「ぶらじる丸(抄)」『すばる』2008年7月号
  • Tropic of Orange , Coffee House, 1997
     抄訳「オレンジ回帰線」『10+1』 No.11 1997
  • Siamese Twins and Mongoloids, Yellow Light, Temple University, 1999
    邦訳「シャム双生児と黄色人種」『私の謎』岩波書店 1997
  • Circle K Cycles , Coffee House, 2001
     抄訳「サークルKがめぐる」www.cafecreole.net 1997
  • I Hotel , Coffee House, 2010
  参考資料
  • 『誇りて在り「研成義塾」アメリカへ渡る』宮原安春 講談社 1988
  • 「特別インタビュー カレン・テイ・ヤマシタ」『時事英語研究』1995年7月号
  • 「作家のラティテュード(緯度=自由度)」 今福龍太+カレン・テイ・ヤマシタ 『10+1』 No.11 1997
  • 「浦島玉手箱博物館」カレン・テイ・ヤマシタ『約束の大地/アメリカ』 みすず書房 2000
  • 「旅する声」カレン・テイ・ヤマシタ 『「私」の探求』岩波書店 2002
  • 「血液型」カレン・テイ・ヤマシタ www.cafecreole.net  2004
  • 『アジア系アメリカ作家たち』 杉浦悦子 水声社 2007
  • 「カレン・テイ・ヤマシタの「ブラジル丸」における日系ブラジル移民の挑戦:エコフェミニズムからの考察」島津信子 『九州工業大学学術機関リポジトリ』 2007
  • 「紳士協定」カレン・テイ・ヤマシタ 『すばる』2008年7月号
  • 「移民の声の共同体」今福龍太『すばる』2008年7月号

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PROFILE

須藤達也

神田外語大学講師

1959年愛知県生まれ。 1981年、上智大学外国語学部卒業。1994年、テンプル大学大学院卒業。1981年より1984年まで国際協力サービスセンターに勤務。1984年から85年にかけてアメリカに滞在し、日系人の映画、演劇に興味を持つ。1985年より英語教育に携わり、現在神田外語大学講師。 1999年より、アジア系アメリカ人研究会を主宰し、年に数度、都内で研究会を行っている。趣味は落語とウクレレ。
 
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