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Series 日系アメリカ人と日本人
二つの国の視点から 須藤 達也
10/05/31

第12回 ケニー・エンドウ ~"ダブル"の感覚で叩く和太鼓

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

 東京の浅草に太鼓館(ドラム・ミュージアム)という博物館がある。展示物に触ってもいけないのがほとんどの博物館であるなか、ここでは好きなように世界各地の太鼓を叩いていい。和太鼓の名店、宮本卯之助商店が1987年につくった世界でも珍しい博物館だ。
 太鼓館の元室長、越智恵は、以前、ロサンゼルスで開かれたTaiko Conference(太鼓会議)に参加した。「太鼓会議」は1997年にはじまり、会を追うごとに盛大になり、内容も充実してきている。さまざまな流派がいわば超党派で集まる会議で、派閥意識が薄いアメリカだからこそできる催しだと越智は話していた。
 宮本卯之助商店と強い関係を持っている日系アメリカ人の和太鼓奏者が、ケニー・エンドウである。同商店はこれまでケニーが出したCDの制作に携わっており、彼が東京に来たときはいつも宿泊施設などの面倒を見ている。

Kenny Endo
Kenny Endo
Photo: Toyo Miyatake

 彼が以前来日したとき、浅草のアリゾナ・キッチンという店で一緒に食事をした。「あめりか物語」を書いた永井荷風が通った浅草の名店で、今でも店内には荷風の写真が飾ってある。ケニーは実に温厚で、宮本卯之助商店の社長もその人柄が気に入っているらしい。
 北米の和太鼓は、創始者の田中誠一が第1世代とすると、弟子のケニーらが第2世代、ケニーの弟子のマサト・ババらが第3世代と言える。本稿では、ケニー・エンドウに焦点を当てながら、3代にわたる北米和太鼓を通観したい。

アメリカにおける草創期

 北米の和太鼓の歴史は、1968年にサンフランシスコで和太鼓の指導をはじめた田中誠一によって、その幕を開けた。
 長野県で育った田中は、小さいころから和太鼓に親しみ、中学生のときに小口大八が率いる「御諏訪太鼓」に入門しようとしたが、門外不出を理由に、入門が許されなかった。だが、1967年にアメリカに渡り、アメリカで和太鼓を広めたいという意思を伝えると、入門が許され、それが「サンフランシスコ太鼓道場」の結成につながっていく。
 翌1969年には、ロサンゼルスの洗心寺で「緊那羅太鼓」(キンナラ・ダイコ)が日系3世の開教師であるマサオ・コダニや、1974年に結成されたフュージョンバンドの「ヒロシマ」でも和太鼓奏者として活躍したジョニー・モリらによって設立される。緊那羅とは仏法の守護神の一つで、音楽の神様である。いかにもお寺から生まれたグループらしい命名だ。
 精神性を重んじ、強力な指導力を発揮した田中と違い、緊那羅太鼓には確固たる指導者がいない。人間関係に上下もない。太鼓の叩き方は、当初、『無法松の一生』で太鼓を叩く三船敏郎などを参考にした。偶然同時期にカリフォルニアで生まれた2つのグループだったが、考え方の相違のため、両者には大きな摩擦があったという。
 緊那羅太鼓の一番の功績は、何といってもワイン樽を利用して和太鼓をつくることを考案したことである。これには日本生まれの田中も気づかず、感心した。この発案により、太鼓が全米に広がることになった。
 70年代に入ると、「サンノゼ太鼓」が設立された。ロサンゼルスと同じく、仏教会が母体となり、日系3世が中心となったが、技術的にはサンフランシスコの田中の指導を受けている。
 1979年にはニューヨークで「ソウ・ダイコ」(僧太鼓)が生まれた。こちらも田中誠一の教えを受けたグループで、この辺りまでを第1世代と呼ぶことにする。
 第1世代の時代をアメリカの社会状況と比べてみると、ちょうどアジア系アメリカ人が、自分たちのアイデンティティに目覚め、大学にアジア系アメリカ研究の学科を要求した時期と重なる。日系人にとって和太鼓が、自分たちの民族性を自覚し、それを表現するものであり、さらにはステレオタイプを破るものであったことを考えると、田中誠一の出現は、偶然とはいえ、実にタイムリーだった。
 また、日本でも、「鬼太鼓座」(おんでこざ)が佐渡で結成されたのが1969年、そこから「鼓童」が枝分かれしたのが1981年と、従来とは異なった太鼓グループが同時期に生まれたのは興味深い。両グループは日本の若者にも、日系人を含めたアメリカの若者にも強い影響を与え続けている。

和太鼓に衝撃を受け、日本へ

Kenny Endo
Kenny Endo
Photo:Shuzo Uemoto

 第2世代は、冒頭で紹介したケニー・エンドウを中心とした世代で、80年代から90年代に創設された太鼓グループとする。ケニーは、1953年にロサンゼルスで生まれた。父が1世で母は2世なので、父親から見れば2世、母親から数えれば3世、中間をとって2.5世ともいえるだろう。
 ケニーは幼いころからドラムが好きな子供で、中学生の頃にはすでにドラムのレッスンを受けている。高校生になると、ジャズバンドを結成し、演奏活動をするようになり、大学生の時には、ドラマーとして稼ぎながら授業料を捻出した。そんな彼が和太鼓に出会ったのは1973年、大学2年の時のことだった。サン・ノゼで「サンフランシスコ太鼓道場」の演奏を聴き、衝撃を受けた。
 同年、ネイティブ・アメリカンの居住区で働く機会を得たケニーは、彼らの音楽や社会的状況を知り、自分自身のルーツの文化を学ぶべきだと実感した。
 そして2年後の1975年、ついに彼はロサンゼルスの「緊那羅太鼓」の門を叩き、和太鼓の世界に足を踏み入れる。翌年、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)を卒業すると、サンフランシスコに居を移し、「サンフランシスコ太鼓道場」で田中の教えを受ける。それから5年間、ケニーは和太鼓を勉強しながら、ドラマーとして生計を立てていたが、どちらかを選択する必要性を感じ、和太鼓を選んだ。そして、さらに研鑽を積むために、1980年から10年にわたって日本に滞在することになるのである。
 ケニーはまず、田中が師事した長野県、「御諏訪太鼓」の小口大八の教えを受けた。小口は1950年代に組太鼓を発案して、太鼓の歴史を一変させた人である。それまで、太鼓の演奏は1人か2人でやるものだった。ケニーは半年後に東京に移り、テンポがよく、斜め打ちを考案した「大江戸助六太鼓」を学んだ。1981年には望月左武郎の下で邦楽囃子の門下生となり、1987年に望月太二郎の名前をもらい、外国人としてはじめての名取となった。
 1982年には、助六太鼓の団員となり、プロの和太鼓奏者として、北海道から鹿児島までツアーをし、1990年にアメリカに帰国した。
ほんの1、2年の滞在のつもりが、10年の長きにわたった。それだけ和太鼓の世界の奥深さに、彼は魅了された。今でも訪日した際には、望月の稽古を受けている。

撥に託す平和への思い

『Eternal Energy』
『Eternal Energy』

 帰国後、彼は「ケニー・エンドウ太鼓アンサンブル」を結成し、ハワイを本拠地として全米で活動を続けている。海外での公演も多く、日本をはじめ、イギリス、ドイツ、ベルギー、チェコなどのヨーロッパ諸国、ブラジル、アルゼンチンなどの南米諸国、またインドや香港でも公演を行っている。
 彼の音楽自体にも、アフリカ、インド、ブラジルなど、さまざまな国の音楽の要素が取り入れられている。大学時代にも民族音楽を勉強しているから、もともと関心が強かったのだろう。

『Jugoya』
『Jugoya』

 1994年にリリースされたデビューアルバム、『Eternal Energy』(永遠なる力)には、ブラジル音楽のリズムを取り入れた「シンメトリカル・ランドスケープ」、ネイティブ・アメリカンの生活からヒントを得た「ハバスパイ」、ハワイアン音楽から影響を受けた「夢のパフ」、黒人音楽に触発された「クラリティ」という曲などが収録されている。1998年に出された『十五夜(Jyugoya)』にも、ラテンのリズムに影響を受けた曲が含まれており、元来キューバの民族楽器だったコンガが、締め太鼓と一緒に用いられている。インドの管楽器、バンスリも彼がコンサートでよく用いる楽器の一つだ。最新作の『道行き(On the way)』(2007)では尺八奏者のジョン・ネプチュン海山と共演している。

『On the way (Michi Yuki)』
『On the way (Michi Yuki)』

 ケニーがさまざまな民族音楽との融合を試みているのには理由がある。彼はいう。
「私の願いは、演奏活動を通じて西欧的な背景の中に、日本の心を融合させていくこと。そして、平和を単なる理想としてだけでなく、実現可能な現実のものだという立場から、世界各地の様々な民族文化を融合させるような音楽をつくることだ」
 1970年代の後半、彼はインドのシタール奏者、ラビ・シャカールのコンサートを聴いて、音楽が持つたくましさと美しさを体験した。
「世界の指導者らがこの音楽の美しさによって心を開いたなら、世界から戦争はなくなるだろうと純粋に思うことができた。これがどんなに純真すぎる考えであっても、私は音楽が単に楽しみや時間つぶしのためにあるのでなく、人々に影響を与えるものだと信じている」
 ジョン・レノンの「イマジン」や、マイケル・ジャクソンやステーヴィー・ワンダーらが集まってレコーディングした「ウィー・アー・ザ・ワールド」などは、平和へのメッセージ性が極めて高い歌だが、そう思っていても、音楽は平和のメッセージだとはなかなかストレートに言えるものではない。
 ケニーの場合は単に平和を語るだけでなく、音楽をその実践の場としているので、そう言い切れるのだろう。
 10年間日本で修行し、名取の資格まで得た彼だから、日系人の奏者の中で彼ほど日本の技術と精神を受け継いでいる人はいないだろう。でも彼は、自分の音楽は純日本のものではないという。アメリカと日本の両方の産物だと考えており、自らのアイデンティティも日米の両方だと感じている。浅草で彼に会ったとき、レジー・ライフという映画監督が日本とアメリカの「ハーフ」の人たちをインタビューして『ダブル』という映画を作っていますね、と私がいうと、あの映画監督とは友人で、自分もまさに「ダブル」の感覚を持っているとケニーは話していた。
 日米のダブルの感覚で、しかも世界各地の民族音楽を取り入れたケニーの音楽は、彼だけの音楽だと言えるし、逆に世界の音楽ともいえるだろう。

新世代がみせる多彩なパフォーマンス

DVD『The Spirit of Taiko』
北米太鼓3世代:左からケニー・エンドウ、田中誠一、マサト・ババ
DVD『The Spirit of Taiko』
北米太鼓3世代:左からケニー・エンドウ、田中誠一、マサト・ババ

 21世紀になって生まれた太鼓グループを第3世代とする。その代表格が、ケニーの弟子であるマサト・ババだ。両親のラッセル・ババ、ジーン・アイコ・マーサーも田中誠一に師事した太鼓奏者で「シャスタ・タイコ」の創設者。マサトは6歳から太鼓の撥を持っていたというから、日系和太鼓の申し子のような若者である。2002年に「オン・アンサンブル」を結成した。
 彼と共にオン・アンサンブルで活動しているのがミッシェル・フジイである。ミッシェルは、1974年にカリフォルニアに生まれた日系4世。2003年に私どもが主宰するアジア系アメリカ人研究会にゲストで出ていただき、和太鼓と踊りのパフォーマンスを披露してくれた。
 北米の和太鼓チームは現在200を超え、女性だけのチームあり、子供のチームありで、人種も日系アメリカ人に限らず他のアジア系アメリカ人、さらには白人、黒人も参加し、日本の音楽から日系アメリカ人の音楽、アジア系アメリカ人の音楽、さらにはアメリカの音楽へと発展している。
 演奏の仕方も実にさまざまだ。インド舞踊と共演する「緊那羅太鼓」、お面を被って演じながら太鼓を打つ「シャスタ・タイコ」、エレキギターとジャムセッションをするバンクーバーの「ラウド」、タップダンスと共演する「LAタイコセンター」など、グループによっていろいろな工夫があり、娯楽性が高い。ケニーは組太鼓だけでなく、ソロ奏者としても活動し、ホノルル交響楽団との共演も果たしている。
 こういう動きに対して、和太鼓本来の精神性が失われているという批判もある。でも、音楽の一形態として普及することは、それはそれでいいことなのだと私は思う。和太鼓のコンサートは聴覚だけでなく、視覚で楽しむ部分も大きい。日本には約500のグループがあるが、九州を本拠地としている「TAO」というグループの演奏は、美しいとしかいいようのないほどだ。日本の和太鼓もまた、発展、進化している。
 和太鼓の演奏の中に、そういった美しさやたおやかさ、あるいはたくましさを感じ、人の心の中に一時でも平穏が訪れるとすれば、ケニーが語る平和への理想も、少しは現実に近づくかもしれない。

(敬称略)

   ケニー・エンドウのCD

  • Eternal Energy, Asian Improv Records, Kenny Endo, 1994
  • Jugoya, Bindu, Kenny Endo, 1998
  • Hibiki, Bindu, Kenny Endo, 2000
  • Essence , Sony, Kenny Endo, 2001
  • On the way (Michi Yuki), Kenny Endo, 2007
  参考資料
  • 「タイコにみる伝統の創造」『日系アメリカ人の歩みと現在』人文書院 寺田吉孝 2002
  • 「海を越える日系太鼓 ミッシェル・フジイの世界」 第18回アジア系アメリカ人研究会・パンフレット 2003年5月12日
  • 「選択的・戦略的エスニシティ 和太鼓と北米日系人コミュニティの再創造/再想像」『日系人の経験と国際移動』人文書院 和泉真澄 2007 
  • 「アメリカにおける和太鼓の起源と発展」『言語文化』11-2 同志社大学言語文化学会 和泉真澄 2008 
   参考DVD
  • Taiko Project: reGENERATION, TAIKOPROJECT 2004
  • Big Drum: Taiko in the United States, Japanese American National Museum, 2005
  • The Sprit of Taiko, Bridge Media, 2005
  • Taiko Project: Rhythmic Relations, TAIKOPROJECT 2006
  • On Ensemble, OnEnsemble, 2007
  参考ウエブサイト

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PROFILE

須藤達也

神田外語大学講師

1959年愛知県生まれ。 1981年、上智大学外国語学部卒業。1994年、テンプル大学大学院卒業。1981年より1984年まで国際協力サービスセンターに勤務。1984年から85年にかけてアメリカに滞在し、日系人の映画、演劇に興味を持つ。1985年より英語教育に携わり、現在神田外語大学講師。 1999年より、アジア系アメリカ人研究会を主宰し、年に数度、都内で研究会を行っている。趣味は落語とウクレレ。
 
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