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Series 日系アメリカ人と日本人
二つの国の視点から 須藤 達也
09/10/31

第6回 アケミ・キクムラ=ヤノ
~ミクロとマクロの視点で日系人史を再構築する人類学者

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

 日系2世のアケミ・キクムラ=ヤノは、昨年(2008年)2月、ロサンゼルスのリトル・トウキョウにあるJapanese American National Museum(全米日系人博物館 )のCEO(最高経営責任者)に就任した。全米日系人博物館は、日系アメリカ人の体験を伝えるアメリカで初めての博物館で、1992年に開館し、1999年には新館がオープンした。日系アメリカ人に関する資料の収集、展示会やイベントの開催、書籍やDVDの作成と販売、ウェブサイトの運営などを行い、日系人の歴史を世界に発信している。私もロサンゼルスを訪れたときは必ず立ち寄ることにしており、展示物を見るだけでなく、ヒラサキ・ナショナル・リソースセンターと呼ばれる資料室で、本や雑誌、ビデオなどを利用させていただいている。
 キクムラは、同博物館が開館する前の1988年から20年にわたって初代の館長を務めた、アイリーン・ヒラノの後任である。2代続けての女性館長の誕生だ。

収容所での経験を語らない両親のもとで

フィリップ・カン・ゴタンダ
アケミ・キクムラ=ヤノ
写真提供:全米日系人博物館
 キクムラは1944年、アーカンソー州のローワー収容所で、1世の菊村三郎と千枝の間に10女として生まれた。収容所を出てからカリフォルニア州のローダイ、その後はロサンゼルスで育ち、教育を受けた。一番上の兄妹とは20歳の開きがある。兄妹たちの話に入っていくことができず、いつも身を屈めてじっと話を聞いていた。親が収容所の話をすることはなかったが、それが家族の重要な歴史になっていることには気づいていた。なぜなら、両親にとって収容所前、収容所後、が記憶の基準になっていることが、言葉の端々から感じられたからである。
 ハイスクールの学期末レポートで家族の収容所体験を書こうと決めた。日系人の収容所に関して、歴史の教科書が「第2次大戦中、日系人は保護されるため、収容所に収容された」という一文で片付けていることに疑問を抱いたからである。しかし、母親に尋ねてみると、「収容所、あの頃はよかったわね」などと話をかわされてしまい、あまり話を聞くことができなかった。父、三郎は彼女が9歳の時に不慮の事故で亡くなっており、話を聞く機会を逸していた。
 三郎は歌や踊りが上手で、人を楽しませるのが好きな人だったらしい。アケミもその血筋を引いているのだろう。ハイスクールを卒業すると、姉の一人とラスベガスに行って、2年間、コーラスガールとして踊った。62年には、「The Nun and the Sergeant」(日本未公開)という映画に出演している。ラスベガスにいるときに、白人の元夫と知り合って結婚し、夫の勧めで夜間の大学にいって演劇を勉強した。

日系人アイデンティティを再認識したUCLA時代

 その後、夫の転任でロサンゼルスに移り、キクムラはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で勉学に打ち込むことになるが、マコ・イワマツがたちあげたアジア系の演劇集団、イースト・ウエスト・プレイヤーズ(EWP)に属して、演劇活動も続けていた。70年代にキクムラは、「Farewell to Manzanar」(1976)、「Man from Atlantis 」(1977)、 「Up in Smoke」(1978)という3つの作品に役者として出演している。
 とりわけ、「Farewell to Manzanar(マンザナーよ、さらば)」は、日系映画史の中で特筆すべき作品である。ジーン・ワカツキ・ヒューストンによる同名の小説をドラマ化したもので、戦時中の日系収容所の一つ、マンザナーでの筆者の家族の体験を描いている。配役にはマコ・イワマツ、パット・モリタ、ユキ・シモダ、ノブ・マッカーシーら、そうそうたる日系俳優を揃えている。キクムラは、ワカツキ夫妻の子供の一人を演じおり、両親の銀婚式の場面で「支那の夜」を歌っているのがとても印象的だ。
 60年代から70年代にかけて、エンターテインメントの世界と学業を両立させ、さらには結婚、出産、離婚まで経験したキクムラだが、この時期は、黒人の公民権運動と相まって、アジア系アメリカ人が自分たちのアイデンティティを意識し、権利を主張した時期でもある。こうした政治的背景の中で、キクムラは他の多くの2世と同じように、それまで使っていたアメリカ名のスーザンをやめて、アケミという日本名を使い出した。
 UCLAでは大学院に進み、1975年から我妻洋教授のもとで人類学を学んだ。我妻から、博士論文として母、千枝の個人史を聞き書きすることを勧められた。そのためには日本語を学び、日本で母の兄妹や父の親類からも話を聞く必要があった。周到な準備をして、77年の秋、ついにアケミは来日して調査にとりかかった。無事、論文を書き上げて79年に博士号を取得。その成果は81年に『Through Harsh Winters』というタイトルで出版された。10年後の1991年には父、三郎の個人史を『Promises Kept』にまとめた。

全米日系人博物館での精力的な活動

全米日系人博物館の新館(1999年開館)
全米日系人博物館の新館(1999年開館)
撮影:須藤達也

 大学で教鞭をとる傍ら、キクムラは80年代後半から全米日系人博物館の学芸員を務め、オレゴンやハワイなどの日系人の展示を企画、制作してきた。展示の際には、我妻のもとで培った個人史の手法を重視した。博物館の展示で取り上げる地域が決まると、現地でボランティア組織をつくって日系人の個人史を拾い集め、そこから集合的な物語をつくっていくのである。彼らの声は、写真、生活資料、映像、復元された日系人強制収容所のバラックと一体になって来館者に語られていく。

『Encyclopedia of Japanese Descendants in the Americas』
『Encyclopedia of Japanese Descendants in the Americas』
『New Worlds, New Lives』
『New Worlds, New Lives』

 彼女はまた、同博物館のニッケイ・レガシー・プロジェクトの根幹であるウェブサイト「ディスカバー・ニッケイ」の責任者でもある。ここでもやはり、個人史の集積、という概念が生かされている。個人史を文字、声、映像で残していくのに、ウェブサイトほど優れた媒体はないであろう。
 また、1998年から2001年まで同博物館主催の「国際日系研究プロジェクト」の責任者をつとめ、グローバル化のなかの日系コミュニティ、さらにはラテンアメリカ諸国からの日本への出稼ぎまで対象として共同研究を進めた。その成果は、2002年に『Encyclopedia of Japanese Descendants in the Americas(アメリカ大陸日系人百科事典)』と、『New Worlds, New Lives: Globalization and People of Japanese Descent in the Americas and from Latin America in Japan(日系人とグローバリゼーション-北米、南米、日本)』という2冊にまとめられ、世に出された。

戯曲「賭博場」で扱った衝撃のテーマ

サンタモニカ通りにあったEWPのビル
サンタモニカ通りにあったEWPのビル
撮影:須藤達也

 私がキクムラを知ったのは、1985年2月8日、当時、ロサンゼルスのサンタモニカ通りにあったEWP(現在はリトル・トウキョウにある)でのことだった。この頃、ロサンゼルスに住んでいた私はEWPの作品は欠かさず観にいっていた。この日、彼女が書いた戯曲、「The Gambling Den (賭博場)」という作品が上演された。アメリカ日系人社会における被差別部落の問題を取り扱った芝居で、私は椅子からすべり落ちるほど強い衝撃に襲われた。アメリカで日本の被差別部落のことを考えさせられるとは思ってもみなかったし、日系社会にそのような差別があることを知らなかったからである。それも演劇という媒体を通して、というのがショッキングだった。
 この劇は、Play in Progress、つまり進行中の段階の作品で、試行錯誤しながら完成させていこうというものだった。そのため、公演後に役者、演出家、脚本家らと観客との間で討論会がもたれた。私も思わず手を挙げてキクムラに質問した。
「アメリカ日系社会の被差別部落のことを知って驚きました。ご存知でしょうが、日本ではタブー視されている問題です。そういった問題をアメリカで取り上げようと思われたきっかけは何ですか」。キクムラの答は次のようなものだった。
「私はUCLAの我妻洋教授のデシです(彼女は、ここだけ「弟子」という日本語を使った)。教授の下で人種や差別の研究をしてきました。アメリカには黒人問題というおおきな人種問題がありますから、このようなテーマをアメリカ人に提起しても必ずわかってもらえると思って書きました。私は芸術が好きですから、戯曲という形で、差別がいかに愚かなことであるかを表現したかったんです」
 なるほど、と納得した。人が他国に移住する理由はさまざまだろうが、貧困と差別が大きな要因であろう。でも、往々にして、そのどちらもが移住先で移植されてしまう。この芝居をみるまで、そういうことに気づかなかった。

日系社会にひそむ差別への思い

 日系アメリカ人の歴史をちゃんと知らなければいけない。彼女の芝居をみて強くそう感じた。翌日、私は早速UCLAの図書館にいって、この問題を調べた。我妻洋がHiroshi Itoの名前で書いた「Japan’s Outcastes in the United States(アメリカにおける日本の被差別部落)」という論文を読み、戯曲の背景を理解した。後に、あべよしおが書いた小説『二重国籍者』や、ワカコ・ヤマウチの戯曲、「And the Soul Shall Dance(そして心は踊る)」が日系社会の差別に若干触れていることを知ったが、正面きってこの問題を扱っている研究も文学作品も少ない。証明が不可能、同和問題が悪用される、意味がない、などの理由で避けられることが多いからだ。
『絶望の移民史』(毎日新聞社、1995)という本がある。移民史を研究している高橋幸春が書いた本で、この中に、「満州に住めば差別は解消する―下村春之助」(『更正』1941年6、7月)という資料が掲載されている。下村はこの中で「差別観念とは個人意識ではなく社会意識であるが為に、個人がその社会を離れればその差別観念は個人の心の中から遠のいていくのである」と切々と論じて移住を勧めている。
 だが、実際には、個人がその社会を離れても、差別観念は心から離れていかない。社会が個人についてまわるからだ。移住先の社会が小さい場合、むしろその観念が増幅されることもある。満州の場合は国策としての移住なので、アメリカの日系移民と同じではないが、移民と差別意識というのは共通の問題だ。日系社会の場合、とりわけ差別の対象になったのは、被差別部落と沖縄の出身者である。沖縄出身者への差別は、キクムラが母、千枝のことを書いた著作にも出てくる。彼女の差別への関心は、我妻洋の教えだけでなく、そんな身近なところにもあっただろうと思う。
 1995年に全米日系人博物館を訪ねた時、キクムラにあの戯曲の台本について聞いた。どこにいったのか自分でもわからない、とかわされてしまった。ともあれ、私が日系アメリカ文化、あるいはアジア系アメリカ文化にずっとこだわっているのは、彼女の戯曲を見たことが大きなきっかけだったことは間違いない。

アケミが開いた母の心

『Through Harsh Winters』
『Through Harsh Winters』
 キクムラの研究者としての業績は、『Through Harsh Winters』からはじまった。彼女の母の個人史で、同書は『千枝さんのアメリカ』という書名で、我妻洋の妻、我妻令子によって日本語に訳出され、1986年に日本で出版された。アケミの師である我妻洋は前年に病で倒れ、訳本を見ることなく他界している。
 千枝はもともと日本語でアケミのインタビューに答えているので、訳者自身も千枝に会って話を聞き、広島出身の千枝の日本語を忠実に再現している。また、訳者の解説も著書のかなりの部分をしめているので、キクムラと訳者の共著、という形になっている。一度、訳者から話をうかがったことがあるが、英語を千枝の言葉で再現するのは大変な作業だったらしい。
『Through Harsh Winters』は、厳しい冬を通して、という意味だが、「冬来たりなば春遠からじ」、あるいは「苦あれば楽あり」という日本の諺を英語にしたもので、我妻洋の助言でつけられたタイトルだ。千枝の幼少期から、結婚、渡米、収容所、収容所後の生活、と年代順に千枝の歴史を追っている。それは、時に赤裸々で、本を出版してからアケミが他の兄妹から批判されたというのも、わからないではない。
 キクムラもそれを考慮してのことであろうが、原著では両親とも本名が使われていない。
 母方の藤村家は佐藤、父方の菊村家は田中になっており、父親の名前は三郎で本名通りだが、母親はミチコになっている。それでも、特に一家の貧しさや、父親の三郎が博打に浸り、ついには刑務所に入ったこと、娘たちの半数が離婚したことなどは、他の兄妹にとっては「恥」にしか映らなかったようだ。
 でも、読者としては、飾られていない話ほど魅力的なものはない。麻薬中毒にかかったように博打にのめり込んでいく三郎の様子や、結婚や離婚をめぐる母と娘の葛藤などは、現実性があってひきこまれる。また、1924年以降は移民が禁止され、写真結婚の形で日本から女性を呼び寄せることもできず、日系社会に女性が少なかったため、日系の男たちは性的に鬱屈していた。千枝の語りから、そんな社会の様子もよくわかるのである。
 千枝は、渡米する前に同郷の菊村三郎と結婚し、排日移民法が成立する前年の1923年、19歳のときに家族の反対を押し切って三郎と一緒に渡米した。アメリカの生活は想像以上に大変だったが、家族の反対を振り切ってアメリカに行ったため、弱音を吐くこともできず、家族にずっと連絡をとらなかった。母親の死さえ知らず、千枝はずっと家族に対して負い目をいだいていた。彼女が日本の兄妹と連絡をとるようになったのは、アケミが論文執筆のために日本に行くことになったからである。
 アケミの人類学が、ずっと閉ざされていた母、千枝の心を開いた。学問の力も捨てたものではない。千枝は日本を訪れることはなかったが、その後も日本にいる兄妹と文通を続け、1989年に85歳でこの世を去っている。

父の教えを受け継いで

『Promises Kept』
『Promises Kept』
 キクムラが自分史を完結させるためには、父、三郎のことも書く必要があった。三郎は1953年、アケミが9歳のときに不慮の事故で亡くなっていたため、母のときのように本人からの聞き書きができず、彼の周囲にいた人たち、すなわち、母、兄妹、日本の親類などから話を聞く必要があった。そのため、三郎のことをまとめた『Promises Kept(守られた約束)』を完成させるのに、一作目の『Through Harsh Winters』から10年を要した。守られた約束とは何だったのか、若干ミステリーでも読むような気持ちでこの本を読み始めた。
 聞き取り調査のうち、彼女にとって、とりわけ長男、ケンジが難題だった。年が17歳も離れていることに加え、三郎が亡くなってからはケンジが家庭の中で家父長的な役割を果たしていたため、怖くて子どもの時からまともに口を聞いたことがなかったからである。
 しかし、この聞き書きによって、長年緊張関係にあった兄妹関係が打ち解けはじめた。アケミの研究は、母だけでなく、兄妹関係にも大きな影響を及ぼしたのである。
 三郎は博打に身を任せていたが、子どもへの躾は人一倍厳しかった。良くも悪しくも、日本の伝統的価値観を叩き込んだ。また、苦労は買ってでもさせろ、というのが子どもへの方針だった。たとえば、学校の帰りに大雨が降れば、他の親は子どもを迎えにいったが、三郎は決して行かず、雨の中、学校から家までの5キロの道のりを歩かせる親だった。
 三郎は亡くなる直前、「北米毎日新聞」のコンテストに応募し、採用されている。自分の趣味と、人生において重要なことを書きなさい、という趣旨の文章を募集したものだったが、本人は掲載されたことを知らず、あの世に旅立っている。掲載された三郎の文章は次のようなものだった。

 明朗 行儀正しく養育すること
 銘酒一本 釣りを
 相互了解 団結一致
 義務を守り
 一般社会に 融合すべし


 父を理解するため、アケミはこの文章を幾度となく読んだ。趣味の酒と釣りを含めて前半はわかる。でも、後半がわからなかった。三郎は家庭ではまったく逆のことをしていたからである。ケンジによれば、そんな矛盾を三郎は自身で嫌悪していた。また、一旗上げて故郷に錦を飾ることができない自分に失望していた。
 厳しい躾のため、子どもたちは皆父を恐れ、中には嫌う者もいたが、亡くなってからは彼の教えに感謝し、自分の子どもにも同様の躾をすることがあるという。たとえばお金について三郎は子どもたちにこう教えた。
「貧乏であることを恥じてはならない。お金は社会で一番大切なものではない。大事なのは、力と勇気である」
 アメリカ社会でマイノリティとして生きていくことについては、協調性や観察力を持つこと、また、攻撃的にならない程度の自己主張をする必要性を説いた。
 日系3世の子どもを持つアケミにとって、父のこの教えは大切なものだった。アケミにはグレッグという長男がいるが、学校でいじめられ、日系人としての誇りをなかなか持てずにいる。彼女は時間をかけて、日系人であることがどういうことなのか、父の教えをもとに息子に伝えようとしている。
 三郎の薫陶は主に夕食時に授けられた。
「身に着けるものは非常に大切だ。就職の際、面接でいい加減な格好をしていたら、いくらすばらしい人物であってもだらしなく思われる」
「人の言うことをよく聞きなさい。でもそれを盲目的に受け入れてはならない。用心しなさい。語られない言葉、隠された動機を読み取りなさい。表情を読み取って相手の一歩先をいきなさい。相手の声の調子に耳を傾け、顔の表情を観察し、何を喜ぶかに注意しなさい。そして自分が話す番がきたら、ちゃんと自己主張しなさい。自分が考えていることを伝え、相手の目を見なさい」
「常に他人に感謝の気持ちを持ちなさい。他人から学べること、他人からしてもらったことに感謝しなさい。人に好かれるようにしなさい」
 などなど。そして、本の最後は、母千枝と父三郎の架空の会話で締めくくられている。
「子どもたちにはよかったかな?」
「何が?」
「おれの教えだよ」
「そりゃよかったですよ」
「あいつらも俺の言葉の価値がいつかわかる。俺はずっとそう思っていたよ。皆、元気でやっているかい?」
「ええ、11人とも元気ですよ」
「物質的な富は残せなかったけれど……」
「教えを残してくれたでしょ。ケンジはそのほうが価値があると言っているわよ。絶対に失われるものではないから。毎日の生活にいかせるものですから」
「ケンジがそう言ったのかい? 他にケンジはなんて言ってた?」
「ケンジが言えないこともあって、私は今でもわからないの」
「たとえば?」
「日本でのあなたの生活。あなたの家族やあなたのお父さん」
「あいつめ! 子どもたちは家族の大切さ、暖かさがいつもわかっているはずだ。それは俺が約束したこと。それから、子どもを捨てて他人に育ててもらったりはしない。それも俺が約束したこと。ケンジはそのことをお前に話さなかったのかい?」
「もちろん、それは話してくれたわよ。約束は守られました。あなたは私たちのことを決して見捨てなかったし、今でも私たちと一緒にいるんです」
 アケミは今、千枝と三郎の子であることを誇りに思っている。

「もし日本にいたら・・・」1世女性たちの人生

 キクムラは、母以外の1世女性からも聞き書きを行っている。それをまとめたのが『Mukashi Banashi: stories of the past from Issei Women in Fowler, California(昔話-カリフォルニア州、ファウラーの1世女性たちの物語)』で、『Promises Kept』でも、最終章にこのときの話が引用されている。
 1981年の夏、彼女はカリフォルニア州フレズノのファウラーという小さな農村で調査を行った。ファウラーを選んだのは、この地が日本人が農業のために移住した最初の村の一つだったからである。1900年以前には、17人の1世男性しかいなかった日本人が、20世紀になると急激に増え、ファウラーは農業を営む日系社会有数のコミュニティになった。
 彼女が聞き取りを行ったのは、1911年から23年にかけてこの地に移住した7人の1世女性で、年齢は76歳から89歳。1世の聞き取り調査を行うにはこの時期を逸しては無理だっただろう。7人のうち、5人は日本で結婚して渡米したが、2人はいわゆる写真花嫁で、写真での「お見合い」だけで、日本からアメリカに呼び寄せられた女性である。 
 写真花嫁で渡米したら、相手は自分よりもずっと年上で、年齢差を隠すために老け顔にしたり、地味な服を着るようにしたという話にはじまり、さまざまな苦労が彼女たちの口から語られる。想像以上に過酷なアメリカの生活環境、日本人社会と中国人社会との確執、移住初期の強い孤独感と望郷の念、博打に興じる男たち、仕事が忙しすぎて子供たちの面倒を十分に見られなかったことなど。それでも、その頃の生活には人との触れ合いがあり、あの頃はよかった、と彼女たちは振り返る。
 戦争がはじまると、彼女たち日本人および2世の日系人は、まずパインデールのフレズノ仮集合所に収容され、その後アーカンソー州のジェローム収容所やアリゾナ州のポストン収容所などに送られた。連れて行かれるときの不安や恐怖も生々しいが、自分たちの農場を管理してくれたり収容所にいろいろ物を送ってくれたりしたアルメニア人のことなど、心温まる思い出も彼女たちは語っている。
 1944年、カリフォルニア州の職員で、ツーリレイク収容所に拘留されていた2世のミツエ・エンドウが、収容所からの釈放を訴え、人身保護令状を最高裁判所に請求した。最高裁は主張を受け入れ、さらに翌年1月に日系人全員を解放するよう命じた。収容所が閉鎖になると、ファウラーに戻るものもいたが、多くは他の地域に移っていった。ファウラーの日系社会も徐々に回復はしたものの、戦前のような活気は取り戻せなかった。
 時代は移り変わり、3世、4世の時代になって、異人種間結婚も進み、日系社会の団結力はますます弱まっている。そんな中で彼女たちは今でも掃除、洗濯、炊事、針仕事、俳句などにいそしんで、忙しく日一日を過ごしている。
 キクムラは最後に、アメリカに来て後悔はないですか、という質問を彼女たちに投げかけている。全員が迷いもなく、「ノー」と答えている。そして、ある女性はこう続けた。
「来たくはなかったんだけれど、一生懸命働いて子供を育てて……。もし日本にいたら、私は人間にはなっていなかった」
 人間にはなっていなかった、という意味をキクムラはつかみあぐねた。アメリカで苦労はあったけれど、それは「人間」になるために必要な条件だった、と他の女性たちも同意している。苦労しなければ「人間」になることはできない。「人間」になることは、生まれつきもっている資質ではなく、経験や知識から得られるもので、渡米後のある種の通過儀礼だったのだ。
 自分たちの力を知り、物事を決断するが、人生の多くは運命によって決定づけられる。それは「仕方がない」。艱難辛苦はあれど、「どぶの中に蓮の花が咲く」。
 彼女たちの言葉の随所に、人生の警句が含まれている。

日系人史をグローバルな視点で

 キクムラが責任者を務めた全米日系人博物館主催の「国際日系研究プロジェクト」は、世界の日系人が持つ多様な文化を調査しようという企画で、世界の国々において、人とコミュニティと国家のよりよい相互理解を育むために、日系人についての知識を地球規模で増やし、共有することを目的としている。
 対象となった国は南北アメリカと日本の10カ国。対象言語は英語、日本語、スペイン語、ポルトガル語の4言語。10カ国から14の日系団体と多数の研究者がこのプロジェクトに関わった。研究は当初、南北アメリカの日系人の研究に絞られていたが、1980年代から90年代にかけて移民をめぐる状況が大きく変化し、ブラジルやペルーなど、南アメリカの日系人が多数、出稼ぎのために来日しはじめた。そのため、日本にも焦点を当てることになったのである。
 研究者や日系団体を探すだけでもいかに大変だったか、また、翻訳作業、用語の統一、文献表記の統一などの苦労を、キクムラは『アメリカ大陸日系人百科事典』の序文で述べている。

『No More Cherry Blossoms』
『日系人とグローバリゼーション』
『日系人とグローバリゼーション-北米、南米、日本』で、キクムラは、レイン・リョウ・ヒラバヤシ(コロラド大学ボルダー校人類学部教授、アジア系アメリカ人研究)とジャイムズ・A・ヒラバヤシ(サンフランシスコ州立大学人類学部教授)と一緒に「日系人アイデンティティに及ぼすグローバル化の影響」という論文を執筆している。
 3人は、イギリスの批評家、スチュアート・ホールの理論を援用しながら、政治経済、あるいは社会、文化を含めたグローバル化によって、日系社会のアイデンティティが崩壊する可能性、逆に強化される可能性、新しいハイブリッドなものが生まれる可能性、などを示している。
 キクムラがこれまで著書や博物館で手がけてきたミクロの手法とは180度違った研究だが、こうしたマクロの視点も、研究には必要なのだろう。

次世代に向けた新たな関係を

 今年、2009年9月に来日した折、キクムラは国際移住機関・東京事務所で記者発表を行った。1985年に発足した全米日系人博物館は来年25周年。「これを機に、日本に住む日本人と、アメリカに住む日系人との相互理解をさらに深め、次世代に向けた新たな関係性を構築したい」と語った。これまでの経歴から、彼女ほどこの任に合った人はいないだろう。
 日本人と日系人の相互理解度は非常に低い。「ディスカバー・ニッケイ」の充実、日本のマスメディアや教育機関、国際協力機関などのサイトとの相互リンクなど、ネットの世界でも相互理解をもう少し推進できる可能性はあるかもしれない。
 横浜に海外移住資料館があるが、東京に全米日系人博物館の分館があって、常時いろいろなイベントをやってくれるといいなあなどと小生は勝手に思っている。
(敬称略)

※文中の訳はすべて筆者による。

  アケミ・キクムラの著作、出演作一覧

  著作

  • Through Harsh Winters: The Life of a Japanese Immigrant Woman, Chandler & Sharp Publishers 1981
    (『千枝さんのアメリカ-一日系移民の生活史』 弘文堂 1986)
  • Promises Kept: The Life of an Issei Man,Chandler & Sharp Publishers, Inc.; 1991
  • Issei Pioneers: Hawaii and the Mainland, 1885-1945, University of Hawaii 1993
  • Mukashi Banashi: Stories of the past from Issei Women in Flower, California
    「立命館大学法学」別冊 山本岩夫先生退職記念集 2005
  共著・編著
  • In This Great Land of Freedom: The Japanese Pioneers of Oregon, Japanese American National Museum; 1993
  • The Kona Coffee Story: Along the Hawai'i Belt Road, Japanese American National Museum; 1995 
  • Encyclopedia of Japanese Descendants in the Americas: An Illustrated History of the Nikkei, Altamira Press 2002(『アメリカ大陸日系人百科事典』 明石書店 2002)
  • New Worlds, New Lives: Globalization and People of Japanese Descent in the Americas and from Latin America in Japan, Stanford University Press 2002 (『日系人とグローバリゼーション-北米、南米、日本』 人文書院 2006)
  • Common Ground, University Press of Colorado  2004
  • 「日系開拓史-学芸員の目を通して-」『日系アメリカ人の歩みと現在』 ハルミ・ベフ編 人文書院 2002
  戯曲 (未出版)
  • The Gambling Den, 1985
  テレビドラマ・映画出演  *役名
  • The Nun and the Sergeant 1962
  • Farewell to Manzanar (TV) *Koro 1976
  • Man from Atlantis (TV) *Third Receptionist 1977
  • Up in Smoke, *Toyota Kawasaki  1978
参考ウェブサイト
全米日系人博物館 http://www.janm.org/
ディスカバー・ニッケイ http://www.discovernikkei.org/ja/

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PROFILE

須藤達也

神田外語大学講師

1959年愛知県生まれ。 1981年、上智大学外国語学部卒業。1994年、テンプル大学大学院卒業。1981年より1984年まで国際協力サービスセンターに勤務。1984年から85年にかけてアメリカに滞在し、日系人の映画、演劇に興味を持つ。1985年より英語教育に携わり、現在神田外語大学講師。 1999年より、アジア系アメリカ人研究会を主宰し、年に数度、都内で研究会を行っている。趣味は落語とウクレレ。
 
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