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Series 日系アメリカ人と日本人
二つの国の視点から 須藤 達也
09/08/31

第4回 ローソン・フサオ・イナダ~収容所、ジャズ、マイノリティを詠ずる懐深き詩人

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

ローソン・フサオ・イナダ『what it means to be free』
ローソン・フサオ・イナダ
『what it means to be free』

 1970年。日本で万博が開かれた年だが、この年を基準にアメリカのアジア系・日系文学をとらえてみたい。この年、中国系アメリカ人作家のジェフリー・ポール・チャンが日系人作家、ジョン・オカダの『No-No Boy(ノー・ノー・ボーイ)』という本をサンフランシスコの日本町の本屋で見つけた。ノー・ノー・ボーイとは、戦時中、アメリカに対して忠誠を誓わなかった日本人及び日系人のことである。日系社会はアメリカへの同化意識が強かったため、1957年に出版されてから、この本はずっと日系社会から無視されてきた。13年経ったこの年、チャンがこの本を発見したことが、仲間であるローソン・フサオ・イナダ、フランク・チン、ショーン・ウォンら、文学青年の魂を揺さぶり、アジア系アメリカ人文学に対する関心を高めた。
 翌1971年、ローソン・フサオ・イナダの詩集『Before the War』と、UCLAのアジア系アメリカ研究センターが編集したアジア系アメリカ文芸集『Roots』が出版される。とりわけイナダの詩集は東部の大手出版から出され、大きな反響を呼んだ。
 1970年以前にも、オカダの本をはじめ、トシオ・モリの『カリフォルニア・ヨコハマ町』(1949年)やヒサエ・ヤマモトの『十七文字』(1949年)などの作品があったが、アジア系・日系コミュニティとしての自覚を持って文学作品が語られ、出版されはじめたのは、1970年以降だった。

アジア系アメリカ文学に風穴をあける

 イナダは、1938年生れの日系3世。祖父母の斉藤武助(ぶすけ)、良子(よしこ)夫妻は和歌山出身で、1912年にカリフォルニア州のフレズノに魚屋を開いた。娘のマサコが熊本出身の2世の歯科医、フサジ・イナダと結婚し、ローソンが生れた。『Roots』に「アジアの兄弟よ アジアの姉妹よ」というローソンの長編詩が掲載されているが、副題に「ヨシコ・サイトウへ」とある。祖母のために書かれた詩で、魚屋のことや祖母が亡くなる様子などが生き生きと描かれ、まさに自分のルーツを確認しているかのような作品だ。
 第二次世界大戦が始まると、ローソンは家族と共に、まずフレズノ仮集合所へ収容され、そこからアーカンソー州のジェローム収容所とコロラド州のアマチ収容所に抑留される。戦時中、西海岸に住む日本人及び日系人12万人が、「敵性外国人」として全米10ヶ所の収容所に送られたが、ローソン一家も例外ではなかった。そして戦後、郷里のフレズノに戻る。

『Asian-American Authors』
『Asian-American Authors』

 フレズノは鉄道を挟んで東側が白人地区、西側が黒人やヒスパニック系、アジア系、アルメニア系、ドイツ系、イタリア系など、多民族が生活する地区で、ローソンは西側で青春時代を過ごした。彼の両親はキリスト教徒だったので日系社会と関わりがなく、ローソンは自然と多文化社会の空気に馴染んでいた。『Asian-American Authors』(1972年) というアジア系アメリカ人文芸集に収録されている、彼のWest Side Songsという詩は、西側地区の様子が細かに綴られていて興味深い。また、『I told you so』(1974年)というローソンを取り上げたドキュメンタリーでは、この地区が映像で映し出されていて彼の育った環境をよく理解することができる。
 ハイスクールではジャズにのめりこみ、大学に入ってからピューリッツァー賞を受賞している詩人のフィリップ・レビンの影響で詩を書き始めた。収容所の体験と多民族社会で育った環境、そしてジャズ、この3つが詩人、イナダの文学の骨格を形成している。

『before the war』
『Before the War』

 1966年から南オレゴン州立大学の英文科で教鞭をとり、現在は同大学の名誉教授となっているイナダは、『Before the War』の後、『Legends from Camp』(1992年)『drawing the line』 (1997 年)の2冊の詩集を世に出し、さらに『Aiiieeeee!』(1974年)と『The Big Aiiieeeee!』 (1991年)というユニークなタイトルのアジア系アメリカ人文芸集を仲間と一緒に編集した。  
 2006年にはオレゴン州の桂冠詩人に選ばれた。自作の朗読も活発に行なっている。その場は公立学校、大学、教会、コミュニティの集会場、さらにはホワイトハウスに及んでいる。

収容所での体験を詩に託して

『Legends from Camp』
『Legends from Camp』

 戦時中、日系人が抑留されていた収容所は、カリフォルニア、アリゾナ、アーカンソー、コロラド、ワイオミング、アイダホ、ユタの各州に点在していた。
 『Legends from Camp(収容所の伝説)』に、Concentration Constellation(収容所の所在地)という詩が収録されている。Constellationの原意は星座。全米に星座のごとく配置された10ヶ所の収容所を線で結んでいくと、収容所に張り巡らされていた錆びた有刺鉄線のようだ、という面白い発想の詩である。
 収容所は、彼の詩の中で最も重要な題材で、『収容所の伝説』だけでなく、1作目の『Before the War(戦前)』にも3作目の『Drawing the Line(線を引く)』でもしばしば取り上げられている。
 『線を引く』のうち、タイトルになっている「線を引く」と「デンバー・ユニオン駅」をここで紹介したい。後者はイナダがLegends & Legacies (伝説と遺産)というCDと、What it means to be free(自由とは何か)というDVDの両方に収録している詩で、少し長いが、以下、全訳を掲載する。

「デンバー・ユニオン駅」

三日月 コロラドの空を クレッシェンドのように昇っていく 
あの特別な三日月を思い出す
私たちは特別列車で
アマチ収容所からデンバー・ユニオン駅に 向かっている
駅で私たちは
それぞれの家に乗り換えていく、、、
それは速度のゆっくりとした列車だった
真夜中の特別列車 アマチに残されたものが
積み込まれている
ゆっくりの列車だったが
フェンスよりは アマチよりは 早い
背後に残していった 残していった
アマチ、アマチ、アマチは 私たちをとらえようとしていた
ゆっくりとした列車
ゆっくりとした月
私たちは自分たちの道を進んでいた
私たちは自分たちの道をこっそり手に入れていた
コロラドを越えながら
夜が明ける 夜明けを切り裂く声
制服姿の男が 通路を歩いてくる
人を押し 掻き分け 踏み倒しながら 大声で叫ぶ
「デンバー・ユニオン駅」何度も繰り返す
「デンバー・ユニオン駅です 全員降りてください!」
皆 列車から降りる 降りる
人を掻き分け 走り
家に向かう方面に 乗り継ごうとする、、、
あの旅は何だったのだろう
特別なもの
重要なもの
特別で重要な旅
それはフレズノに着いてからも ずっと続いた
今でも続いている
毎日 起きると
そこはアマチではない アマチではない
実のところ
私たちはあの駅を出ていないのだ
なぜなら あれから何年も
祖父は私を居間に呼び
居間に呼んで
椅子の前に じっと 立っている
年老いた祖父は新聞を置いて
幼い孫に囁く
「ローソン 例のデンバーをやってくれよ デンバーを」
孫はじっとそこに立って
抑揚をつけて 何度も唱える
「デンバー・ユニオン駅! 
デンバー・ユニオン駅! 
デンバー・ユニオン駅!
全員 降りてください!」
その後 暫しの静寂
何もない こだまする駅の中で
(デンバー・ユニオン駅 全員 降りてください!)
年老いた祖父は幼い孫を見る
二人の目が合う
そして二人が微笑む
その微笑みは
(デンバー・ユニオン駅!)
あの旅の微笑み あの旅の
その微笑は
(デンバー・ユニオン駅!)
その微笑は 二人の微笑みで
そして 皆の 自由の 微笑み

 ローソンと祖父のやりとりが目に浮かぶ。「デンバー・ユニオン駅 全員 降りてください!」とローソンが朗読するとき、デンバー・ユニオン駅の大きさや駅員の表情、日系人が列車を降りる慌しさまでがはっきりと想像できる。デンバー・ユニオン駅、という素朴なフレーズが、祖父にとって自由を、あるいは解放を意味していた。孫と遊びながらこのフレーズを繰り返し聞くことで、祖父は自分の存在と孫との関係を確認していたのだろう。見事な詩というほかない。

『Drawing the Line』
『Drawing the Line』

 次は、「線を引く」だが、その前にこの詩集の表紙について説明しておきたい。表紙に、ワイオミング州にあったハートマウンテン収容所が描かれている。ハートマウンテンは中央が瘤のように膨れ上がっている山なので、一目見るとすぐにわかる。
 イナダが収容されていたのはアーカンソー州のローワー収容所とコロラド州のアマチ収容所なので、この表紙には本人の体験とは違う特別な意味が込められている。
 ワイオミング州にあったハートマウンテン収容所は、徴兵を拒否した男たちがいたことで知られる。1944年の春、徴兵を拒否した63人が、ワイオミングの連邦裁判所で有罪判決を受け、懲役3年の刑を言い渡された。彼らは上訴したが、上級裁判所でも最高裁判所でも敗訴した。2年服役した後、トルーマン大統領が恩赦を言い渡した。
 服役した1人に、ヨシ・クロミヤという男がおり、イナダは彼のために一篇の詩を書いた。それが、詩集のタイトルにもなった「線を引く」という13ページにも及ぶ詩で、同詩集の最後に掲載されている。

「線を引く」(抄訳)

あなたは持っていない
私の親を閉じ込める権利を
あなたは持っていない
私たちの自由を否定する権利を
わたしは持っている
正義のために立ち上がる権利を
私は持っている
自由のために立ち上がる権利を
ヨシはここに線を引く
一枚の紙に
アメリカ合衆国憲法が書かれたページに
残っているのは歴史上の事実
逮捕され 裁判にかけられ
刑を言い渡され 投獄された
二年間
「家族が収容所にいる間」という条件の
徴兵を拒否したために
やがて届いたのは
大統領からの恩赦
でも歴史は休まない
ヨシが紙に線を引いて
証言している

 以上が詩の一部だが、日系映画監督のフランク・アベがこれをテーマとして「Conscience and Constitution(良心と憲法)」というドキュメンタリーを2000年に制作しており、イナダがナレーターを務めた。彼はもともとこの映画のロケに触発されてこの詩を書いた経緯があるので、映画のナレーションは感慨深い仕事になったであろう。ジャズが好きなイナダは、たとえテーマが重くても、いつも軽やかに言葉をつむいでいく。

言葉に流れるジャズのリズム

 もっとジャズベースが上手かったらミュージシャンになっていた、というほどだから、イナダのジャズへの思い入れは相当強い。
 『戦前』の最後を飾っているのが、「偉大なべーシスト」という詩で、チャールズ・ミンガスのために、という副題がつけられている。以下、冒頭の部分。

「偉大なべーシスト」
 
私は偉大なべーシスト
音楽と人生は一体
そしてそれはすばらしいこと
でもいつもそういうわけにはいかない
私が若かったころ
音楽が私の血管に差し込まれた
でも流れてくれなかった
私はベースを買った
練習した
でもどうにもならなかった
鉄弦が
肉に食い込むだけ
中の痛みが
とれない

 『収容所の伝説』には、「ジャズ」という章が独立してもうけられており、18歳のときのエッセイが綴られている。以下、末尾の部分。

 見かけは学生風の18歳の若者が「ブラックホーク・クラブ」をうろついていた。まだ未成年だったが、ウエイトレスたちはそのことを知らない。それに彼はミュージシャンたちの「友人」に見えた。彼が「やあ、マイルズ。こんにちは、コールトレイン」と声をかけると、彼らも「よお」とか「どうしてる」などと応えていた。
 ある夜、休憩の時間に彼は外に出た。寒くて霧が深く、街灯の下の壁に寄りかかっていた。周りには誰もいなかった。一人の女性を除いては。彼女も壁にもたれかかっていた。静かだった。車が通りかかり、タイヤのきしむ音が霧にまぎれていった。若者と女性は宙を見据えていた。
 しばらくして、男は声を殺していった。「すみません。サインをお願いできませんか?」。女性は微笑み、顔が赤らんだ。「いいわよ。名前、何ていうの?」。彼が名前を告げると彼女は歌うかのようにその名前を声に出し、本にサインをした。そして笑みを浮かべながら、彼の目を覗き込んでいった。「あなた、昨晩もここにいたでしょう」「ええ、この一週間ここに来ているんです」
 彼はその場に居続けた。本にはこう書かれていた。
 「ローソンへ 心をこめて ビリー・ホリデイ」

 このエッセイの後に、ビリー・ホリデイを含め、ルイ・アームストロング、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、ジョン・コールトレインといった名だたるジャズ・ミュージシャンたちに捧げた詩が続く。
 彼の詩には「コール・アンド・レスポンス」と呼ばれる黒人霊歌やジャズの影響が強く見られる。「コール・アンド・レスポンス」とは、呼びかけに対して応じる、いわば掛け合いの音楽である。日本の民謡でもよく見られる手法で、音楽を盛り上げるために使われる。私が訳した詩でも、あるキーフレーズをリフレインしながら、それに応えるように構成されており、声にだしてパフォーマンスをすることを意識して、あるいはそれを前提に書かれているように思える。
 ジャズマンになることはあきらめたイナダだが、CDでは、中国系のフランシス・ウォンや日系のマーク・イズ、グレン・ホリウチ、ミヤ・マサオカ、アンソニー・ブラウンらのジャズ・ミュージシャンの演奏をバックに自作を朗読しており、、詩でとりあげる題材だけでなく、パフォーマンスでもジャズとの接点を持ち続けている。

少数民族に重ね合わせるアイデンティティ

 イナダの詩の題材を見ていくと、収容所やジャズを別にして、ネイティブ・アメリカン、黒人、アジア系アメリカ人、さらには日本のアイヌと、マイノリティを扱ったものがあり、少数民族への強い関心が伺える。それらの詩は、決して抵抗の文学ではなく、すべてを肯定して詠じているように思える。それは、おそらく彼がフレズノの西側で、マイノリティであることを自然に受け入れて育った環境が大きく影響しているのだろう。

『The Big Aiiieeeee!』
『The Big Aiiieeeee!』

 アジア系アメリカ人文芸集『The Big Aiiieeeee!』に「アイヌ・ブルース」という詩が収録されているが、この詩は次のような言葉遊びから始まる。
Ainu, you knew, I knew, you knew, too. 訳せば、「アイヌ、知ってただろ、ぼくは知っていた、君も知っていた」となるが、言葉の洒落は訳では伝わらない。「アイヌ・ブルース」は10ページの長編詩で、以下は言葉遊びの後の冒頭部分。

「アイヌ・ブルース」
 
わたしは村に着く
背中に服をまとっただけで
私の状態は
それ以上でも以下でもなく
隣の人とかわらない
わたしはここに惹きこまれているのか
逃げているのか
呼び出されたのか
捨てられたのか
それは問題じゃない
わたしのこの状態は
隣の人と何ら変わらない
状況、行為
それ以下でもそれ以上でもない
住民は、もちろん
わたしをそのまま受け入れている
一人の男 皆のなかの
おそらく <あの人たち>の一人
でも、明らかに
一人の男
だから、
疑ったり
無関心でいたり
敵意を持ったり
うらやんだり
好奇心をもったりする
必要がない

 多民族・多文化社会に慣れ親しんだイナダの人生観がよく現された詩だと思う。

俳句、家族……日本への想い

 イナダにとって、日本は祖父、祖母、両親を含めた親類が大きな位置を占めている。詩やエッセイに親族のことがよく取り上げられていることでそれがよくわかる。だが、それだけでなく、日本の俳句や歌も影響を与えている。『収容所の伝説』に、「石の詩」という詩がある。オレゴン州、ポートランドにある「日系アメリカ歴史プラザ」にいくつも石が建てられており、俳句を意識したローソンの短編詩がそれらの石に刻まれている。以下、一例。

日系アメリカ歴史プラザにある石の詩
日系アメリカ歴史プラザにある石の詩

「黒い煙が 青空を横切っていく
冬の寒さが骨に沁みる ここはミニドカ収容所」


俳句風に訳すと
「ミニドカで 黒煙上がる 寒さかな」
短歌風に訳すと
「黒煙 冬の寒さが 身にしみる ここはミニドカ 収容所」

 というような感じだろうか。同詩集にある「赤とんぼの歌」はもちろん日本の童謡から発想された詩で、赤とんぼ、という日本語がキーワードになって、「コール・アンド・リスポンス」が全編を貫く。

 以上、いくつかイナダの詩を紹介したが、収容所、ジャズ、マイノリティ、家族など、イナダの守備範囲は広い。音楽的要素が強いのも特徴だ。イナダについて論じたものが少ないのはその懐の深さ故なのかもしれない。私は、収容所をはじめとした日系人の歴史にも、アイヌやネイティブ・アメリカンなどの少数民族にも、音楽にも強い関心があるので、彼の詩には親しみを感じる。
 イナダの詩は決して激しいものではない。でも、その一つひとつに、対象への愛情が感じられる。そこが彼の文学の魅力なのだろう。
(敬称略)

※本文中に引用した詩・エッセイの翻訳はすべて筆者による。

著書
Before the war; poems as they happened. Morrow, 1971
Legends from camp, Coffee House Press, 1992
 アメリカンブック賞受賞
Drawing the line, Coffee House Press, 1997

共著
The Buddha bandits down Highway 99: Garrett Kaoru Hongo, Alan Chong Lau, Lawson Fusao Inada, Buddhahead press, 1978

In this great land of freedom: the Japanese pioneers of Oregon. Lawson Fusao Inada, Eiichiro Azuma; edited by Akemi Kikumura, Lawson Fusao Inada, Mary Worthington. Japanese American National Museum, 1993.

編著
Aiiieeeee! An anthology of Asian-American writers. Frank, Jeffery Paul Chan, Lawson Fusao Inada, Shawn Wong, Frank Chin, Howard University Press, 1974
The Big Aiiieeeee! Frank Chin, Jeffrey Paul Chan, Lawson Fusao Inada, and Shawn Wong, Signet, 1991

参考資料
『日系アメリカ・カナダ詩集』中山容編訳 土曜美術社 1985
『現代アメリカアジア系詩集』水崎野里子編訳 土曜美術社 2003
『箸とフォークの間』 野本一平 邑書林 1996
「ジャズのリズム-ローソン・F・イナダ『戦前』」 新井弘泰 『思想の科学 93号』1987年9月
「リズムが語りだすもの:ローソン・イナダの"Two Variations on a Theme by Thelonious Monk as Inspired by Mal Waldron"を読む」 小坂恵理子 AALA News 2005/June No.26  
「詩と音楽のCrossroads-Lawson Fusao Inada: Denver Union Stationを聴く」 神田 稔 AALA News 2005/June No.26
Roots: an Asian American Reader, UCLA, 1971
Asian-american Authors, Kai-yu Hsu, Helen Palubinskas, Houghton Mifflin, 1972

参考映像
I told you so, 監督Alan Kondo 制作 Visual Communications, 18分 1974
Lawson Fusao Inada: What it means to be free, 制作 TTTD Productions,  25分 2004
Conscience and Constitution, 監督、制作Frank Abe, 56分 2000

参考CD
Legends & Legacies, asianimprov records, 2004

謝辞
 イナダの処女詩集『Before the War』を今回、友人の神田稔さんから貸していただきました。ここに記して感謝致します。

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PROFILE

須藤達也

神田外語大学講師

1959年愛知県生まれ。 1981年、上智大学外国語学部卒業。1994年、テンプル大学大学院卒業。1981年より1984年まで国際協力サービスセンターに勤務。1984年から85年にかけてアメリカに滞在し、日系人の映画、演劇に興味を持つ。1985年より英語教育に携わり、現在神田外語大学講師。 1999年より、アジア系アメリカ人研究会を主宰し、年に数度、都内で研究会を行っている。趣味は落語とウクレレ。
 
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