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Series 日系アメリカ人と日本人
二つの国の視点から 須藤 達也
09/06/30

第2回 スティーブン・オカザキ~太平洋の真ん中に立つ映画監督

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

 日系3世のスティーブン・オカザキ(1952~)にとって「ヒロシマ」とは何なのだろうか。2年前の2007年、彼はヒロシマの被爆者や原爆投下に関わったアメリカの軍人らにインタビューしたドキュメンタリー『ヒロシマ ナガサキ』(原題はWhite Light/Black Rain)を制作した。この年の8月6日にアメリカのケーブルテレビで放映され、日本でも上映された。昨秋、エミー賞を獲得している。

風化している「ヒロシマ」の現状を描きたい

スティーブン・オカザキ
スティーブン・オカザキ

 オカザキのヒロシマへの関心は、20代後半に中沢啓一の『はだしのゲン』の英語版を読んだことがきっかけだった。その後、サンフランシスコで在米被爆者の会に参加したことから、このテーマでドキュメンタリーをつくることになる。在米被爆者とは広島で被爆した後、アメリカ本土に渡った日本人、日系人のことである。これが彼の記録映画『サバイバーズ』で、1982年に発表された。韓国、中国人が被爆したことはある程度知られていても、日系アメリカ人が被爆したことは今でもあまり知られていないのではないか。そんなところにも日本人と日系人の断絶を感じる。
『サバイバーズ』から『ヒロシマ ナガサキ』までちょうど四半世紀。その間、オカザキがインタビューした被爆者は500人にものぼる。1990年代、NHKとアメリカのPBSの共同制作で「ヒロシマの今」を撮る計画があったが、紆余曲折を経てこの話は流れてしまった。それでもオカザキは原爆にこだわった。このとき、彼は中国新聞のインタビューに次のように答えている。
「在日の韓国朝鮮人被爆者や原爆小頭症の人々、被爆2世の問題なども取り上げたい。また冷戦が終結した今、ヒロシマが何を訴えていくべきかや、日本の経済発展の陰でヒロシマが風化している現状を率直に描きたい」(中国新聞 1994年4月8日朝刊版)
 オカザキのヒロシマへの関心は、このときすでに大きく広がっている。韓国朝鮮人被爆者をテーマにした作品はまだつくられていないが、『ヒロシマ ナガサキ』で韓国人被爆者のキム・パニョンさんが証言者の一人として登場している。また、原爆小頭症の人たちについては2005年に『マッシュルーム・クラブ』という35分の短編ドキュメンタリーをつくっており、翌2006年にアカデミー賞の短編ドキュメンタリー部門にノミネートされている。時間をかけながら、言ったこと一つひとつを実行に移しているところがオカザキのすばらしいところだ。

日系人だからこそ引き出せた被爆者の声

 在米被爆者は約1000人と考えられている。
 第二次世界大戦中の1941年当時、日本にいた日系2世は約3万人、そのうち4800人が広島にいた。いかに広島からの移民が多かったかがわかる。長崎にいた日系人の数はわかっていない。
 日系アメリカ人が日本に滞在していた理由はさまざまだった。アメリカで生れたが教育のために日本に滞在していた帰米2世、配偶者を求めて日本に滞在していた2世、日本人と結婚して日本に滞在していた2世、1世の両親とともに親戚を訪れるために来日していた2世、アメリカでの反日感情が高まりつつあるのを感じて日本に引き上げてきた人たち。
 これら日本で被爆した日系人のほかに、広島、長崎で被爆した日本人で、戦後、身寄りがなく新天地を求めてアメリカやカナダに渡った人。政府が推進した移住政策によって南米に移住した人など、それぞれが異なる境遇を背負っていた。
 被爆者であることを明らかにしない人もいるので正確な数字はわからない。被爆者であることを明かすと、健康保険が停止になったり、職を失う危険があるし、そもそも原爆投下を正当化させる風土の中で被爆者であることを訴えにくい。南米では190人、カナダでは20人が確認されている。
『サバイバーズ』には十数人の在米被爆者が出てくるが、もっとも印象的なのは、顔と手にケロイドの跡が深く残っている笹森恵子(ささもり・しげこ)さんの証言である。被爆したときは13歳。戦後、いわゆる原爆乙女の一人としてアメリカで一年半にわたり、25回にものぼる形成外科手術を受けた。帰国後も10年間、病院通いを続けた。

『ヒロシマナガサキ』DVD
『ヒロシマナガサキ』DVD
発売・販売:株式会社マクザム
提供:シグロ/ザジフィルムズ
(C)2007Home Box Office, inc. All rights reserved.
 笹森さんは『ヒロシマ ナガサキ』でも証言者として出演しており、私はなつかしい人に再会したような気がした。
「よく考えるんです。もし被爆しなかったらどんな人生だったのかしらって。全然違っていたでしょう。おそらくは普通に結婚して奥さんやお母さんになって暮していたでしょう。ついつい色々考えるんです」
 笹森さんの言葉が、ズシリと心に響く。
『ヒロシマ ナガサキ』でもう一人強く印象に残ったのは、谷口稜輝(たにぐち・すみてる)さんだった。証言している最中、突然服を脱いで自分の傷ついた体をカメラの前にさらし始める。谷口さんは16歳のとき、被爆で背中全体が焼けただれ、1年9ヶ月をうつ伏せで過ごした。そのため胸が床ずれをおこして肋骨の部分が浮かび上がり、茶色に変色している。オカザキによれば、谷口さんの突然の行動は全く予定していなかったことだったという。
 谷口さんに限らず、オカザキの前で被爆者たちは非常にリラックスして本音を語っているように思える。それはオカザキが25年にわたって彼等と対峙してきたこともあるが、日本人でも白人でもない、彼の中立性が彼らの胸襟を開かせ、本音を引き出すことができるのだろう。
 この作品でもう一つ大事な部分は、原爆を投下したエノラゲイの乗組員やロスアラモス原爆研究所に勤務していた4人のアメリカ人の証言である。原爆投下については任務を遂行しただけで悪夢を見ることもない。正当なものだったと全員が口を揃えるが、最後に、セオドア・カークというエノラゲイの航空士が言う。「何人かが集まると必ずバカな奴がいう。イラクに原爆を落とせばいいんだと。核兵器が何なのかまるでわかっていない。わかっていたら言えないことだ」。
 映画の最後に出てくるこの一言で、救われる気がする。オカザキはメッセージ映画には興味がないというが、この航空士のひと言をアメリカ人にも日本人にも伝えたかったんだと思う。太平洋の真ん中に立ってものをみている日系アメリカ人の立場が日米双方の本音を引き出すことに成功したのだろう。
 先に紹介したが、オカザキにはもう一つ、『マッシュルーム・クラブ』という34分の小品がある。原爆小頭症の人々を支援する「きのこ会」を紹介した作品だが、この作品にも被爆者の証言が出てくる。広島市といえば「川」。中心部をいくつもの川が流れる。原爆が投下された時、多くの人間が熱さに耐えかねて川に飛び込んで死んでいった。当時、25歳の新妻だった佐伯敏子(さえき・としこ)さんは、80歳を過ぎた今も川べりを歩き、被爆した中学生の学生ボタン、消防隊員のボタン、時計、指輪などを拾い歩く。
『マッシュルーム・クラブ』DVD
『マッシュルーム・クラブ』DVD
発売・販売:株式会社シグロ
(C)2005 Farallon Films. All rights reserved.
「原爆が落ちたとき、たくさんの人が苦しんでいるのに、私は自分の肉親を捜すために皆を置いて逃げた。私は自分はいい人だと思ってた。ところが、原爆が落ちて、町の中でやっていけないことをたくさんやった」
 こう言いながら佐伯さんの目から涙がこぼれる。今でも川岸を歩いて原爆犠牲者の遺品を収集しているのは、まるでその時の償いをしているかのようだ。


祈りにも似たヒロシマ、ナガサキへの想い

 ロサンゼルスのヴェニスで生まれ育ったオカザキは、日系アメリカ人のボーイスカウトにいて、土曜日は日本人学校に通っていた。小学校では絵ばかり描いていた。中学のとき、ローリングストーンズの音楽に出会い、ロック音楽に傾倒してバンドでギターを弾いていた。高校卒業後、ベイエリアに移り、サンフランシスコ州立大学で映画を専攻したが、バンド活動は続けていた。彼の映画に若者が音楽に熱中する場面が時折出てくるのは、その時の思いがあるからだろう。『マッシュルーム・クラブ』でも『ヒロシマ ナガサキ』でも若者が路上でギターをかき鳴らす場面が冒頭に映し出される。まるで物語が始まる前の儀式のようだ。本編に入っても時折、音楽を大切にしていることに気づかされる。第二次世界大戦時の日系アメリカ人収容所を描いた『待ちわびる日々』では、笙を使った音楽がすぐれた効果を発揮していた。
 ドキュメンタリーは事実を描くものではあるけれど、作品として観客に見てもらう以上、ある程度の演出はあったほうがいい。彼の場合、若い頃に傾倒していた音楽が、いい形で活かされている。
 オカザキは、原爆、日系人収容所以外にも、日本のポップカルチャー、ネイティブハワイアンの住民運動、アメリカの核実験、麻薬、エイズ、などさまざまなテーマで作品をつくっている。それでも、やはり彼にとってヒロシマ、ナガサキは、一度離れても常に帰ってくる原点のような場所でありテーマだ。その理由は、これ以上に心をかき乱し、感動的な物語がないからだと彼自身は言っているが、私はある種の「祈り」のようなものを感じる。そうでなければ、これほど長期間にわたって、あれほど丹念な聞き取り調査ができるはずがない。
 在韓・在中被爆者などの在外被爆者を含め、描きたいことはたくさんあるだろう。彼のヒロシマ、ナガサキへの旅はまだまだ続く。
(敬称略 つづく)

スティーブン・オカザキ監督 作品一覧
1977: A-M-E-R-I-C-A-N-S
さまざまな有色の子供にインタビューをし、彼らが自分の人種について感じていることをドキュメント。
1982: Survivors
在米被爆者の証言集。
1983: Only language she knows
中国系アメリカ人1世と2世の葛藤を描く。劇作家で詩人のジェニー・リムが主演。劇映画。
1985: Unfinished Business(邦題 公式命令9066)
第二次大戦中、日系人の強制収容に抗議して法廷闘争を繰り広げた3人の日系人を描く。アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされる。日本でもビデオ化された。
1987: Living on Tokyo Time(リビング・オン・TOKYOタイム)
日本人の女の子がアメリカで市民権を得るために日系アメリカ人と偽装結婚をする。
劇映画。日本でも上映され、ビデオ化された。
1988: Hunting Tigers
日本のポップカルチャーを描く。作家の大江健三郎らが出演している。
1990: Days of Waiting(邦題 待ちわびる日々)
日系人男性と結婚したアメリカ人女性、エステル・イシゴウの収容体験。アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞受賞。NHKでは『収容所の長い日々』のタイトルで放送された。
1992: Troubled Paradise
ネイティブハワイアンの住民運動。
1993: The Lisa Theory
リサと彼女をとりまく男たちの物語。リサが男たちとつきあう法則、それがリサ理論。劇映画。
1995: Alone Together: Young Adults Living with HIV
HIVに罹患した若者を描く。
American Sons
アジア系アメリカ人に対する差別を、ドキュドラマの形式でアジア系俳優が語る。
1996: Life Was Good
アメリカのネバダ砂漠の核実験が原因で家族を失った女性の、政府への補償運動をドキュメント。
1999: Black Tar Heroin: The Dark End of the Street
アメリカのヘロイン患者を描く。
2005: The Mushroom Club
原爆小頭症患者を支える「きのこ会」などを描く。アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされる。日本でDVD化された。
2007: White Light/Black Rain:The Destruction of Hiroshima and Nagasaki(邦題 ヒロシマ ナガサキ)
被爆者と原爆投下に関わったアメリカ人の証言。エミー賞を獲得。日本でも上映され、DVD化されている。
2008: The Conscience of Nhem En
オカザキの最新作。1970年代の後半、カンボジアのクメールルージュ政府によって拷問され殺される前に、彼等の証明写真を撮らされたネム・エン少年の物語。アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされる(4度目)。2009年10月にアメリカでDVD発売予定。

■在米被爆者 関連資料
「在米被爆者のこころ」 据石和 『長崎の証言』第9集 1977
『私たちは敵だったのか』 袖井林二郎 潮出版社 1978
『生き残った人々』 上坂冬子 文藝春秋 1989
『在米五十年 私と在米被爆者』 倉本寛治 日本図書刊行会 1999
『ヒロシマの証言-被爆者は語る』 ビデオ 広島平和文化センター 1986~
証言ビデオリスト(外国人部門)
 No.1 寺田フランシス淑子
 No.7 石元恵美子
 No.8 倉本寛治
 No.9 佐伯一人
 No.17 チエコ・ブレイブル
 No.33 据石和
 No.34 内藤千代子

■スティーブン・オカザキ監督の制作会社、Farallon Filmsのウェブサイト
http://farfilm.com/

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PROFILE

須藤達也

神田外語大学講師

1959年愛知県生まれ。 1981年、上智大学外国語学部卒業。1994年、テンプル大学大学院卒業。1981年より1984年まで国際協力サービスセンターに勤務。1984年から85年にかけてアメリカに滞在し、日系人の映画、演劇に興味を持つ。1985年より英語教育に携わり、現在神田外語大学講師。 1999年より、アジア系アメリカ人研究会を主宰し、年に数度、都内で研究会を行っている。趣味は落語とウクレレ。
 
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