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Series スポーツ & ヒストリー
ドイツとドイツサッカー 明石 真和
06/03/15

第18回 シェーン去る - 優勝とひとつの時代の終わり

2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

オレンジ旋風 - 快進撃のオランダ

オランダ・ナショナルチームのマーク

 今でこそオランダは世界の強豪と言われているが、ワールドカップ(W杯)で活躍したのは、36年ぶりに出場を決めた1974年大会が初めてといってよい。
  地理的にイングランドに近いこともあって、オランダサッカーの歴史は古い。1889年にサッカー協会が設立され、初期のオリンピックでは3回、3位入賞を果たしている。国際サッカー連盟(FIFA)にも創立の1904年から加盟し、1934年と38年の2回のW杯に出場した。
  プロ化は戦後の1954年で、1960年代後半になってようやくアヤックス(アムステルダム)と、フェイエノールト(ロッテルダム)の2強が力をつけ、ヨーロッパクラブ戦でも活躍するようになった。1970年代に入るとオランダのクラブチームの強さが際立っていく。まず1969/70シーズンにフェイエノールトがヨーロッパチャンピオンズカップを獲得。翌年、アヤックスがつづく。アヤックスはその後、3連覇を果たした。ところがクラブチームの隆盛とはうらはらに、オランダ代表はこれといった成績を残していなかった。
  1974年大会に出場した代表チームも、予選段階では、さほどの注目を集めたわけではない。アイスランド、ノルウェー、それに宿命のライバルである隣国ベルギーの4ヵ国とともに欧州第3組に配属されたオランダは、ベルギーとのアウェイ戦を引き分けたほかは無敗で勝ち進んだ。ベルギーも同様だった。
  1973年11月18日。雌雄を決する予選最終戦。オランダは、地元にベルギーを迎え猛攻を仕掛ける。ベルギーも応戦し、主審の笛が50回以上鳴るという激しいゲームであった。0対0のまま残り90秒となった時、ベルギーのゴールが決まった。ところが、審判の判定はオフサイド。試合はそのまま引き分けた。両チームとも6試合4勝2分けとまったくの互角ながら、得失点差(オランダ:得点24、失点2 → +22 / ベルギー:得点12、失点0 → +12)でオランダが辛くも予選を突破した。悔やんでも悔やみきれないのはベルギーだ。なにしろ6試合で失点0なのである。無失点でもW杯出場はかなわない。16チームしか出場できなかった当時のW杯は、本当に厳しかったのである。
  予選を突破したオランダだが、W杯直前になって監督が交代した。このチームは、なぜかその後も、肝心な時にお家騒動のようなゴタゴタが起こる。急遽、指揮を執ることになったのはリヌス・ミケルス。アヤックスの基礎を築いた名指導者である。本大会まで時間がないのをうまく利用し、基本的な約束事で選手間の共通理解を深めていった。かつて指導したアヤックスの選手が多かったことも幸いした。ミケルスは語る。
「それまでアヤックスとフェイエノールトの選手たちは、決してひとつにまとまることがなかった。それが1974年大会では、初めてチームとしてまとまった。それがすばらしいことだった」
  中心選手のヨハン・クライフはW杯を前にこう予想した。
「我々はダークホースだ。でも、決勝にだって進出できるかもしれない」
  クライフの言葉通り、1次リーグのオランダはすばらしい戦いを見せた。スウェーデンには0対0で引き分けたものの、ウルグアイ(2対0)、ブルガリア(4対1)を下す。ブルガリア戦の失点は自殺点なので、まったく危なげのない1次リーグ突破である。このころからオランダへの評価が高まっていく。ビデオも一般化されておらず、他国の試合のTV放映もない、まだ情報の少ない時代であった。噂には聞いていても、実際のプレーを目の当たりにするのは初めてという人が多かった。ピッチを縦横無尽に駆け巡るオランダのオレンジ色のユニフォームは、ファンに鮮烈な印象を与えた。

 オランダの快進撃は2次リーグに入っても止まらなかった。アルゼンチンを4対0で下すと、ファンや専門家の間では「優勝候補筆頭」の声が高くなっていった。東ドイツにも2対0の勝利。1次リーグの西ドイツ戦で決勝ゴールを決め、一躍ヒーローとなったユルゲン・シュパールヴァッサーが、
「サッカー人生で初めてタイムアップの笛を待ちわびた。何もできなかった」
  と完敗を認めている。2勝をあげたオランダは、決勝戦に一歩近づいた。
  2次リーグA組、最終戦はブラジル対オランダ。前回の王者に新進気鋭のチームが挑む。ところが、強かったのは挑戦者のほうであった。2対0でオランダの勝利。特にクライフの決めた2点目は、走りこんで空中に飛び上がりながらのボレーシュートだった。このシーンを見て「空飛ぶオランダ人」と呼んだファンもいる。
  当時のオランダは、大胆なオフサイドトラップが持ち味だった。クライフは、こう語っている。
「オフサイドトラップをかけ、横一線の守備陣が一気に上がりながら、手を挙げて叫ぶんだ。そして線審(現在の副審)を見てアピールする。あるいは、ひとりがファウルで倒されると4、5人が駆けよって相手を威圧する。これもチームプレーだったし、効果はあったよ」
  36年ぶり出場のオランダが初めて決勝進出を決めた。

「トータルフットボール」を封じ込めろ

 1974年第10回W杯決勝の舞台は、バイエルン州の古都ミュンヘンである。シェーンは、1966年の大会決勝で、イングランドの頭脳、ボビー・チャールトンを徹底マークしたように、今回もオランダのキープレーヤーにターゲットを絞っていた。鬼神ともいえる活躍を見せるヨハン・クライフだ。自陣から敵陣までのフィールド全体をカバーするクライフの動きを中心として、全員に「攻撃と守備」の意識を徹底させたオランダの新しいスタイルは、「トータルフットボール」と呼ばれた。ドイツチームは、そんなオランダのプレーを熟知していた。ただ、それでもクライフがどのような動きをするかは謎だった。彼を止めるにはどうすればいいのか?  

ベルチ・フォクツの伝記
Berti Vogts, ©1977 by Sport Verlag und Werburg GmbH.
 シェーンは、西ドイツチームで一番タフな守備者であるベルチ・フォクツを呼んでこう説明した。
「ベルチ、クライフをおさえなくては、オランダの意のままになってしまう。私としては、うちの一番のディフェンダーを彼に付けたい。ベルチ、きみだ! きみがクライフに当たってくれ!」
  ボルシアMG所属のフォクツは、1970年大会前から頭角を現してきた選手である。小学生の時に両親を亡くした彼は、シェーンに言わせれば、温かさをチームに求めていた。決して大言壮語することなく、謙虚に、物静かに、何事につけても一所懸命に努力するその姿は、多くの人に感動を与えていた。ウーヴェ・ゼーラーが引退した後、それまでの「ウーヴェ! ウーヴェ!」というドイツ代表への声援が、「ベールチ! ベールチ!」と替わったのを見ても、フォクツがいかにファンに愛されたかがわかる。

 クライフ番としてフォクツを指名したものの、実際のグラウンド上ではどんなイメージになるのであろうか。決勝戦の2日前、シェーンは、風変わりな練習試合を行った。ドイツの控えメンバーを使って、「仮想オランダ」チームを作ってみたのである。
  ギュンター・ネッツアーが「クライフ役」を引き受けた。大会が進むにつれ、ネッツアーは本来の調子を取りもどしつつあったのだが、すでに遅すぎた。シェーンは、ハーモニーの出てきたチームのリズムを崩したくなかった。
  この紅白試合でのネッツアーは出色であったという。彼は自分自身のスタイルから、クライフを完全にコピーした。その他の控え選手たちも、それぞれにオランダの選手をイメージしてプレーした。控え選手たちは慣れない役割を完璧にこなし、真剣勝負のリハーサルが可能になった。
  当初は、フォクツがハーフウェイライン付近でクライフを待ち構えるという想定であった。練習試合が始まった。クライフに扮したネッツアーは、自陣のペナルティエリアをうろつき、ボールを取ると前進した。フォクツは作戦通りに途中で待ち構えるのだが、あまりにネッツァーが自陣に深くもどったり、また逆に上がってきたりするのでうまくいかない。フォクツがシェーンに困ったとばかりに合図を送り、試合は中断された。
「監督、相手があんなに下がっては、つかまえきれません」
  チームに笑いが起こった。
「よし、ベルチ、とことんつきまとってやれ!」
  後にシェーンはこう語った。
「この瞬間、私たちは勝利への基礎を築いたのである」
 
1974年当時、ドイツチームの主力メンバーが所属していたFCバイエルン
 決勝を戦うメンバーについて、シェーンは助手のユップ・デアヴァル、主将のフランツ・ベッケンバウアーと入念な打ち合わせを行った。前任者ゼップ・ヘルベルガーがピッチ上の「監督の片腕」として主将のフリッツ・ヴァルターを重用したように、シェーンはベッケンバウアーに全幅の信頼を置いていた。ことに東ドイツに敗れてからは、ベッケンバウアーもはっきりと意見を述べるようになっていた。
  やるべきことはすべてやり、準備は終わった。初戦のチリ戦や話題となった東ドイツ戦の前に比べ、シェーンは、決勝を控えて自分自身が非常に落ち着いていると感じていた。
  決勝当日、会場のミュンヘンのオリンピック競技場に向かうバスの中で、シェーンはもう一度聞いた。
「みんな自分のシューズは持っているか?」
  大事なゲームを前にすると、興奮して時には商売道具を忘れる選手も出てくるという。
  スタジアムの控え室の前で、シェーンはオランダ監督のリヌス・ミケルスと出くわした。互いの幸運を祈りつつも、本音は別であることを、ふたりは十分に承知していた。

開始1分で先制点を奪われる

 1974年7月7日、日曜日。世界のファンの注目を集める中、W杯は決勝の日を迎えた。このゲームは、初めて日本にテレビで生中継されるW杯のゲームだった。

西ドイツのメンバー:
ゼップ・マイヤー(ゴールキーパー)
ベルチ・フォクツ
パウル・ブライトナー
ゲオルク・シュヴァルツェンベック
フランツ・ベッケンバウアー(主将)
ウリ・ヘーネス
ヴォルフガング・オヴェラート
ライナー・ボンホフ
ユルゲン・グラボフスキ
ゲルト・ミュラー
ベルント・ヘルツェンバイン

オランダのメンバー:
ヤン・ヨングブルート(ゴールキーパー)
ヴィム・シュールビール
レイスベルヘン(68分にデ・ヨングと交代)
アーリー・ハーン
ルート・クロル
ヴィム・ヤンセン
ヨハン・ニースケンス
ファン・ハネヘム
ジョニー・レップ
ヨハン・クライフ(主将)
ロベルト・レンセンブリンク(46分にレネ・ファン・デ・ケルクホーフと交代)

  ベッケンバウアーがコインのトスに勝ち、サイドを選択したため、オランダのキックオフとなって試合開始。オランダは、いきなりボールを回しはじめた。確実に、堂々と。シェーンには、それがまるで相手をおちょくるスタイルで知られるプロ・ボクサー、モハメド・アリのように思えた。
  開始後、シェーンが、ベンチに座ったばかりの時、クライフにボールがわたった。クライフはそのままドリブルで前進し、左翼に向かって進路を取る。フォクツは、まだつかまえきれていない。クライフが一気に加速する。フォクツが必死に追い、ヘーネスも食い下がる。ペナルティエリアのライン上でクライフは倒れた。イングランド人の主審ジャック・テイラーの笛が鳴る。PKである。
  W杯の決勝。開始1分。地元チームに対してのPK宣告。ドイツチームは、まだ一度もボールに触れていない。場内は沸き立つが、ベンチのシェーンの目には、妥当なジャッジに思われた。ガッカリするどころか、むしろ淡々としていた。
「あれだけキッチリと反則をとってくれるなら、こっちにもチャンスがある」
  オランダのニースケンスのキックが決まり、ドイツは試合開始1分で0対1のハンディを背負うことになった。
  後に、私はベッケンバウアーにこの時の心境を尋ねたことがある。彼は笑ってこう言った。
「どうってことなかったよ。あと89分あると思っていたからね」

猛攻をしのぎ、歓喜がスタジアムに渦巻く

1974年W杯を記録した本
Fußball WM 1974 Deutschland
©2004 by Agon Sportverlag
 試合が進むにつれ、ドイツ選手たちはチームの意図に従って自分たちの役割を的確に遂行していった。フォクツはクライフをおさえ、オヴェラートが中盤を仕切る。ベッケンバウアーは攻守両方をこなすリベロとしてフィールド全体に目を配っている。ブライトナー、ボンホフが積極的に攻撃参加する。
  前半25分、左からヘルツェンバインがドリブルで突進すると、ペナルティエリア内で、思わずオランダのヤンセンが足を引っ掛けてしまった。テイラー主審の笛。今度はドイツのPKである。チーム内の決め事として、PKはミュラー、ヘーネス、ブライトナーのうち、その時に一番自信のある者が蹴ることになっていた。
  そして、この場面で、敢然とボールを手にしたのは意外にもバックスのひとり、パウル・ブライトナーだった。
「おー、ブライトナーですよ!」
  テレビの実況アナウンサーからは、このような声が上がった。
  W杯決勝の1点ビハインドという緊張の中、ブライトナーは落ち着きはらってゴールを決めた。試合は1対1の振り出しにもどった。
  ブライトナーのPKには、エピソードがある。決勝の翌日、彼は家で試合の再放送を見ていた。
「背番号3(ブライトナー自身のこと)が画面に出てきて、ボールをつかんだ。そしてボールをセットしている・・・。その瞬間、体中から汗が噴き出した。オレは、なんてことをしたんだ。もうそれ以上、画面を見ていられず、消してしまった・・・」
  一日たってから緊張感に襲われるとは、ユニークな感覚と言動で知られたブライトナーらしい。

  同点に追いついたドイツは、主導権を握って攻めつづける。前半終了間際の43分。右サイドからボンホフが突進、中にいたミュラーめがけてゴロのセンタリングを送った。ミュラーの言葉である。
「オレは前に走り、ちょっともどった。ボールが来る。左足に当たって弾んでしまった。で、すぐ右足で左のコーナーめがけて流し込んだ」
  強いシュートではなかったが、タイミングとコースが良く、キーパーも動けなかった。これが決まってドイツが2対1とリードした。ハーフタイム直前のリードは、シェーンには理想的だった。この時間帯のゴールは、相手チームの心理状態に大きな影響を与えることを長年の経験から知っているからである。
  前半終了後、クライフがテイラー主審に食ってかかり、イエローカードを提示された。シェーンにもベッケンバウアーにも、クライフが冷静さを失いかけていることが見て取れた。

  後半、オランダは猛攻を見せた。ボンホフ、ブライトナー、フォクツ、ベッケンバウアーが身を挺して防ぐ。ミュラーやオヴェラートまでが自陣にもどって守備をする。キーパーのマイヤーは、半ダースもの危ないシュートを止めた。
  ドイツにもさらなるチャンスがあった。そのうちの一度は明らかなPKだったが、審判の笛は鳴らなかった。きれいに決まったミュラーのゴールもオフサイドと判定された。
「百里の道は、九十九里をもって半ばとせよ」という日本の諺がある。長旅では、最後の1時間が一番長く感じるとも言われる。この試合、シェーンには、最後の数分が特に耐えがたかった。繰り返し何度もサインを送った。あと3分・・・あと2分・・・あと1分・・・。
  終了のホイッスルが鳴った。スタジアムは歓喜の大爆発となった。控え選手もスタッフも全員ベンチを飛び出した。シェーンは、しばらくの間立ち上がれなかった。後に本人が語るところによれば、この時の彼には猛烈な感激もなく、「人生の夢がかなった」という大仰な感情も起きなかった。ただ「ああ、そうか」という気持ちであった。

ベッケンバウアー、アメリカへ

1978年アルゼンチン大会を紹介した本
Fußball 78,©1978 by Südwest Verlag

 W杯優勝を花道に、オヴェラート、ミュラー、グラボフスキの3人はドイツ代表を引退していった。シェーン自身も引退を考えたが、周囲に説得されて、結局は1978年アルゼンチンでのW杯まで、西ドイツ代表監督を務めた。その間、1976年のヨーロッパ選手権では準優勝を飾る。チェコスロヴァキアとの決勝は、2対2のまま延長に入り、それでも決着せずPK戦で惜しくも敗れた。しかし、この時期を境にドイツのチーム力は次第に落ちていった。
  将来の中心選手と見られたブライトナーは、ネッツアーと同じスペインのレアル・マドリッドに移籍し、その毒舌もあってドイツサッカー連盟(DFB)との関係がギクシャクしていた。ヘーネスは、ケガが尾を引いて不調がつづいた。こうして「黄金時代」を支えた名プレーヤー達が、一人二人と代表を去っていった。そこに、さらに追い討ちをかけるように、仰天するようなニュースが飛び込んできた。
「ベッケンバウアー、アメリカへ移籍」
  私的な事情を抱えていたベッケンバウアーが、W杯を1年後に控えた1977年、FCバイエルンからアメリカのプロチーム、ニューヨーク・コスモスに移ってしまったのである。シェーンにとって、ベッケンバウアーは代表チームになくてはならない存在であった。1978年のW杯でも、ベッケンバウアーを中心としたチーム作りを想定していた。計画が狂い、「大幅黒字が急になくなった経営者」のように感じられたという。
  そのころ、アメリカのサッカーは、ペレに代表されるような欧州や南米の元スター選手を集める一大市場になりつつあった。それでも、米国内では、依然としてアメリカンフットボール、バスケットボール、野球の3大スポーツが主流で、サッカーは一時的なブームに過ぎないと見られていた。サッカーが根付いていない国に、いきなり世界のトップレベルの選手を集めてリーグを作り、興行を行っていくやり方が、はたして正しいのか。アメリカのサッカーは、アメリカの子供たちによってプレーされてこそ、本物になる。シェーンには、アメリカのサッカー関係者のやり方が、まるで家を屋根から作っていくように思われた。
「そんなアメリカで、フランツはいったい何を望んでいるのだろう・・・」
  シェーンには、それがいぶかしかった。それでも、1978年W杯にベッケンバウアーは欠かせないと考えたシェーンは、DFBを通じて、コスモスとの間で繰り返し交渉を行った。コスモス側の回答は「W杯本大会だけ出場を認める」というものだった。
  ドイツ国内では、「アメリカから直接アルゼンチン入りして、そのままピッチに立つことになってもベッケンバウアーを連れて行くべきだ」という世論が強くなった。しかし、シェーンは反対した。代表チームには、その間にも新しいメンバーが加入し、南米遠征や厳しいテストマッチをこなしている。そこへ、ぶっつけ本番で、いきなりベッケンバウアーを加えることは、チーム作りの上で危険をともなう。
  せめてW杯の準備期間に合流させることはできないだろうか。DFBとコスモスの間で、再び交渉が持たれたが進展はなく、ベッケンバウアーはアルゼンチンW杯に出場できなかった。

アルゼンチン大会を終え、“マエストロ”去る

 西ドイツは、前回の優勝国として予選免除でこの大会に臨んだ。世界の強豪チームが、それぞれ世代交代の時期にさしかかっていたこともあり、レベルからいえば平凡な大会だった。それでも地元チームの初優勝でアルゼンチン国内は大いに盛り上がった。西ドイツの結果は2次リーグ(ベスト8)止まりであった。
  シェーンは、将来の西ドイツ代表の中核を担う若手を、アルゼンチンに連れて行った。カール・ハインツ・ルムメニゲ、ハンジ・ミュラー、マンフレート・カルツ・・・。後任監督の座が決まっているユップ・デアヴァルへの引継ぎもスムーズに行われた。

ハンチングがトレードマークだったシェーン
Fußball
©1978 by Verlag Ullstein GmbH.
 1978年、11月15日。フランクフルトでの西ドイツ対ハンガリーの親善試合の前、ヘルムート・シェーンの引退セレモニーが行われた。いつもハンチングをかぶっていたことから「帽子の男」と呼ばれた彼は、こうして世界サッカーの表舞台から去っていった。この日は、60分を過ぎたあたりから濃霧がたちこめ、そのまま試合が中止になるという、何か不思議な夜であった。

  1996年2月22日。「世界で一番成功した代表監督」といわれたヘルムート・シェーンは、ドイツのヴィースバーデン市で静かにこの世を去った。享年80歳。晩年はアルツハイマー型の認知症であったという。
  シェーン夫人アンネリーゼは、夫の老醜を見せたくなかったのであろう。シェーンの晩年を知る人は、ごくわずかである。代表チームで、シェーンにかわいがられたヘルムート・ハラーが見舞いを申し込んでも、面会はかなわなかった。
  英国の新聞『ガーディアン』は、シェーンを評して「サッカーのマエストロ」と讃えた。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』にてドイツ・サッカー物語「2006年へのキック・オフ」を連載中

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