風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series スポーツ & ヒストリー
ドイツとドイツサッカー 明石 真和
06/01/15

第16回 黄金時代とヘルムート・シェーン(その10)

2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

ブンデスリーガと代表選手

ドイツ代表チームのマーク入りキャップ

 ヘルムート・シェーンが、西ドイツ代表監督の座に就いたのは1964年である。その時点で、全国統一のプロリーグであるブンデスリーガは、発足してまだ1年しかたっていない。シェーンは、インタビューにこう答えている。
「プロリーグにはプラス面とマイナス面の双方あるだろうが、いずれにせよ、発足1年の今の時期は、チームも指導者も選手も、(プロとしての)経験を積むことが大切だと思う」
 ブンデスリーガ初年度には、1954年の第5回ワールドカップ(W杯)・スイス大会で「ベルンの奇跡」と呼ばれる優勝を遂げた時のメンバーの何人かが、まだ現役でプレーしていた。例えば、1.FCケルンのハンス・シェーファー(36歳)、1.FCニュルンベルクのマックス・モーロック(38歳)、そしてマイデリッヒャーSV(後にデュースブルMSV)のヘルムート・ラーン(34歳)。ラーンは、1954年にベルンでドイツをW杯初優勝に導く決勝点を挙げた選手である。これら老雄ともいえるベテランに交じって、後の西ドイツ代表の屋台骨を支えることになるヴォルフガング・オヴェラートやヴォルフガング・ヴェーバー(共に1.FCケルン)といった選手が、19歳の若さでデビューしていた。チーム内でベテランが新人の良きお手本になった。シェーファー、モーロック、ラーンは、ほどなくしてチームを去っていくが、ドイツサッカーの伝統や経験は若い世代に伝えられ、蓄積していった。
 1970年のメキシコW杯が終わると、今度はブンデスリーガ初期に全盛を迎えていた選手たちが、次第に代表を退いていった。いわば「ベルンの奇跡」の次世代の選手たちである。その象徴ともいえるウーヴェ・ゼーラーは、1970年9月9日のハンガリー戦を最後に代表から引退した。彼には、それまでフリッツ・ヴァルターしか受けていなかった「ドイツ代表名誉主将」の称号が与えられた。ひとつの時代が終わった。
 メキシコ大会後に引退した選手たちのほとんどは、シェーンの前任者ゼップ・ヘルベルガー時代からの代表選手である。つまり、ここにいたって初めてシェーンは、「自分の時代の選手たち」つまり、戦後生まれの選手たちと本格的に向き合うことになった。
 シェーンによれば、代表チームは「2つのドアをもった部屋」に例えられるという。
「代表チームは、2つのドアをもった部屋のようなものである。ドアは両方とも開いており、中は強い風が吹いている。一方のドアから人が入り、もう一方からまた出て行く。常にすばらしい出来を示した者だけが、部屋にとどまることができる」
 1966年W杯ではドイツ代表コーチとして、シェーンとともにチームの執行部にいたデトマール・クラマーも代表チームの編成方法を「2つのドアをもった部屋」と例えている。源をさぐれば、両者の恩師であるヘルベルガーに行きつくのであろうか。ドイツ式コーチングは世代を越えても軸のぶれないことで知られるが、2人が使う例えまでが同じというのは、そのことを証明しているかのようだ。

新生西ドイツ代表期待の星、ネッツアー

 1970年代前半のブンデスリーガは、2つのチームが覇権を競っていた。フランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラーを擁する南部のFCバイエルンと、オランダ国境に近い北部の小都市に本拠を置くボルシア・メンヘングラットバッハ(ボルシアMG)である。
 第二次大戦前からそれなりに名前の通っていたFCバイエルンとは異なり、ボルシアMGは、1960年代にヘネス・ヴァイスヴァイラーを監督として迎え、一気に頭角を現してきたクラブであった。1919年生まれのヴァイスヴァイラーは、けがのために現役生活は短かったが、指導者としてゼップ・ヘルベルガーの後を継いでケルン体育大学の講師になり、サッカーコーチ養成講座を受け持っていた。彼は、同時にボルシアMGの監督も兼任し、メンヘングラットバッハ市周辺の才能ある若手を集めて育て、着実にチーム力をアップさせていった。1915年生まれのシェーン、1925年生まれのクラマーと並んで、ヴァイスヴァイラーもまたヘルベルガー後のドイツサッカーを支えた名物監督の一人である。
 ボルシアMGは、創設時のブンデスリーガ入りこそ逃したものの、3シーズン目の1965/66シーズンに、地域リーグからの過酷な這い上がり戦を勝ち上がり昇格。この年のもうひとつのブンデスリーガ昇格チームは、後にライバルとなるFCバイエルンであった。

ドイツチーム黄金期のゲームメーカー、ネッツアー

 このボルシアMGの中心選手が、市内の種商人の息子ギュンター・ネッツアーである。天才といわれ、1970年W杯でも代表候補になっていたが、けがでコンディションを崩して最終選考にもれた不運の名手だった。
 ネッツアー、それにドイツ代表の守備の要として成長著しいベルチ・フォクツといった選手をそろえ、周囲にも名手を配したボルシアMGは、1969/70シーズン、ついにブンデスリーガ優勝を果たす。その時の選手で、浦和レッズ監督も務めたホルスト・ケペルは、「選手生活で一番うれしかったのは、ボルシアMGで初優勝した時」と言い切った。小さな町のクラブチームの優勝は、地方意識の強いドイツで、信じられないほどのインパクトであったろうと想像できる。
 シェーンは、新しい西ドイツ代表の中核として、このネッツアーを計算に入れていた。ネッツアーを中盤のコントロールタワーとして起用すれば、ベッケンバウアーを下がり目の位置に配することができる。もともとベッケンバウアーは、FCバイエルンでは、特定のマーク相手を持たない「リベロ(自由な人)」というポジションでプレーしていた。守備陣の最後尾に位置して、バックスの組織を整えるとともに、チャンスと見れば一気に前線に駆け上がる。攻守両面でのキープレーヤーといえた。彼ほどの選手なら、指揮官役も十分にこなせると見てとったシェーンは、代表チームでは中盤で使っていた。ベッケンバウアーは、この役割に不満があったというわけではないにせよ、本音ではやはり手慣れたリベロでのプレーを望んでいた。ネッツアーの成長でその問題が一気に解決に向かうと思われた。
 ところが、ここに厄介な問題が持ち上がった。それまで2回のW杯でドイツの中盤を支えたヴォルフガング・オヴェラートとネッツアーのコンビネーションである。2人ともワールドクラスの名手であり、それぞれに長所を持っている。シェーンは、両名の併用を常に考えていた。ところが2人を同時に起用すると、どことなくチグハグなのである。あれやこれや新チームを模索するうち、ヨーロッパ選手権の予選が迫ってきた。

実現まで30年を要したヨーロッパ選手権

 ヨーロッパ内の国別対抗選手権大会を、最初に考案したのは元フランス・サッカー協会事務局長のアンリ・ドロネーである。国際サッカー連盟(FIFA)の役員も務めていた彼は、すでに1927年に、FIFAに対してこの大会の開催を提唱している。その時点では、W杯開催が検討段階にあり、またオリンピック競技のサッカーもFIFAがとりまとめなくてはならず、機は熟していなかった。
 ようやく第二次大戦後の1954年に欧州サッカー連盟(UEFA)が誕生し、ヨーロッパ選手権も具体的に議論されるようになっていく。それでも、なかなか実現の見通しがたたない。提唱者のアンリ・ドロネーは1955年に死去。折しも国の枠を超えたクラブ対抗選手権「ヨーロッパ・チャンピオンズカップ(現在のヨーロッパ・チャンピオンズリーグ)」が1955/56シーズンから開始された。
 1957年、アンリの息子ピエール・ドロネーが、父親のアイディアを再び提案するが、反対する国が多かった。筆頭は西ドイツだ。「2つのW杯の間は、新しいチーム作りの期間であり、ヨーロッパ選手権は邪魔になるだけだ」というヘルベルガーの意見に代表されるように、消極派が多数を占めていた。同じ年、UEFA総会がドイツのケルンで開催され、「ヨーロッパの国別対抗選手権大会」が議案として取り上げられた。英国勢は態度を保留。西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、スイスといったサッカー界では名のある国々は反対を表明するが、14ヵ国の賛成を得ることができた。こうして名称を「ヨーロッパ・ネーションズカップ」として、新しい選手権が誕生することになった。アンリ・ドロネーの夢は、30年たって実現にこぎつけたのである。
 1960年第1回大会はソ連が優勝。1964年の第2回はスペイン。毎年行われるクラブ対抗の選手権と並行して、4年に一度、W杯の中間年に開催されるこの大会は、次第にファンや専門家の注目を集めていく。1968年大会から、名称も正式に「ヨーロッパ選手権」と変更された。こうなっては西ドイツも参加に踏み切らざるをえない。かくして1968年から、W杯と並ぶ、もうひとつの主要な大会としてヨーロッパ諸国に認知されたのである。
 その1968年大会、西ドイツは予選段階でアルバニアと引き分け、同じグループにいたユーゴスラビアの後塵を拝してしまった。ユーゴは決勝まで進み、惜しくも敗れたものの大健闘である。優勝はイタリア。そのイタリアは、1970年W杯で準優勝している。ヨーロッパ選手権は、次のW杯への試金石ともいえた。

72年大会とドイツチーム、スキャンダルを乗り越えて

 1972年のヨーロッパ選手権では、8つのグループに分かれて予選を行った。それぞれの1位チームだけが準々決勝に進出できる。グループ8に入った西ドイツは、アルバニア、トルコ、ポーランドとの争いである。シェーンは、オヴェラートとネッツアーを可能な限り一緒にプレーさせてみた。だが、思ったような効果が出ない。両名とも、私生活では仲が良く、お互いを認め合っているのだが、プレーになると齟齬が出てしまう。

フランツ・ベッケンバウアーと筆者、1995年9月

 収穫は、むしろベッケンバウアーであった。中盤でのゲームの組み立てをオヴェラートやネッツアーに任せ、リベロ役をこなすようになった彼は、生き生きと動きまわり、しかも堂々としたプレーを見せていた。精神的にもひとまわり成長した感があり、周囲の尊敬を集め、主将も任せられるようになった。予選では、トルコやアルバニアに手を焼く場面もあったが、致命的な敗戦はなく、順調に勝ち点を伸ばして突破を決めた。
 そんなさなか、ドイツ国内に「ブンデスリーガ・スキャンダル」と呼ばれる大事件が起こった。1970/71年シーズン終盤、下位に低迷しブンデスリーガからの降格を危惧された複数のクラブが、上位チーム相手に八百長を持ちかけた。関係者の証言から、それが明るみに出てしまったのである。この一件は、サッカー界のみならず、ドイツ全土をゆるがす事件に発展した。噂にのぼった試合は18にもおよび、選手の中には当時の代表や元代表も含まれていた。スキャンダルにまみれた選手は使えない。シェーンは大打撃を受け、さらなる試行錯誤がつづいた。

 予選を通過した西ドイツと、準々決勝で対戦することになったのはイングランドであった。メキシコW杯準々決勝に続き、再びヘルムート・シェーンとアルフ・ラムゼー「宿命の対決」である。
 1972年4月29日にロンドンのウェンブレイ・スタジアムで行われる試合に備え、シェーンは選手選考を行った。記者たちはシェーンにこう言った。
「本当にこのメンバーでイングランドに立ち向かうつもりですか? チャンスは皆無ですよ!」
 オヴェラートとフォクツはけがで療養中。ラインハルト・リブダ、クラウス・フィヒテルをはじめとする5名はスキャンダルの疑いがある。未知数の若手を加え、限られたメンバーで戦うしかなかった。
 4月24日、三々五々フランクフルトに集結した選手たちを見て、シェーンは驚いた。ネッツアーは、直前の試合でゴールポストに激突して負傷をかかえていた。ホルスト・ヘッティゲスはひどい風邪をひいていた。ベッケンバウアーやミュラーのFCバイエルン勢は、自チームの不振から浮かぬ顔である。手のつけようがない状態だった。
 シェーンは一計を案じた。選手に過度の期待を負わせることをせず、リラックスした中でボールを使った練習を多く取り入れた。さらに気分転換もはかった。代表選手をコメディーの芝居見物に連れて行ったのである。ふだん、なかなかそのような催しに出かける時間のない選手たちには好評であった。ミュラーなどは、その後もたびたび「また芝居に行きませんか?」と誘いかけてきたという。
 練習プログラムでは、コンビネーションプレーに特に多くの時間を割いた。通常、それぞれの所属クラブでプレーしている選手たちには、相互の意思疎通が十分になるまで練習する必要があった。
 そうこうするうち、選手の間に、次第にプレーへの意欲と自信がよみがえってきた。選手一人一人が、細かいことにとらわれることなく、純粋にサッカーそのものに集中していく心理状態に達するのが見てとれた。その不思議なプロセスは、長い監督生活を送ったシェーンにとっても、最初で最後の経験であったという。

ドイツ歴代最強チームの誕生

Fussball Europameisterschaft 1972
© 1972 by Copress-Verlag, München
(注1)

 1972年4月29日。土曜日。小雨模様のロンドン、ウェンブレイ・スタジアム。観客は満員の10万人だったと伝えられている。
 イングランド側は、ドイツが守備的な作戦に出ると読んでいた。5月13日に予定されている第2戦、ベルリンでのホームゲームに備え、ドイツがアウェイでの引き分けを狙ってくると予想したのであろう。シェーンは「引き気味にするな! 自分たちのゲームをやろう!」と命じてチームを送り出した。
 午後7時45分キックオフ。ドイツチームは自信満々で緑のフィールドに飛び出して行き、堂々と攻撃を開始した。戦術のポイントは、ベッケンバウアーとネッツアーのコンビにあった。2人の間には、1人が上がる時には1人が下がるという相互の了解があり、美しいほどのハーモニーをかもしだしていた。守備では、FCバイエルンのゲオルク・シュヴァルツェンベックが同僚ベッケンバウアーをサポートする。攻撃では、ボルシアMGのヘルベルト・ヴィンマーが、常に僚友ネッツアーからのパスを受けやすい位置に動く。ダイナミックな若手ウリ・ヘーネスやパウル・ブライトナーが押し上げる。ウィングはベテランのズィギィ・ヘルトに技巧派のユルゲン・グラボフスキ。攻撃陣の真ん中ではW杯得点王のミュラーが待ち構える。
 前半27分、ヘルトからミュラー、再びヘルトを経てヘーネスのシュートが決まった。名キーパー、ゴードン・バンクスもお手上げだった。1対0でドイツがリードする。
 後半32分に同点に追いつかれたが、その7分後、ヘルトが足を引っ掛けられ、PKを得る。キッカーはネッツアー。キックの方向を読んだバンクスの手に触れたものの、ボールはそのままゴールに飛びこんだ。ジャンプして喜ぶネッツアー。さらに、終了直前、ヘーネスからのパスを受けたミュラーが、身体をすばやく回転させゴールを決めた。周囲にいた5人のイングランド・ディフェンダーは、なすすべもなかった。西ドイツは、宿敵イングランドを3対1でくだした。敵地ウェンブレイでは初めての勝利だった。
 ベンチのシェーンには、ネッツアーの姿がいつまでも忘れられない思い出として残った。ブロンドの長髪をなびかせたネッツアーが、ウェンブレイの照明の中、足元にボールを置いて、中盤を突進していく。40メートルのロングパスを繰り出したかと思えば、次はショートパス。速攻に遅攻、自由自在の攻撃。ネッツアーが自陣に戻れば、ベッケンバウアーがスーッと上がっていく。サッカー通として知られるイングランドの観衆も、ネッツアーにボールが渡るたびに「あ〜あ・・・」というため息をもらした。この夜は、まさに「ネッツアーの日」だった。
 引退後、シェーンはこう語っている。
「このゲームのビデオを私は所蔵している。ノスタルジックな気持ちになり、ほんとうに良いサッカーが見たくなると、私は『イングランド72』というカセットを入れ、ソファーに座って思い出にひたる」
 1995年、ギュンター・ネッツアーと話す機会を得た時、私はまっさきに「あなたの代表ベストゲームは?」と聞いてみた。答えは「3対1のイングランド戦」だった。

Die Elf des Jahrhunderts und
die Europameisterschaft 1972

© 1996 by Agon Sportverlag
(注2)

 西ドイツに、もはや死角はなかった。ゴールキーパー、ゼップ・マイヤー、守備の要ベッケンバウアー、中盤の指揮官ネッツアー、得点王ミュラーと各ポジションにワールドクラスの名選手がそろっていた。
 ホームのベルリンではイングランドと0対0で引き分けたが、第1戦の勝利が効いて、準決勝進出。当時のヨーロッパ選手権は、準決勝に残った4ヵ国のうちのいずれか一国に4チームが集まって戦う方式であり、1972年はベルギーで行われることが決まった。
 西ドイツは、ここでも準決勝でベルギーに2対1、決勝でソ連に3対0と危なげなく勝ち、欧州トップの座についた。1970年W杯に優勝したブラジルをはじめとする南米勢が、いまひとつインパクトに欠けていたこの時代、西ドイツが世界最高のサッカーを示していたのは疑いがない。
 1972年の代表チームは、現在も歴代ドイツ代表で「最強、最高」との呼び声が高い。強さだけでなく、流れるような美しさを兼ね備えたサッカーに対し、いちはやく「トータル・フットボール」という称号を与えて報道した英国の新聞もあったという。
 シェーンは考えた。
「勝って兜の緒を締めよ、だ。2年後にW杯がある。それまでこのチームを維持しなくては!」
 強力なチームを作るのは難しい。だが、それを維持するのはもっと困難だ。自国開催のW杯に向け、シェーンとドイツチームは、そのことを身をもって体験することになる。

(敬称略、つづく)

BACK NUMBER
PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』にてドイツ・サッカー物語「2006年へのキック・オフ」を連載中

新書マップ参考テーマ

サッカーとワールドカップ

(注1)
1972年ヨーロッパ選手権を紹介している

(注2)
表紙の写真は決勝の西ドイツ対ソ連の試合

PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて