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Series スポーツ & ヒストリー
ドイツとドイツサッカー 明石 真和
05/10/15

第13回 黄金時代とヘルムート・シェーン(その7)

2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

ゼーラーかミュラーか

 1960〜70年代、4回のワールドカップ(W杯)に西ドイツ(当時)代表を率いた監督ヘルムート・シェーンは、190センチを越す大柄な人物である。身体が大きく、おおらかな人柄に見えながら、同時代の人たちが一様に伝えるところではとても繊細な人物であったという。細かなことに気を配り、また小さなことが気になるタイプであった。
 彼は、「売らんかな」のために大仰な見出しを掲げる新聞や雑誌記事には、常に閉口していたようである。「(あることないことを書く)低俗紙は読まない」と語っていたそうだが、その実きちんと目を通していたという証言もある。
 そんなシェーンにとって、1970年のメキシコW杯の予選突破に向け、センターフォワードの座をめぐって「(ウーヴェ・)ゼーラーか(ゲルト・)ミュラーか」と書きたてられることは心外であった。「ゼーラーかミュラーか」ではなく、「ゼーラーとミュラー」の併用は可能であるというのがシェーンの意見だった。ミュラーやゼーラーのような一流選手が、互いに協力しあえないはずはないというのだ。しつこいほどのマスコミの攻勢の中で、シェーンはだんだん苦しい立場に追い込まれていった。

ゲルト・ミュラー、2003年
後ろはバイエルン・ミュンヘンのクラブハウス

 ところが、シェーンより先に神経がまいってしまったのが、当事者のミュラーだった。
ウーヴェ・ゼーラーの地元ハンブルクでの試合になると、ミュラーに対して「ウーヴェ、ウーヴェ」といやがらせのシュプレヒコールが沸き起こる。ミュラーがミスをすると、すかさず「ウーヴェ、ウーヴェ」である。ミュラーにしろゼーラーにしろ、個人的には敬意をもち、互いを認め合っているのだが、新聞紙上では対峙して扱われてしまうのである。そして、とうとうマスコミの挑発にのって、ミュラーがこう言い出してしまった。
「シェーン監督は、ゼーラーかオレか決断すべきだ」
 シェーンには、これが気に入らなかった。ある日、フランクフルトのドイツ・サッカー連盟(DFB)本部にメキシコW杯の代表候補が集まった機会をとらえて、ミーティングの席上、全員の前でミュラーを叱った。
「ミュラー君。あなたは『ゼーラーかミュラーか』と言っているそうだが、あなた自身がまだメキシコに行けるかどうかもわからないんですよ。決定はこれからなんだからね。私だったら、そんなものの言い方はしないけどね」
 ドイツ語では、2人称の「あなた、きみ」に相当する表現が二通りある。初対面の人や目上の人に対して一定の距離をおく丁寧な言い方(敬称)と、家族、友人、恋人など親しい間柄での言い方(親称)であり、それによって互いの関係がはっきりする。このときのシェーンは、意図的に敬称を使った。丁寧な言い方ということもできるが、ふだん親称を使っている相手に対し、急に敬称を使うのは異例であり、他人行儀なひびきになる。ミュラーは、目を丸くしてシェーンを見た。
 ミーティングが終わると、別室にコーヒーの用意ができていた。シェーンは、ミュラーの隣に座り、今度はいつものように親称で話しかけた。
「わかってくれたかい」
 ミュラーの答えはまことに彼らしく、まわりくどい謝罪ではなく、ボンッというキャノンシュートのような一言だった。
「ぼくがまちがっていました」
「ゲルト、それでいいんだよ!」

W杯出場なるか!? スコットランドとの決戦

 1969年10月、ハンブルクのフォルクスパルク競技場。メキシコW杯への出場をかけ、雌雄を決する対スコットランド戦である。シェーンは、ゼーラーとミュラーの併用を貫いた。それまでに何度かふたりを一緒に起用して、そのマイナス面もわかっていた。センターフォワードは、ゴールを狙うのに最適の場所を本能的に心得ている。当初は、ゼーラーとミュラーがあまりに接近しすぎてしまう場面がよく見られた。シェーンは、ふたりがどうすればうまく機能するか、頭の中で何度も考えをめぐらした。その結果、主将のゼーラーにこう説明した。
「ウーヴェ、きみは前線から一歩引いてくれないか。下がり目に位置して、中盤の役割も受け持ってくれ。ゲルトに前方のスペースを作るためだ」
 ゼーラーは納得した。シェーンは、あらためてゼーラーの人間的な大きさを感じた。
 決戦は、息の詰まるような出だしとなった。開始3分でジミー・ジョンストンに決められ、スコットランドに先制を許したのだ。その後も守備陣が安定せず、やきもきする時間帯がつづく。ようやく前半38分になってシャルケ04所属のディフェンス選手クラウス・フィヒテルが同点ゴールを決めた。
 それでもドイツが優位に立ったとはいえなかった。スコットランドの早めのチェックに苦しみ、ギクシャクとしていた。そんな後半15分、いきなりゲルト・ミュラーがやってくれた。「いつのまにかそこにいて」決めた、彼独特のゴールだった。2対1。ドイツのリード。記者たちは電話口で叫び、実況のテレビは「メキシコ行きが決まりそうです」と伝えた。
 ところが2分後、スコットランドはアラン・ギルジーンのゴールで同点に追いつく。再び押しつ押されつの攻防がつづく。この間、何度か危ない場面があり、そのつどドイツ応援団は息をのんだ。後半も残り10分が近づいたころ、中盤の戦いでヘルムート・ハラーがボールを奪い取った。斜めのパスが前方のラインハルト・リブダに通る。リブダは語る。
「かなり消耗していたが、ハラーからボールが来たとき、フリーのスペースが見えた」
 ボールを受けたリブダは、一気に加速した。背後にマーク相手のトミー・ゲミルの気配を感じた。ファウルしてでも止めにくるな・・・そう思って飛び上がった。ゲミルのタックルは空をきった。さらに何メートルか走ると、ゴールキーパーが必死の形相で飛び出してきた。リブダ、キーパーをかわすようにシュート! ゴール!
 ハンブルクの観客は大騒ぎとなった。リブダが喜びのあまり、ピッチででんぐり返りをすると、何人かのドイツ選手がそれにつづいた。「私もできればそうしたい気持ちだった」とはシェーンの述懐である。3対2。ドイツは、前回につづいて予選を突破し、W杯本大会への出場を決めた。どんよりとしたハンブルクの秋の日だった。

悲劇のスタープレイヤー、ラインハルト・リブダ

リブダと筆者、1978年

 予選で大事な決勝点を決めたラインハルト・リブダは、私にとっても思い出の人物である。高校時代サッカー部でウィングをしていた私には、同じポジションで「ドリブルの名手」として知られるリブダが、憧れの選手のひとりだった。
 彼は、戦争さなかの1943年10月10日に生まれた。一家はルール地方の炭鉱町ゲルゼンキルヘン(シャルケ04の本拠地)に住んでいたが、空襲で焼け出されていたため、彼は疎開先で生を受けた。
 戦後、父親パウルはふたたび炭鉱で働き、余暇にサッカーを楽しんでいた。そんな父の目には、ラインハルト少年の才能がはっきりと見てとれた。「あいつにはサッカーの血が流れている」 小さな頃から、とにかくボールを持たせれば天性の素質を示したのだという。特にドリブルには光るものがあった。
 そんな才能がいつまでも埋もれているはずがない。11歳のときには、シャルケ04に入団。14歳で中学を終えると機械工の見習いとなり、仕事のかたわらサッカーをつづけた。1962年、弱冠18歳で1軍にデビュー。このシーズン、25試合に出場して8点を挙げている。学校の勉強は苦手だが、サッカーをさせれば誰よりもうまい。そんな彼をシャルケの人たちは愛した。ルールの炭鉱町の人たちは愛した。
 翌1963年は、ドイツ・サッカーにとって記念すべき年である。全国統一のプロリーグ「ブンデスリーガ」が創立されたのだ。リブダは、当然のようにプロ選手となった。同年9月には、20歳で代表に初選出された。イングランド伝説のウィング、スタンレイ・マシューズばりのフェイントを得意とするリブダに、いつしか「スタン」というあだ名がついた。
 シャルケが2部落ちの危機に陥った1965年、リブダは隣町の強豪ボルシア・ドルトムントに移籍。ここで1966年「ヨーロッパ・カップ・ウィナーズカップ」(現在はUEFAカップに統合されている)で優勝する。この間、町一番の美人と評判のギゼラと結婚、一子マティアス・クラウディウスも生まれた。1968年には古巣シャルケに復帰。未来はバラ色に思われた。
 ところが彼にも弱点があった。精神的に弱く、むら気が多いのだ。今日すばらしいプレーをしたかと思うと、次の試合では精彩を欠き、どこにいるかわからない・・・というようなことが度々であった。特に妻のギゼラに関する野次が飛ぶと、それだけで動揺してしまうというもろさがあった。天才肌で監督泣かせの選手である。
 メキシコW杯以後の話になるが、ブンデスリーガに大騒動が起こった。1970/71シーズンも閉幕が近いころ、成績が悪く2部リーグ降格を噂されたあるクラブが、対戦相手のチームに八百長試合をもちかけたのである。結局はこのもくろみが発覚し、関係した複数のクラブはきつい処罰を受けた。残念なことにリブダが主将を務めていたシャルケもそのひとつであった。多くの選手が、当初その事実を否定したことが仇となり、最終的には「偽証罪」に問われた。中には永久追放になった選手もいる。「ブンデスリーガ・スキャンダル」と呼ばれる、ドイツ版「黒い霧」事件である。
 その後恩赦が下り、ほとんどの選手が再びフィールドに復帰できたのだが、サッカー界への信頼は地に落ち、観客数は激減した。リブダにもかつてのプレーは戻らず、わずかな金のために、信頼とその後の選手生命を棒にふった形になった。1974年9月、シャルケ04対フォルトゥナ・デュッセルドルフ戦が、リブダの最後の試合となった。シャルケの選手としてブンデスリーガ190試合に出場、20得点の成績が残った。
 引退したリブダに、温かい手を差し伸べてくれる先輩がいた。戦時中のシャルケ黄金時代を支えた中心選手のひとり、エルンスト・クッツォラだ。1975年1月、クッツォラは自ら経営していたタバコ屋をリブダに引き継いだ。タバコだけでなく、サッカークジ(トト)も扱う店であり、それなりの収入が見込め、食うには困らないはずだった。
 ところが、「タバコ屋の主」は、リブダの性に合わなかったのであろう。1983年、昔の選手仲間の家族にその店を譲ると、同年、私生活でも離婚。そして、失業。元スターに誰も注目しなくなったころ、職業安定所を訪れる彼の写真が報道されたこともある。1986年、紙のリサイクル会社に就職。それもつかの間、1992年には咽喉ガンが見つかり、翌年に手術。そして1996年8月25日死去。52歳であった。

リブダとの出会い

ボーフム留学時代には会えなかったペレと、1998年

「ペレがシャルケにやってくる!」
 1978年7月、こんな新聞記事が、当時ルール工業地帯の町ボーフムに留学していた私の目にとまった。地元『西部ドイツ新聞(WAZ)』の報道だった。「サッカーの王様」ペレが、アメリカで短期の少年サッカースクールを開校し、シャルケからも何人かの子供を招くという企画である。「近日中に選考会。審査員はペレ!」とあった。
 シャルケのあるゲルゼンキルヘンは、ボーフムの隣町である。私は半信半疑ながら、当日いそいそと出かけていった。会場は、かつてのシャルケのホームスタジアムで、新しいホームであるパルク競技場(パルク・シュタディオン)ができてからは練習場として使用されていた「グリュック・アウフ競技場(グリュック・アウフ・カンプフバーン)」だった。炭鉱では、仲間うちの挨拶に「グリュック・アウフ(無事で上がって来いよ!)」という言葉を使う。それがそのままスタジアムの名称になった。いかにも炭鉱町らしい命名だ。市電に乗って小1時間。電車にはジャージ姿の少年たちが大勢乗っていた。年配の乗客のひとりが声をかける。「おにいちゃんたち、ペレ(の選考会)に行くんだろう?」
 車内での大人と子供たちの会話からわかったことは、WAZの記事とは異なり、審査員はペレではなく、リブダが務めるとのことだった。ペレが来ないのは残念だが、伝説のリブダに会える。それだけでワクワクした。

リブダが店主だったタバコ屋

 市電を降りると、停留所の角に、噂に聞くリブダのタバコ屋があった。角を曲がるとすぐ先に競技場。子供たちの数は100人にものぼった。
 当時のシャルケ会長ギュンター・ズィーベルトと一緒にリブダが姿を現す。現役時代よりいくぶんふっくらとした顔立ちに見えた。サインと写真をお願いすると、快く応じてくれた。その後、何度もシャルケを訪れたが、リブダに会えたのはこの一回きりであった。店に入れば話ができるかな・・・と考えたこともあるが、ことさらの買い物もないため気がひけた。表から店の写真を撮るだけで満足した。
 無口で、いつも不安気な表情をしていたリブダ。すばらしい才能を持ちながら、どこか自信なさげだったリブダ。左へ出ると見せかけ右に抜いて行く「マシューズのフェイント」をさせれば、本家スタンレイ・マシューズよりうまい・・・とまでいわれた“スタン”・リブダ。彼は何におびえていたのだろう・・・。彼の死後、ブンデスリーガの歴史を振り返るテレビ番組で、ゲストとして出演していた1970年代の世界的な名手ギュンター・ネッツアーは、リブダとその人柄を評して「第一級の人物」と褒め称えた。
 生前からすでに「シャルケの伝説」となっていた彼を、ファンはこう評した。
「誰も神を避けることはできない。リブダを除いては・・・」
 ラインハルト・リブダ。その鋭いフェイントで、神様や幸運までも自らすり抜けてしまったような人生であった。

メキシコでの戦いに向けて

 シェーンには、メキシコで行われる1970年W杯本大会に向けて、万全の準備をしたという実感があった。主将のウーヴェ・ゼーラーにゲルト・ミュラーというふたりのストライカー。彼らを生かすチャンスメーカーとして、ラインハルト・リブダ、ユルゲン・グラボフスキ、ハネス・レーア、ズィギィ・ヘルトという4人のウィング選手。中盤を受け持つのはワールドクラスに成長したフランツ・ベッケンバウアーとヴォルフガング・オヴェラート。それにベテランのヘルムート・ハラーが加わる。守備陣はカール・ハインツ・シュネリンガー、ヴィリー・シュルツ、ホルスト・ディーター・ヘッティゲス、ヴォルフガング・ヴェーバーの1966年W杯メンバーに加え、ダイナミックなベルティ・フォクツ、どこのポジションもこなせるクラウス・フィヒテル。ゴールキーパーは、ゼップ・マイヤー。バランスの取れた構成である。以上のメンバーを中心に、リザーブ選手も含め22名を選抜した。
 予選を突破してから、すでに一度現地入りして宿舎の視察も済ませていた。寝室のチェックでは難点が見つかった。日本のホテルでもよく見られる型の、シーツをマットの下にきっちりとはさみこむ方式のベッドだった。ドイツ人は、これが嫌いなのだ。身体をもぐりこませるようにしなくてはならないあの窮屈なベッドでは安眠できない、という声を聞いたことがある。ドイツの一般のホテルでは、ベッドの上にたたんだ毛布が置かれている。普段、掛け布団を使うことの多い日本人も、このドイツ方式のほうがくつろげるのではないか、といつも思う。ドイツ代表チームは、さすがに手慣れたもので、そのような細かなポイントにも配慮し、使い慣れた毛布を大量にメキシコに送った。

シェーンの著書
Immer am Ball,
©1970 by List Verlag München

 食事にも配慮した。1966年イングランド大会でもそうだったのだが、スポーツ選手の料理に精通した名コック、ハンス・ゲオルク・ダムカーを同行させ、また大会期間中に必要となる食材をすべて手配していた。特に選手に徹底したのは、「モンテスマの復讐」と呼ばれる下痢の予防法だった。「水道水を飲むことは厳禁。歯を磨くときもだめ。飲み物に氷を入れるのも禁止。皮をむいていない果実や生野菜もだめ」という具合に、徹底した指示を出した。
 このような用意周到さは、さすがドイツというべきである。シェーンにかぎらず、ドイツ人はすべてに計算づくで、長期的な展望に立って準備をしていく。「W杯では、良い宿舎が見つかれば、半分もらったも同じ」とは、前任者ゼップ・ヘルベルガーの言葉である。

計算外の出来事

 準備のプロセスでは、計算外のことも起きた。メキシコ用に考えていた人物のうちふたりがだめになったのだ。ひとりは名手ギュンター・ネッツアーである。代表の最終合宿を2ヵ月後にひかえたブンデスリーガの公式試合で、大腿部を傷めてしまったのだ。怪我自体はさほどひどくなかったものの、所属チームのボルシア・メンヘングラットバッハが、初優勝への道を突き進んでいる最中であったため、主将のネッツアーは注射をして無理にゲームに出続けていた。これが災いし、コンディションを崩してメキシコ行きの22名からもれてしまった。シェーンは、「君にはまだ未来がある」という慰めの意味をこめて、ネッツアーを「23番目の男」とした。
 もうひとりは助手のウド・ラテックだ。シェーンがメキシコ視察に出かけていた留守の間に、FCバイエルンと契約し、監督に就任してしまったのだ。協会専属のコーチより、クラブ監督のほうがはるかに収入はよい。ラテックにはラテックなりの事情があったにせよ、シェーンにとっては晴天の霹靂だった。
 助手の後任にはユップ・デアヴァルが選ばれた。デアヴァルは、1964年からザールラント協会の専属コーチを務めており、いわばシェーンの後輩筋にあたる。彼はデトマール・クラマーとも仲がよかった。日本の誇るストライカー釜本邦茂が、1968年のメキシコ五輪前にドイツへのサッカー留学を希望した時、デアヴァルのいたザールブリュッケン市のスポーツ学校を選んだのも、クラマーの口利きによるものである。ドイツでの修業とデアヴァルの指導により、釜本はさらに成長し、メキシコでは銅メダルと得点王を獲得した。
 1978年、デアヴァルはシェーンのあとを継いで西ドイツ代表監督に就任し、1980年ヨーロッパ選手権優勝、1982年W杯準優勝という立派な成績をおさめることになる。彼もまた、名指導者のひとりといえよう。

調整に苦しむ選手たち

 メキシコのような高地でW杯が開催されるのは初めてであった。また、審判のジャッジをめぐって大問題の起きた1966年イングランド大会の反省もある。国際サッカー連盟(FIFA)も準備はおこたらず、FIFAコーチであるデトマール・クラマーを中心に、医学班や審判団の研修を重ねた。その結果、いろいろな方面で新しい試みが成された。
 スウェーデンの医師からは、暑さへの対処として試合中の水分摂取が提案され、ゲームの流れが途切れたときにだけという条件付きで補給が許されることになった。また、毎試合2名までの選手交代が認められ、うすい空気に苦しむヨーロッパの選手には好都合となった。警告や退場を意味するイエローとレッドカードが導入されたのも、この大会からである。選手交代やカードについては、すでに2年前のメキシコ五輪でも試験済みであった。
 ドイツチームはさまざまな情報を集め、対策を練っていった。ケルン・スポーツ大学の教授は、「一日でも長く現地にいることがいい」とアドバイスしてくれた。しかし、シェーンは長年の経験から、あまりに長い合宿生活は、選手にとってかえってマイナスであると判断し、ギリギリまで国内での基礎準備に費やした。
 こうしてドイツ北部のマレンテで最終合宿をしたチームは、開幕の2週間前に現地入りした。宿泊先は、1次リーグを戦うレオンに近い湯治場コマンチラ、砂漠の中のオアシスといった感じの場所であった。ホテルのオーナー、カール・ガブリエルはヘッセン地方出身のドイツ系で、ナチスの時代にメキシコに逃れてきたという。彼は、ドイツチームのあらゆる望みをかなえるべく努力してくれた。
 それでもハプニングが起こった。入国の際に、メキシコ当局が厳格な輸入規制を盾に、チームが持参した肉類をすべて没収してしまったのだ。料理シェフのダムカーは、一計を案じた。彼は地元の農夫から雌牛を1頭買い取り、夜、ホテル近くの野外で畜殺したのだ。まるで冒険映画の1シーンである。主催者から公に提供される量では、どうしても足りなかったのである。
 一方、選手たちは、監督シェーンの計算とはうらはらに、調整に苦しんでいた。1969〜70年の厳冬の影響で延期になったゲームが多く、ブンデスリーガの公式試合がずれこみ、過密日程になった。代表選手たちは、激しいシーズンの終盤戦と並行して、W杯の準備にとりかからねばならなかった。4月から5月にかけては3試合のテストマッチもこなした。4月8日ルーマニア(1対1)、5月9日アイルランド(2対1)、5月13日ユーゴスラビア(1対0)と、国内でのホームゲームにもかかわらず、芳しい成績ではなかった。中心選手のひとり、ヴォルフガング・オヴェラートによれば、
「表面では平静を装っても、本音では『1次リーグを突破できれば上出来』と話し合っていた」
 という。
 現地では、8時間の時差に高地特有のうすい空気と、まったく異なった環境への順応が必要であった。特に暑さが予想以上だった。
「こんな猛暑の中でプレーするなんて狂気の沙汰だ」
 とベッケンバウアーが言えば、
「太陽が最大の敵」
 とオヴェラート。暑さには強いグラボフスキでさえ、短い距離のダッシュで
「50キロのレンガ石をぶらさげているようだ」
 とコメントする。しかもヨーロッパへのテレビ中継を考慮して、ゲームによってはキックオフが昼の12時という異例の時間帯である。太陽が真上から照り付け、気温は50度近くまで上昇する。
 1966年大会で大活躍したヘルムート・ハラーは、ことに調整不足が目立ち、朝早くから個人的に特別訓練をするほどであった。それでもさすがに一流の選手たちである。個人差があるとはいえ、次第に動きに鋭さが見られるようになった。そんなおり、チームを悩ませる問題が持ち上がった。

靴戦争

「プーマがまた騒ぎだした」
 ある日、シェーンはコマンチラでこんなセリフを耳にした。そのときには、選手間での他愛ないジョークだと受け止めていたが、主将のウーヴェ・ゼーラーが相談に来るにおよんで、ことの重大さを知ることになる。ゼーラーは言った。
「シューズのことで、チーム内に動揺がみられます!」
 ドイツ代表チームの公式サプライヤーは「アディダス」と決まっていた。それを幾人かの選手が「プーマ」を履くことで臨時収入を望んでいるというのだ。
 もともと、プーマとアディダスは兄弟である。ニュルンベルクに近いヘアツォーゲナウラッハ生まれの靴職人であったルドルフとアドルフのダスラー兄弟が、それぞれ独立して起こした会社であった。どちらも世界的企業に発展し、2大スポーツ用品メーカーとして君臨していた。
 この一件はエスカレートし、ドイツ国内の新聞でも報道される始末であった。選手の言葉として、こんな見出しが躍った。「金をよこせ。さもないと帰国するぞ!」 ドイツ代表の歴史でも、過去に例のない事態である。シェーンは選手を集めて言い放った。
「よく聞いてくれ。ここから20メートル離れたところにヘルマン・ヨッホ君(DFB役員)の執務室がある。帰国を望むものには、すぐ飛行機のチケットを発行する手はずになっている」
 ざわめきが聞こえたが、立ち上がる選手はいなかった。
 シェーンには、この靴戦争がサッカーの商品化の始まりに思えた。プロの選手が報酬を得ることには賛成でも、その傾向が行き過ぎると、いつか企業側からの干渉や管理に発展するのではないか・・・。シェーンは、それを恐れていた。ともあれ、靴戦争はひとまず落ち着き、いよいよ初戦に備えることになった。

あわや、敗退・・・

1970年W杯記録ビデオの表紙
“The World at Their Feet”
©Meadway Productions 1970

 1次リーグの組み分けで、ドイツはモロッコ、ブルガリア、ペルーとともにグループ4に配属された。グループの上位2チームが準々決勝進出である。マスコミや専門家の間では、ドイツはクジ運に恵まれたという見方が多勢を占めていた。慎重なシェーンは、決してこの意見にくみせず、対戦相手の3国は、いずれも暑さ慣れしているチームだと主張した。16ヵ国しか出場できないW杯本大会で、弱いチームの存在やラッキーなクジ運などありえない。油断は禁物だ、というのがシェーンの常套句だった。初戦のモロッコは、未知数ながらアフリカ予選を勝ち抜いたチームなのだ。相応の集中力で臨むことを選手に要求した。ところが・・・。
 1970年6月3日。1次リーグ第1戦。ドイツチームの出来は散々であった。明らかに相手を見下したプレーぶりで、なかなかゴールが決まらない。逆にモロッコは、ドイツ守備陣とキーパーの連携ミスをついて、前半21分に先制した。ミュラー、ヘルト、フォクツが次々とシュートを放つが、惜しくもはずれる。ハーフタイムまで、スコアは0対1のままだった。調子の出ないドイツの試合ぶりに、次第に番狂わせの予感が広がっていく。
 控え室で、シェーンは拳でテーブルをたたきながら、指示を出した。
「もっと速いプレーをしろ。このままではだめだ。主導権を握らなくては! ハラー、きみはアウトだ。グラボフスキが入る。モロッコは時間かせぎにくるから気をつけろ」
 このグラボフスキの投入により、チームに新しい風が吹き込まれた。後半11分、ミュラーのアシストでゼーラーのシュート。ゴール。1対1。同点。
 さらに後半35分、オヴェラートからの縦パスを受けたグラボフスキがセンタリング。飛びこんだレーアのヘディングがバーではねかえった。独特の嗅覚でゴール前に詰めていたミュラーが、ヘディングで押し込む。2対1。W杯で初得点を挙げたミュラーは、小躍りして喜んだ。これでどうやら危機は脱したが、試合後の選手たちは意気消沈していた。

 ドイツ国内では、大騒ぎになっていた。きつい非難の嵐だった。デトマール・クラマーが、メキシコからドイツ第2テレビを通じて、シェーンの作戦の誤りを指摘したという情報も入ってきた。「同僚に似つかわしくない」と感じたシェーンは、その後しばらくクラマーとは口もきかなかったという。
 そんなこんなの風潮の中、次のブルガリア戦ではスッキリとした勝利がほしいところだ。初戦でゼーラーとミュラーがそれぞれ1点ずつ決めたのは収穫にせよ、チームの編成を変えなくてはならない。長年、代表チームに貢献したヘルムート・ハラーには、もうチャンスがなかった。テクニックのあるハラーのような選手を好いていたシェーンは、後にこう語った。
「ヘルムート・ハラーには、もっと良い形での代表からの引退を望みたかった」

(敬称略、つづく)

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』にて連載開始

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