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Series スポーツ & ヒストリー
ドイツとドイツサッカー 明石 真和
05/08/15

第11回 黄金時代とヘルムート・シェーン(その5)

2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

1966年W杯、決戦前夜

 1966年第8回ワールドカップ(W杯)・イングランド大会は、大詰めをむかえていた。決勝で開催国イングランドと当たることになった西ドイツ監督ヘルムート・シェーンは、決勝戦の2日前、ウェンブレイ競技場の3位決定戦に足を運んだ。
 準決勝でそれぞれイングランドと西ドイツに敗れたポルトガルとソ連の対戦は、「2対1」でポルトガルの勝利に終わった。W杯初出場国としては、大健闘である。エウゼビオは1得点を追加し、合計9点で得点王をほぼ手中にした。3位で大会を終えたポルトガル選手達の満足感とはうらはらに、シェーンの心の中は、試合観戦どころではなかった。同行した助手のデトマール・クラマーや関係者と、決勝の作戦をくりかえし話し合っていた。
 それまで、ドイツはイングランドに一度も勝ったことがない。1908年以来、11戦して0勝9敗2引き分けである。W杯の決勝で、この苦手イングランドを相手に、どうすれば勝機をつかめるだろう。シェーンは、熟慮の末、ポイントを一点に絞った。相手の中心選手を徹底的にマークすること。そして、そのターゲットとされた選手とは・・・。

ボビー・チャールトン夫妻と筆者、1995年

 ロバート(愛称ボビー)・チャールトン-名門マンチェスター・ユナイテッド(マンチェスターU)所属のスター選手。もともと左ウィングだった彼は、選手として成熟するに従い、中盤でのゲームメークをうけもつようになっていた。イングランドのコントロールタワーにして、危険なゴールゲッターだ。この大会でも、それまでにイングランドの挙げた7得点のうち、ボビーが3点を決めている。彼の兄ジャック(愛称ジャッキー)も、代表選手である。
 ボビーとジャッキーの兄弟は、イングランド北東部ノーサンバーランド州の炭鉱労働者の家に生まれた。父親のボブは、もの静かで、感情を露にしない性格だが、強い意志の持ち主であったという。サッカーには興味を示さず、ボクシングと鳩の飼育が趣味であった。息子ボビーが一世一代の名プレーを見せ2得点を挙げた、このW杯の準決勝ポルトガル戦でさえ、父親は観戦に訪れていない。
 逆に、母親のスィスィ(本名エリザベスの愛称)は、外向的で明けっ広げな性格で、しかもサッカーに理解がある。それもそのはず、スィスィの生まれ育ったミルバーン家は、イングランド中に知れ渡ったサッカー一家なのである。スィスィの男兄弟4人がすべてサッカー選手というだけでなく、従兄弟のジャッキー・ミルバーンは、イングランド代表に13回選ばれ、10ゴールをあげたほどの名選手だ。彼女も「男に生まれていたら、絶対に選手になっていた」というほどのサッカー好きである。
 親戚にイングランド代表選手のいる家庭など、そうそうあるものではない。チャールトン兄弟が、サッカーに親しんだのも当然のなりゆきであろう。母親似の性格である兄ジャッキーはリーズ・ユナイテッドと、父親に似て物静かな弟ボビーは、マンチェスターUと、それぞれ契約を結びプロになった。

 ところが、若くしてマンチェスターUのトップチームに抜擢されたボビーに、大きな試練がまちかまえていた。
 名監督マット・バスビーのもと、欧州制覇を目指したチームは、1958年、欧州チャンピオンズ・カップ(現在のチャンピオンズ・リーグ)で、ベスト8まで勝ち進む。準々決勝の相手は、ユーゴの名門レッドスター・ベオグラード。ホームで「2対1」の勝利をおさめたあと、敵地のアウェイ戦を「3対3」で引き分け、みごとに準決勝進出を決めた。その帰途である。チームの乗った飛行機が、雪のミュンヘン、リーム空港で離陸に失敗して大破。乗客43名のうち、犠牲者23名。選手も8名が死亡したなか、ボビーは奇跡的に助かった。重症を負った監督のバスビーも一命をとりとめ、長い療養生活の末、復帰する。ファンは涙した。
 もう一度チャレンジするぞ! ―バスビーは、ボビーを中心にチームを再建する。そして、悲劇から10年後の1968年、ついに欧州チャンピオンズ・カップを勝ち取るのである。マンチェスターUが、いまだに根強い人気を誇るのは、このクラブのもつ感動的な歴史と無関係ではない。ボビー・チャールトンは、そのマンチェスターUと、そしてイングランドを象徴する名手なのであった。

監督シェーンが下した決断

 シェーンのたてた作戦は、このボビー・チャールトンに、売り出し中の若手フランツ・ベッケンバウアーを当てる、というものであった。ベッケンバウアーがその才能を十分に発揮すれば、チャールトンのゲームメークを阻止できるだけでなく、逆に彼を守勢に追い込むことも可能になる・・・これがシェーンの考えであった。助手のクラマーは反対した。

 ドイツ人のもつ一般的な性格として、合理的であると同時に徹底的であるという点が挙げられる。日常会話で、よく
"logisch(論理的な、筋の通った)"
  ということばが使われることからも分かるように、ものごとを、筋道たて、つきつめて考え、そのうえで、ピシッとしたルールを作っていく。ドイツの人達が、哲学や法律といった学問と熱心に取り組むのも、その性格と無縁ではないであろう。
  サッカーの指導についても、医学、運動生理学、心理学にはじまり、ボール扱いの技術から戦術にいたるまで、幅広い分野の成果を総合してドイツ式コーチングを編み出した。その集大成ともいえる制度が、第二次世界大戦後ゼップ・ヘルベルガーによって創設されたケルン・スポーツ大学のサッカー指導者養成コースだ。戦前にオットー・ネルツが創設したベルリンでの指導者養成コースの西ドイツ版であり、「ヘルベルガー学校」といってもよい。ここでライセンスを取得しなければ、ドイツでは監督やコーチにはなれない。
  同じ養成コースを経てくるせいか、ドイツ人指導者のコメントは、基本的事項に関しては驚くほどよく似ている。「金太郎飴のように」あるいは「判で押したように」という表現がピッタリくるほどである。
  ところが、実際の現場においては、ひとりひとりの監督やコーチの采配や作戦には、往々にして著しい違いが現れることがある。これは、ひとえに、それぞれの指導者がもつ個性や人生経験、サッカー観、それに、個々人のポリシーや好みによるものであろう。ドイツ人は個々の自我が強いため(これは欧米人一般にもあてはまるが)、中心となる基軸は同じでも、肉付けの段階で肌合いの違いが生まれてくるのだと思う。大胆に言ってしまえば、徹底的に基礎を仕込むだけで、あとは自然と個性が生きてくる・・・ということになろうか。
  1966年W杯決勝をひかえて、同じ「ヘルベルガー学校」出身の西ドイツ監督シェーンと助手クラマーのコンセプトは真っ向から対立した。クラマーは彼なりに独自の理論を展開したのである。最終的には、監督としてシェーンが決定を下した。この作戦について選手からの反対はなく、ベッケンバウアーも承知した。ただ、このあたりから、シェーンのクラマーに対する気持ちがギクシャクしてきたのではないかと推察できる。

決勝戦当日

ウェンブレイ・スタジアム外観

 7月30日。第8回ワールドカップ(W杯)は、いよいよ決勝の日を迎えた。ロンドン、エンパイア・スタジアム、ウェンブレイ。9万6924人の大観衆。雨と太陽が交互に現れる英国らしい天候であった。
 ドイツ・チームが、バスで宿舎から競技場に向かう町の通りは、まるでゴーストタウンのように人気(ひとけ)がなかったという。テレビの時代が訪れ、何百万人という英国人やドイツ人が中継を見逃すまいと、それぞれの家庭、あるいは受像機のあるパブや喫茶店で、その時を待っていたはずだった。英国BBC放送はケネス・ウォルストンホルム、ドイツ側はルディ・ミヒェルと、どちらの国もサッカー放送では定評のあるコメンテーターが実況する。

 この大会では、開幕前に大きな事件があった。優勝チームに授与される黄金の「ジュール・リメ杯」が、ウェストミンスターの展示場から、忽然と姿を消したのである。ショックが世界中をかけめぐった。警察は英国全土に捜査の網を張り巡らし、港や飛行場も一時閉鎖された。マスコミは毎日のように大きく取り上げるが、犯人も動機も分からない。
 1週間後、ロンドンに住むデイヴ・コーベットという男性が、ピクルスという名の犬を連れて、南ロンドン・ノーウッドの辺りを散歩していた時のことである。ピクルスが、ある家の庭に走っていき、生け垣の根元の地面を掘り始めた。新聞紙にくるまって出てきたもの・・・。コーベットは仰天する。盗まれたトロフィーだった。
 メディアは、それまで以上の大見出しを掲げた。中でも、トロフィーの包まれていた「ニュース・オブ・ザ・ワールド」紙など、ピクルスの漫画を掲げ、「特ダネをかぎつける新聞を分かっている犬!」というキャプションを付けた。英国流ユーモアである。
 それにしても、一連の出来事をどう表現したらよいのだろう。犯罪? アクシデント? ハプニング? ・・・その後、容疑者がつかまり、トロフィーを返還する代わりに相応の金額を要求するつもりであったことが分かった。いずれにせよ、FIFA(国際サッカー連盟)とFA(イングランドサッカー協会)、それにスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)はひと安心である。
 無事発見されたジュール・リメ杯は、初めて「サッカーの母国イングランド」のものになるのか、あるいは1954年スイス大会での「ベルンの奇跡」以来12年ぶりに、再び西ドイツが手にするのであろうか。

 ドイツ・チームは、いつものように試合開始の1時間以上前に、スタジアムに到着した。最後の準備やマッサージ、チームへの指示には、十分な時間だと、シェーンはその経験から知っている。これ以上では神経質になるだけだ。決勝前日に20分間だけ許されたウェンブレイでの練習で、芝生の長さをはかり、それに合うポイントも、すでに選手達のスパイクに取りつけられている。
 超満員のスタンドからは、大観衆による「オー・ホエン・ザ・レッズ、オー・ホエン・ザ・レッズ、ゴー・マーチング・イン」という「聖者の行進」の替え歌が聞こえ、さらにムチでピシピシうちつけるような「イング・ランド! イング・ランド!」の声援がひびいてきた。レッズとは、決勝戦でイングランドが着用する赤いユニフォームをふまえてのことである。一方西ドイツは、着慣れた白のユニフォームだ。

ロイヤルボックスにて

 審判に率いられ、選手の入場。エリザベス女王がロイヤル・ボックスにお着きになる。両国国歌の吹奏。この大会では、国歌が吹奏されるのは、開幕試合と決勝戦の2試合だけという決まりになっていた。英国と国交のない北朝鮮が出場したことで、主催者のFIFA が、大会の慣例儀式を巧みに変更したのである。
 イングランドの主将ボビー・ムーアと、西ドイツ主将ウーヴェ・ゼーラーがにこやかにペナントを交換する。主審は、スイス人のゴットフリート・ディーンスト。彼は、前回の第7回W杯チリ大会決勝の線審(現在の副審)を務め、チャンピオンズ・カップでも笛を吹いた経験をもつ。当時の欧州を代表するレフェリーのひとりであった。線審には、チェコのカロル・ガルバとソ連のトフィク・バクラモフが選ばれていた。

西ドイツのメンバー:

ハンス・チルコフスキ(ゴールキーパー)
ヴィリー・シュルツ
カール・ハインツ・シュネリンガー
ヴォルフガング・ヴェーバー
ホルスト・ディーター・ヘッティゲス
フランツ・ベッケンバウアー
ヴォルフガング・オヴェラート
ヘルムート・ハラー
スィギィ・ヘルト
ウーヴェ・ゼーラー(主将)
ローター・エメリッヒ

イングランドのメンバー:

ゴードン・バンクス(ゴールキーパー)
ジャッキー・チャールトン
ジョージ・コーエン
レイ・ウィルソン
ボビー・ムーア(主将)
ノビー・スタイルズ
ボビー・チャールトン
アラン・ボール
マーチン・ピータース
ジェフ・ハースト
ロジャー・ハント

 イングランドのゴールキーパー、ゴードン・バンクスの回想によれば、監督のアルフ・ラムゼーは、ある練習中、中盤を受けもつアラン・ボールとノビー・スタイルズに、
「とにかく走り回ってボールを奪え!」と指示したという。
 スタイルズが質問する。
「ボールを奪ったらどうすればいいですか?」
 すると、ラムゼーは聞き返す。
「きみたちは犬を飼っているかね?」。ふたりはうなずく。
「公園に犬を連れて行ったことは? -ゴムのボールを投げて、犬に言うだろう。さあ、あれを追いかけ、拾ったら私の足元にもっておいで、と」
「はい!」
 アランとノビーは同時に答え、ラムゼーは続けた。
「同じことを、君たちはボビー・チャールトンのためにすればいいのだ」
 ボールを奪って、チャールトンに渡す。イングランド勝利の方程式。それを阻止する役目がベッケンバウアーということになる。ラムゼーとシェーン、両監督の思惑が、まさにこのチャールトンーベッケンバウアー対決に凝縮されていた。

両者譲らず、同点につぐ同点

 午後3時を回って、キック・オフ。ドイツ選手の動きはいい。各自がそれぞれのマーク相手をしっかりとつかまえている。開始直後に、チームが指示どおり動いているのを見るのは、監督にとってホッとひと息つく瞬間であるという。ひとつ心配なのは、準決勝のソ連戦で痛めたゴールキーパー、チルコフスキの左肩だ。試合前、マッサージ師のエーリヒ・ドイザーと医師のショベルト教授が「すぐ直してやるさ」と、請け負ってはくれたものの、万が一痛み止めの注射が必要なら、シェーンはチルコフスキの起用をあきらめるつもりでいた。シェーン自身、若いころヒザに痛み止めの注射をうって出場し、試合中に効き目がきれてひどい目にあった経験があるからだ。代表監督としては、選手とその所属クラブのためもあって、「無理をさせる」ことは断じてできない。痛み止めの注射は、治療ではなく、単なる麻酔だというのがシェーンの考え方であった。ともあれ、チルコフスキは、どうやらもちこたえている。

 前半12分、試合が動いた。ヘルトがドリブルで突進してイングランド陣内にセンタリング。ウィルソンのヘディングによるクリアが弱く、ボールはハラーの足元へ。ハラーは、敵バックスのウィルソンとムーアの間を抜くシュートを放った。ポジショニングの良いことでは定評のある名キーパー、バンクスが体を投げ出すも、ボールはその手の先をかいくぐるようにゴールにとびこむ。「1対0」-ドイツのリード。大歓声。
 カメラはすかさずロイヤル・ボックスをとらえる。「何よ、今の・・・?!」とでも言いたげな、憮然とした表情のエリザベス女王。

 6分後、女王陛下に満面の笑みがこぼれた。ドイツ側の陣内で、オヴェラートのファウル。ボビー・ムーアがボールをセットし、顔をあげて味方の位置を確認すると、素早くドイツゴール前にボールを送る。ドイツが守備体型を整える前に、抜群のタイミングでハーストが飛び出しヘディング。「1対1」。同点。
 イングランドのキーパー、ゴードン・バンクスのコメント:
「あれは、まったくアルゼンチン戦での、ジェフ(ハースト)のゴールのカーボンコピーだった」
「1対0」で勝った準々決勝のアルゼンチン戦で挙げたジェフ・ハーストのゴールの複写だというのである。その時の得点は、マーチン・ピータースのクロスを、まったく同じようにヘディングで合わせたものであった。ハースト、ピータース、ムーアは、いずれもロンドンのウェスト・ハム・ユナイテッドの所属である。いつも共にプレーしているだけあって、互いのスタイルを熟知している。W杯の準々決勝、そして決勝という大事な局面で、ふだんのコンビが生きたことになる。前半は、「1対1」のまま終わった。

ウェンブレイ・スタジアムのロッカールーム

 ハーフタイムのドイツ控え室では、選手ひとりひとりが集中し、冷静な空気が支配していた。試合は五分五分で、我々にもチャンスはある、と誰もが感じていた。ベッケンバウアーは、彼自身のゲームを展開するまでにはいたっていないものの、チャールトンをしっかりとおさえている。心配されたチルコフスキもまずまずだ。1次リーグ、スペイン戦のラッキーボーイ、ローター・エメリッヒだけが、全く目立たなかった。とはいえ、当時のルールで、交代は許されていない。

 後半開始。一進一退の攻防がつづく。中盤でボールを受けたドイツのゼーラーからハラーへ。ハラーからヘルトに渡りゴール前にセンタリング。これをキーパーのバンクスがキャッチ。今度はイングランドのチャールトンのクロス。チルコフスキのパンチング。ボールは、両陣営を行きつ戻りつ、激しく、速く、互角の戦いであった。
 後半32分、イングランドの右コーナーキック。小柄なアラン・ボールが、彼独特の身体を折りたたむようにしながらのキック。それを受けたハーストのシュート。ヘッティゲスのクリアが短い。ボールが足にピシッと当たらず、ふわりと上がってしまった。落ち際に現れたのがW杯直前に代表デビューを果たした新星マーチン・ピータースであった。歴代イングランド代表のハンサム・ボーイを選んだら、きっと上位にランクされるであろう彼は、ノーマークでゴールを決めた。
 監督のアルフ・ラムゼーは万歳し、観客は歓声と歌で勝利をたたえはじめる。「ルール・ブリタニア! ブリタニア、ルール・ザ・ウェイヴズ・・・
!」

 ドイツは総攻撃に出た。決してあきらめずに、粘り強く、最後のチャンスを求めて奮闘する。残り時間はわずか。ラムゼーとそのスタッフ、それに控えの選手達は、すでにベンチから立ち上がろうとしていた。BBCテレビでは、ウォルストンホルムが、落ち着き払った声で実況する。
「13年前、ハンガリーチームが来て、イングランドがもはやフットボールの主ではないことを見せつけました。13年たって・・・イングランドが世界チャンピオンになろうとしています」

 その時である。イングランド陣内で、ドイツにフリーキックが与えられた。スタイルズ、ピータース、ボビー・チャールトン、ハーストが守備にもどる。ゴールとの距離と角度をはかり、互いにユニフォームを引っ張りあいながら、頑強なカベを作った。ドイツは、エメリッヒがボールをセット。ゲーム中、まったく表に現れなかった彼が、「最後の幕引き」・・・。シェーンには、なにか象徴的に思われた。エメリッヒのキック。カベを越え、コーエンに当たったボールを、ヘルトが拾い再びシュート。ボールは、前線につめていたシュネリンガーの背中で跳ね返り、ゴール前を転々ところがっていく。そこにスライディングしながら飛びこんだのがヴォルフガング・ヴェーバーだった。レイ・ウィルソンがブロックにいく。バンクスは、その上に体を投げ出す。さすがに読みの深い名キーパー、ボールの軌跡を瞬時に予測している。ところが、ヴェーバーの右足で弾かれたボールは、ウィルソンとバンクスのさらに上を通過し、ゴールにとびこんだ! 「2対2」。最後まであきらめないドイツの魂。試合時間は90分を指していた。シェーンとラムゼーの両監督は、互いの顔を見合わせ、両手を広げ、肩をすくめた。イングランドが再びキック・オフしたとたんに、主審の笛が鳴った。延長戦である。

第3のゴール・・・

 W杯決勝で延長に入るのはこのときが初めてだった。両国のサポーター(圧倒的にイングランドが多いのは当然だが)から、それぞれ「イング・ランド! イング・ランド!」―「ウーヴェ! ウーヴェ!」の声援がひびく。ドイツ応援団は、彼らのキャプテンであるゼーラーの名前を連呼するのだ。
 通算100分(延長前半10分)、問題のシーンがおとずれた。イングランドは、ドイツ陣の右サイドに展開。アラン・ボールが駆け上がり、中央で待ち構えるハーストにパス。腰の高さにはずんだボールを、ハーストは右足で器用にトラップすると、そのまま体を半回転させ打ち放った。チルコフスキがジャンプするも届かない。ボールは、ゴールのバーを直撃し、そのまま真下に落下した。フィールドに跳ね返ったボールを、ヴェーバーがヘディングで、クロスバーの上にクリア。イングランド選手は万歳し、ドイツはコーナーキックを主張する。ディーンスト主審のジャッジは? ・・・彼は、線審を務めるバクラモフに歩み寄って確認する。スイス人のディーンストとソ連人のバクラモフは、何語で話し合ったのだろう。・・・バクラモフは頷き、主審は右手を頭上にかかげ、手首を軽く上下させながら、ハーフウェイラインの方向を指した。ゴールだ!

 シェーンの自伝には、この時の情景が描写されている。
「後に、何度もこの瞬間をとらえたフィルムを見た。・・・ウェンブレイの芝が、雨のため濡れていたにもかかわらず、ボールが跳ね返る際に、ゴールライン上のチョークの粉をはじきとばしていた。つまり、ボールは少なくともその一部がライン上にあったことになる。・・・疑いなくノーゴールだ!」

 ヴェーバー、オヴェラート、ヘルトの3選手が、バクラモフに詰め寄って抗議する。だが、判定がくつがえるはずもない。主将のゼーラーが、彼らをなだめる。試合再開。スコアは、イングランドがリードの「3対2」。
 延長後半になっても、ドイツはなおあきらめずにチャンスをねらうが、点にならない。逆に終了直前、ボビー・ムーアから前方にロングパスが通る。胸でトラップしたハーストは、そのままドイツゴールに突進し、オヴェラートのマークをふりきってシュート。ゴール!
 ハーストにボールが渡るプロセスにおいて、すでに勝利を確信した3人のイングランド・サポーターが、歓声をあげながらフィールドに入ってきていた。その前のディーンスト主審の仕草が紛らわしかったため、試合が終わったと勘違いしたのであろう。厳密に言えば、なだれこんだ観客をそのままにして試合を続行させるのは、大きなミスジャッジである。それでも、ハーストのゴールは認められ、W杯決勝戦で初めてのハット・トリックが記録された。ドイツには、もう挽回する力も時間も残っていなかった。
「4対2」。イングランド、W杯初優勝!

 主将のボビー・ムーアを先頭に、ロイヤル・ボックスへの階段をのぼる選手達。39の階段をのぼりきったムーアは、自らのユニフォームで手をぬぐい、さらに式典用に飾り付けてある布で手をこすった。女王陛下と握手するためである。にこやかにほほ笑むエリザベス女王から、黄金のジュール・リメ杯がムーア主将の手に渡された。大歓声。「サッカーの母国」は、ついに世界の頂点に立ったのである。
 一方、健闘むなしく敗れたものの、あきらめずによく戦ったドイツ・チームにも、万雷の拍手が贈られた。西ドイツ監督ヘルムート・シェーンのW杯初陣は、準優勝という立派な結果で終わった。

なおも議論はつづく・・・

『私が見たまま』
Wie ich sie sah,© 1966 by Copress-Verlag München

 終了のホイッスルが鳴った時、ドイツのハラーは真っ先に試合球に向かって突進していた。記念に持ち帰ろうという茶目っ気のあるハラーらしい行動だ。主審を務めたディーンストが、ハラーに近づき、ボールを返すよう要求する。本来は主催者に返す決まりになっているのだ。スイス人の主審とドイツ人のハラーなら、ドイツ語で会話したことだろう。ハラーはディーンストに向かってこう言った。
「あんたが、もっとましなジャッジをしてくれていたら、返してやってもよかったんだが・・・」
 この試合後のハラーの写真を見ると、常にボールをもって写っている。彼は、さらにそのボールを小わきにかかえたまま、ロイヤル・ボックスに向かい、エリザベス女王と握手したらしい。まるで草サッカーのわんぱく坊主かガキ大将である。プクプクした顔立ちのハラーと重ねあわせると、なんとなく微笑ましい光景だ。30年後、このボールは彼の息子ユルゲンから、イングランドに返却されたと聞いた。「父ちゃん、もういいだろう」というところか。
 1995年夏、「第3のゴール」についての意見を求めると、ハラーは、「あれは絶対にノーゴール!」と言い切った。ハラーだけでなく、いまなお、このゴールを認めないドイツ人は多い。
 フリッツ・ヴァルター(西ドイツが初優勝した1954年W杯時の主将)は、その観戦記『私が見たまま』(Wie ich sie sah,© 1966 by Copress-Verlag München)で、こう語っている。
「私は、ちょうどドイツ陣ペナルティエリアあたりのプレス席にいた。すべてが瞬時の出来事ではあったが、ボールがラインを越えていないのは、はっきりと分かった。ラインに触れていたという点について異論はない。だが、それだけで十分とはいえない。ボールは、完全にゴールラインを越えていなくてはならないのである!」
 ヴァルターは、サッカー界の大物たちの意見も集めている。
 ゴールライン延長上の観客席にいたスウェーデンの名選手、クルト・ハムリン:
「誓ってもいい。ノーゴールだ。絶対に確かだ!」
 元ハンガリー代表の主将フェレンツェ・プスカス:
「ボールは、ラインを越えていなかった。それに4点目は何だ? 観客がなだれこんでいたではないか」
 1934年、38年にイタリアがW杯連覇を果たした時の監督ヴィットリオ・ポッツォ:
「ノーゴール! ボールは、完全にはラインを越えていなかった」

 決勝戦終了後の夜、イングランド、西ドイツ、ポルトガル、ソ連の上位4チームが招かれたレセプションでは、得点王となったポルトガルのエウゼビオが、談笑の最中、メニューに「ノーゴール」と記し、イングランド選手のひとりが、「ノー」の部分を線で消したというエピソードも残っている。
 また、後にドイツで出版された『1978年W杯アルゼンチン大会』の写真集には、1966年当時、このゴールのすぐ裏で決定的な瞬間を見届けたカメラマン9人のコメントが紹介されている。明らかに英国系と思われる2名をのぞき、7人が「ノーゴール!」と証言している。
 さらに、この試合の審判3名がすべてユダヤ系であったこと、そして、それが FIFA会長スタンレイ・ラウスの指示によるものであったと指摘する英国の著名サッカー記者もいる。第2次世界大戦終結から20年ほどが過ぎた1966年とはいえ、ユダヤ系の人々にとって、「ドイツ」という響きには、なお複雑で根深い思いがあったことだろう。この点についての真偽は定かではないが、あれやこれや、W杯の歴史をふりかえる時、必ずといっていいほど話題になるのが、この「第3のゴール」なのである。
 とはいえ、試合終了寸前のラストプレーによる同点劇。さらに、それにつづく緊迫した延長戦。しかも舞台はサッカーのメッカ、ウェンブレイ。第8回W杯は、名勝負で幕を閉じたといえよう。

ある日のウェンブレイ

 1995年9月、私はロンドンのウェンブレイ・スタジアムを訪ねてみた。地下鉄メトロポリタン線かジュビリー線の「ウェンブレイ・パーク駅」下車。競技場は、もう目の前である。
 スタジアム・ツアーに申し込むと、居合わせた見学者およそ20名ほどをひと組として、係員が案内してくれた。フィールドや観客席はもちろん、テレビやラジオの中継室、ロッカールーム、さらにはロイヤル・ボックスまで、すべて見せてもらえた。選手用の浴場。フィールドに通じるトンネル。いずれもテレビやビデオでしか見たことのない風景に、そのまま接することができた。
「あそこに選手のバスが止まっていたっけな」「この通路を歩いたのか」
 ロッカーには、現在のイングランド代表ユニフォームが、背番号順に壁にかけられており、臨場感たっぷりである。ボビー・チャールトンの背番号9の下のベンチに腰かけ、しばし当時に思いを馳せてみた。
 ロイヤル・ボックスには、小さなカップまで置かれていた。
「さあ、皆さんもW杯で優勝した気分になって、カップを掲げ、記念撮影をしてください」
 係員のひとことで、各人がそれぞれカップを手にして、ボビー・ムーア主将になったつもりである。
 1時間半ほどの短いツアーであったが、サッカーファンとして、おおいに楽しめ、また満足のいく企画であった。
 そんな中、いちばん印象に残ったのが、小さな映写室だった。日本の小・中学校の教室を少し小さくしたほどの空間に、椅子が並べられていた。見学者は三々五々好きな席に座り、係員の解説付きで「ウェンブレイの歴史」という短編ビデオを見る。私は窓際に座った。
 ビデオが始まった。1923年、12万6000人の大観衆を集めたこけら落としのFAカップ決勝戦・・・1953年ハンガリーに敗れたゲーム、そして1966年のW杯決勝戦・・・。初期の貴重な白黒フィルムから最近のカラー映像にいたるまで、思い出の名シーンが次々に登場する。
 映写が終わると、係員が言った。
「皆さんには、きっと第3のゴールが印象深いと思われます。さあ、では、この部屋の窓辺を見てください。手すりがあるでしょう。それが、あの時のクロスバーなのです!」
 私は手をのばし、世界サッカー史の一端に触れた。
 現在、古くなったウェンブレイは取り壊され、新スタジアムが建造中である。あのバーは、その後どうなったであろうか。

映写室の窓辺に取りつけられたクロスバー。
「第3のゴール」となったボールは、このバーを直撃した

(敬称略、つづく)

BACK NUMBER
PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』にて連載開始

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