風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 05 ドイツとドイツサッカー
明石 真和
第10回 黄金時代とヘルムート・シェーン(その4)

 2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

イングランド-サッカーの母国の誇り

 新監督ヘルムート・シェーンのもと、西ドイツは、1966年にイングランドで開催される第8回ワールドカップ大会(W杯)に向けて精力的に国際試合を消化していった。1964年11月の監督就任時から、66年6月のW杯本大会開幕前まで、スウェーデン、キプロスとの予選4試合(ホーム&アウェイ)を含め、シェーンのチームは計17試合を戦い、11勝2敗4分け。得点35、失点8の堂々たる成績だ。2つの敗戦はいずれもアルフ・ラムゼー監督の率いるイングランドとの親善試合であった。

 イングランドは、サッカーの母国である。日本語のイギリスという言葉自体が、もともとイングリッシュ(English)に由来することからもわかるように、日本では「英国、イギリス、イングランド」はすべて同等に理解されがちだ。ところが、英国内の事情はおおいに異なっている。民族的な相違もあり、地域によってイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに大別されるのである。サッカーの世界では、これらは4つの「国」として、それぞれ独立している。イングランドは英国(イギリス)の一部ではあっても、英国そのものではない。ことに、歴史を振り返ってみると、征服者と被征服者という関係もあって、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドは、イングランドに対して強いライバル意識をもっている。
 足でボールを扱う遊びは、古くから世界中に存在していたが、スポーツとしてのサッカーのルールが定まったのは、1863年ロンドン(つまりイングランド)においてであり、同年10月26日、サッカー協会(Football Association)が創立。世界で初めてのサッカー協会であるから、国の名は冠されていない。今でもThe FA (以下 FA)といえば、イングランド・サッカー協会を指す。
 このスポーツは、すぐ英国全土に広まり、1873年には宿敵スコットランドにもサッカー協会が創立される。そして、1876年ウェールズ・サッカー協会、1880年アイルランド・サッカー協会と創立が続いた。これらの英国系4協会は、1883年から「ホームインターナショナルズ」と呼ばれる世界最古のサッカー選手権を開催する。毎年シーズンの締めくくりとして開催されてきたこの大会は、100年間続いたのだが、1983/84シーズンをもって終了した。イングランドとスコットランドが過密日程を理由に、参加に消極的になったためだといわれている。
 それはともかくとして、ヴィクトリア女王の治世、世界中に植民地をもっていた大英帝国のこと。英国人の行き来するところ、必ずその習慣や生活スタイルがついて回る。かくしてサッカーは、ヨーロッパ各国、ブラジルやウルグアイをはじめとする南米、そして日本や韓国といったアジア諸国に伝わっていったのである。当初は、イングランドを手本にしていた諸外国は、次第にそれぞれの国民性に合ったプレースタイルを発見し、サッカーは独自の発展をみせていく。

 そんな中、ヨーロッパ大陸では、国の枠を越えてサッカーを統括する組織の必要性が叫ばれはじめ、ベルギー、スイス、フランス、デンマーク、オランダなどが中心となって、1904年にFIFA(国際サッカー連盟)を創立した。「母国」を自認する英国は、当初は渋っていたが、翌1905年に入会した。1910年にはスコットランド、ウェールズ、北アイルランドといった英国内の ほかの 「国」 も、本来の「1国1協会」という規約に反して入会を認められた。FIFA にしてみれば、「本家」を仲間にひきとどめておくために、多少の我がままを許したというところであろうか。
 ただし、その後も英国とその他の国々での意見のくいちがいが多々あり、1928年を最後に、英国系4協会はそろってFIFA を脱退した。この4協会は、ふだんはライバルでも、こういうときには良いチームワークをみせる。第三者にはわからない愛憎があるのだろう。ともあれ、彼らがFIFAに復帰するのは第2次世界大戦後ということになる。
 当然のことながら、1930年にウルグアイで開催された第1回から、1934年第2回イタリア大会、1938年第3回フランス大会までの3度のW杯には参加していない。ただし、FIFA は、その間も、加盟国が英国と対外試合をすることを妨げてはいなかった。「母国」には、それだけの実力と権威があり、英国も当然、そう考えていたはずだ。この点は、日本が柔道にたいして抱いている、ある種の「誇り」や「美学」に通じるものがある。

ウェンブレイ・スタジアム外観

 その誇り高き英国で、長い間、守られていた無敗神話があった。
「イングランドは、ホームで外国のチーム(英国系3協会は除く)に敗れたことはない!」
 それまで、ロンドンでイングランドと対戦した国は、いずれも大差で敗れていた。1923年のベルギー(1対6)しかり、1931年のスペイン(1対7)しかり。僅差の勝負をしたのは、1932年のオーストリアだった。スコアは「3対4」。華麗なテクニックを身上とする「ウィーン派」の選手達は、ロンドン特有の荒れたグラウンド状態にてこずり、ようやくピッチに慣れた後半に追い上げをみせたのだが、遅かった。ちなみに、ウィーンでのリベンジ戦では、オーストリアが勝っている。やがて、オーストリアはヒトラーのドイツに併合され、激動の時代をむかえる。イングランドの神話の崩壊は、ひとまず第2次世界大戦後にもちこされた。
 1953年11月25日。ついに、このホーム無敗神話の終わる日がきた。相手は「マジック・マジャール(魔法のマジャール人たち)」と呼ばれたハンガリーである。スコアは「6対3」。ヨーロッパ大陸のチームは、はじめて「サッカーの母国」を、そのホームで完膚なきまでにたたきのめしたのである。イングランドに、いや英国全土にショックが広がった。
 1964年東京オリンピックの柔道(無差別級)で、日本の神永昭夫が、オランダのアントン・ヘーシンクに敗れた時と同じような(あるいはそれ以上の)衝撃だったのではないだろうか。
「日本の柔道(神永が、ではない!)が、外国に負けた。しかも武道館で」
「イングランドが、サッカーで外国に負けた。しかもウェンブレイ・スタジアムで・・・」

アルフ・ラムゼー
サッカー母国名誉回復のために選ばれた男

ウェンブレイ・スタジアム

 このハンガリーとのゲームで、イングランドの1点をペナルティ・キックで決めたバックスの選手がいた。アルフ・ラムゼー・・・。1950年代にロンドンの名門チーム、トッテナム・ホットスパーの中心として活躍した。イングランド代表としても通算32試合に出場し3ゴールをあげている。奇しくも、このハンガリーとの試合が、彼の最後の代表試合であった。
 現役引退後、指導者に転じたラムゼーは、3部リーグにいた地方のクラブであるイプスウィッチ・タウンの監督となり、チームを2部、1部と引き上げ、さらには、その昇格した年にいきなり1部リーグ(現在のプレミア・リーグ)優勝に導いてしまった。1962年のことである。イプスウィッチ・タウンは、1887年創立と歴史は古いものの、いつも2~3部リーグあたりをウロウロしているチームだった。そんな弱小クラブが、突然トップの栄光をつかんだのである。
 FA は、ラムゼーの指導者としての資質とその功績を認め、彼をイングランドの代表監督に指名した。1966年地元開催のW杯は、3年後に迫っていた。

 信じがたいことであるが、サッカーの母国では、長い間、代表監督が存在していなかった。創立以来、 FA の「代表選手選考委員会(The team selection committee)」が、すべてを取り仕切っていたのだ。代表監督を個人に定めるようになったのは、ようやく第2次世界大戦後の1946年のことであった。ただし、それでも選手の選考は委員会が行っていたといわれる。初代監督は、ウォルター・ウィンターボトム。後にサッカー界での功労により、“サー(Sir)” の称号を受けたほどの人物である。
 ウィンターボトム監督のもと、初めて臨んだ1950年の第4回W杯ブラジル大会。誰もが活躍を期待した。ところが、イングランドはとんでもない失態を演じてしまった。「0対1」でアメリカに敗れたのだ。W杯史上最大の番狂わせのひとつといわれている。それでも、これはまだアメリカのフロック勝ちとしてすまされた。「オレ達イングランドだって、たまには負けるさ」というわけである。
 そして、1953年、運命のハンガリー戦をむかえる。ホームのロンドンで「3対6」。リベンジを誓って臨んだブダペストのアウェイ戦では、なんと「1対7」である。手も足も出なかった。その後、1954年第5回W杯スイス大会では、準々決勝でウルグアイに敗退。この時の優勝は西ドイツ。後世に「ベルンの奇跡」と語り継がれる勝利である。2位ハンガリー、3位オーストリア。すべてヨーロッパ中央部の国が上位を独占した。
 1958年第6回W杯スウェーデン大会は、1次リーグでブラジル、ソ連と同じグループになり、ここで敗退。1962年第7回W杯チリ大会も、準々決勝でふたたびブラジルに敗れる。4回出場しながら、1度もこれといった成績をおさめていない。
 「母国」としては、このままでは終わるわけにはいかないし、終わるはずもない。次は地元開催のW杯だ。意地と名誉にかけても・・・。

 実際、チーム組織としてのイングランド代表は、たとえば西ドイツと比べてもはるかに遅れていた。1962年W杯では、チーム付きの医者さえもいなかったという。ドイツは、優勝した1954年のスイス大会でさえ、すでに医師フランツ・ローガン、マッサージ師エーリヒ・ドイザー、靴職人アドルフ・ダスラーと、監督のほかにもそれぞれ一流の専門スタッフをそろえていた。
 ラムゼーが名誉あるイングランド代表監督に就任した当時の実情は、この程度だったのである。名誉はあっても、結果は残していない。それでも、ラムゼーは、就任早々こうぶちあげた。「イングランドは、1966年W杯に優勝する!」ファンは仰天し、そして大いによろこんだ。

FA、1997年、ランカスターゲート

 ラムゼーは、当時ロンドンのランカスターゲートにあった FA(現在は移転している)に一室をあてがわれた。小さな執務室だったようである。最初の部屋は、「4階にあり、大きな戸棚よりちょっと広い程度」「後に1階に移ったが、大部屋に仕切りをつけ、テーブルがひとつと椅子がふたつ・・・。普通のクラブチームの監督であったら、カバン置き場にでもするような空間」-こう証言する英国人ジャーナリストもいる。いかに代表監督という仕事が、FA 内で重きをおかれていなかったかが想像できる。
 とはいえ、FA 自体が、そもそもそれほどの大邸宅に本拠を構えていたわけではない。私は1997年にランカスターゲートを訪ねてみたが、ロンドンのごくありふれた住居の一画に、さりげなく本部があった。非常にシンプルで、「世界でもっとも古いサッカー協会!」というようないかめしさは何も感じなかった。建物の外観の印象からいえば、保険会社の地方支店といった趣である。表札も地味で、3頭のライオンを描いたイングランド・サッカー協会の旗が入り口に掲げられていなかったら、見つけ出すのに苦労しただろうと思う。
 ともあれ、この小さな執務室が、イングランド代表監督としてのアルフ・ラムゼーのスタート地点になった。彼は、委員会に頼らず、独自に選手選考をおこなった。

66年W杯へ向けて-試行錯誤の人選

シェーンの自伝表紙より
Fußball,
©1978 by Verlag Ullstein GmbH.

 一方、西ドイツでも、新任の監督ヘルムート・シェーンは、初めて采配をふるうW杯に向け、ドイツ中西部ヴィースバーデンの自宅で慎重に人選を進めていた。
 机に向かい、メガネをかけ、カードを前にして、想像の中でチームに試合をさせてみる。紙切れに名前を書き込む。ここ最近の代表試合に出た選手は誰か? 個々のチームで最近とくに際立っていた選手は誰か? そうやっておよそ30名ほどをしぼりだす。今度はポジション別に並べてみる。ゴールキーパー。守備陣。中盤。攻撃陣。各ポジションには、できるかぎり2人以上の選手を配置する。複数のポジションをこなせる特別の選手には赤い線をひく。W杯では、コンバート可能な選手はとくに貴重なのである。
 その後、最新情報をチェックしなくてはならない。選手やクラブの監督と電話で話し、ケガをした選手を訪問する。レギュラーをあまりに早く固定するのは無意味だ。ケガやその他の事情で、計画が狂うかもしれないからである。何人も付け加えたり、また何人も削ったり・・・といった作業が続く。ヘルベルガー時代の名選手でも、すでに峠を越えていれば、厳しく評価せざるをえない。時にはつらい決定をくだすこともある。
 イタリア(後にはスペインも)で活躍する「外人部隊」には、さらに慎重な対処が必要だ。国内にいる選手のように、ふだんから観察できるわけではなく、心理的プレッシャーも推し量れない。また、所属する外国クラブにお伺いをたてる必要もある。選手の「貸し出し」には、すべてのクラブ会長が好意的というわけでは決してないからだ。「オレ達が投資した選手は、当然オレ達のクラブのために働いてもらわなければならない」など、彼らクラブの責任者にとっては、ドイツ代表チームなど、どうでもいいのである。
 前任者の「偉大なる」ゼップ・ヘルベルガーや助手のデトマール・クラマーという理論派も、もちろん補佐してくれるのだが、時として監督以上に目立つことがある。大柄な身体とはうらはらに繊細な神経の持ち主であるシェーンには、これが必要以上のプレッシャーになった。
 西ドイツを率いるシェーンとイングランドを指揮するラムゼー、ほぼ同じ時期に監督に就任したふたりは、その後のおよそ10年間、それぞれのサッカー大国を率いて、W杯やヨーロッパ選手権で熱い戦いを繰り広げることになる。ドイツ対イングランドが、「伝統の一戦」とよばれる所以である。

1次リーグ-快調なすべりだし

1966年W杯記録ビデオの表紙
“Goal the World Cup 1966”

 第8回W杯イングランド大会は、1966年7月11日に開幕した。世界の予選を勝ち抜いた14ヵ国に、前回優勝国ブラジルと開催国イングランドを加えた16ヵ国が出場している。オリンピックのような華やかな開会式はなく、参加チームのユニフォームを来た子供達が、それぞれの国の旗とプラカードを掲げて入場行進する。
 エリザベス女王の開会宣言。かたわらのFIFA会長スタンリー・ラウスも誇らしげだ。英国人の彼は、審判員として長くサッカーに関わり、現在広く行われている「対角線式審判法」を考案した人物である。1961年から FIFA会長を務めていた。
 大会の焦点は、「1958年、1962年の2大会を連続して制したブラジルの3連破がなるか否か」、そして、「地元イングランドは、どの程度戦えるのか」、に集まっていた。欧州と南米の交流が、だんだん盛んになり、互いのライバル意識も過熱している。
 簡単なセレモニーが終わると、そのまま試合開始。「初戦は開催国」という伝統に従い、イングランドが登場する。相手は過去2度のW杯優勝を誇る南米の雄ウルグアイだ。最初から欧州対南米の対決である。開幕試合独特の緊張もあってか、「0対0」の引き分けに終わった。
 1次リーグの西ドイツは、スイス、アルゼンチン、スペインと同じ組に配属されていた。いずれもサッカー界では名の通った国だ。もっとも、16チームしか出場できなかったこの時代のW杯は、参加国すべてが強豪国であった。32チームが出場できる現在と照らし合わせてみれば、納得がいくであろう。当時は、1次リーグからすでに、今のベスト16と同じレベルなのである。
 西ドイツは、幸先のいいスタートを切った。スイスに「5対0」。フランツ・ベッケンバウアーは、いきなり2得点をあげるという大活躍だ。中盤を受けもつのはベッケンバウアーのほか、ヘルムート・ハラー、ヴォルフガング・オヴェラート。ハラーやオヴェラートは、主将のウーヴェ・ゼーラーとともに、ヘルベルガーの時代から代表を務める選手達である。
 なかでも、ハラーは、当時としてはユニークな経歴をもっていた。60年代のドイツを代表する選手のひとりであった彼は、1939年、宗教和議で有名なアウグスブルクに生まれた。9歳の時から13年間、地元のFCアウグスブルクでプレーし、1962年からはイタリアのFCボローニャに移籍した。ドイツ人選手が外国に移籍するのはまだ珍しい時代であり、「外人部隊」のはしりといえる。後にはユベントスに移り、そこでも大活躍した。1966年の西ドイツ代表では、ハラーも含め、カール・ハインツ・シュネリンガー、アルベルト・ブリュルスと計3名の選手が、イタリアのクラブチームに所属していた。背景には、イタリアに比べてプロ化の遅れたドイツサッカーの国内事情があるのだが、これはまた別の機会に触れてみたい。

 1990年代、ハラーは、毎年夏になると、東京の会社「(株)きもと」の招きで、「少年サッカースクール」の指導のため来日していた。私も何度か話を伺ったことがある。現役時代の写真やビデオを見ると、ちょっといかめしく、今風にいえばオリヴァー・カーンを少しなごやかにしたような風貌・・・というイメージだったが、実際に会ってみると、好々爺然とした穏やかな方であった。ある事実確認のため、ドイツのサッカー雑誌の記事を見せたところ、「もう老眼でねえ。メガネがないと、よく見えないんだよ」といって笑っていた。気さくで明るい人である。1962年、66年、70年と3回のW杯に出場した名手で、イングランドW杯では、西ドイツチーム最高の6得点をあげた。初戦のスイス戦でも、ベッケンバウアーと同じ2点を決めている。

 2試合目のアルゼンチン戦は、手荒な肉弾戦となった。ラフプレーの応酬で、アルゼンチンのホルへ・アルブレヒトが退場を命じられた。サッカーでは、往々にしてひとり少ないチームが力を結集することがある。アルゼンチンもふんばり、「0対0」の引き分けに終わった。
 スイスに勝ったドイツと、スペインを下したアルゼンチンは、勝ち点3(当時は勝利2点、引き分け1点)でグループの首位に並んだ。ドイツは次のスペイン戦に引き分ければ、準々決勝進出が決定するのだが、アルゼンチンがかなり高い確立でスイスに勝利するであろうことを考えると、どうしてもスペインには勝っておきたいところだ。というのもグループ2位の通過では、準々決勝の相手が地元イングランドになるからである。

勝利を招いたスペイン戦での采配

ハラーと筆者、1995年

 シェーンは、チームの編成を変えた。ハラーをはずし、ローター・エメリッヒを投入した。ボルシア・ドルトムント所属のエメリッヒは、ルール地方の人気者である。左ウィングの彼は、同じドルトムント所属の右ウィング、ズィギィ・ヘルト(後にJリーグ、ガンバ大阪の監督も務めた)とは抜群のコンビを誇る。
 W杯に向け、ロッテルダムでオランダと親善試合を行った時に、このエメリッヒ、ヘルトのふたりを初めてウィングで先発させ、試合も「4対2」で勝った。シェーンは、そのときのフォーメーションを採用したのである。図太いエメリッヒなら、激しい当たりの予想されるスペイン相手にも、たじろぐことはないであろう。メンバーを見た事情通のファンは、「ロッテルダム!」とささやきあった。
 これはあくまで想像にすぎないのだが、シェーンは、ドイツが初優勝を飾った1954年大会における、前任者ヘルベルガーの選手起用を思い出したのではないだろうか。その大会で、ヘルベルガーは、当初出場の機会のほとんどなかったヘルムート・ラーンを大会途中から先発させた。フラストレーションのたまっていたラーンは、宿舎で同室の主将フリッツ・ヴァルターに何度もこぼしていたといわれる。そのラーンが、決勝では3得点すべてにからむ大活躍をみせ、ラッキーボーイとなった。ラーンもルール地方出身で、“図太い”神経の持ち主である。シェーンは、エメリッヒをかつてのラーンに重ね合わせていたのではないかと思う。

 そして、スペイン戦に関しては、このエメリッヒの起用が当たった。スペインに1点を先行され、前半も残り少なくなった40分。スローインのボールを受けたエメリッヒは、敵をひとりかわす。ところが、そこはもう左コーナーフラッグ付近で、しかもほとんどゴールライン上の、事実上追いつめられたも同然の位置であった。シェーンは言う。
「世界中のどんな選手でも-まあ、ヘルムート・ラーンは別として-この位置からは、中へセンタリングを上げるのが普通だろう」
 ところが、かつてのラーン同様、ものごとにこだわらない性格のエメリッヒは、ほとんど角度のないところからゴールに向けて、左足でボンッとシュートしたのである。斜めに急上昇していったボールは、ゴールの遠いほうの上隅にバチンと音をたてて決まった。1センチ右にずれていたら、ボールは外へ出ていたことであろう。イングランドの丸いゴールポストが幸いした。歓声をどう表現したらよいのだろう。シェーンは、こう続ける。
「We've never seen such a goal!(こんなゴールって、見たことない!)・・・このシーンを思い出すたびに、私にはこのゴールを決めたのが他の選手であったら・・・。という思いがよぎる。このゴール以降、私はひそかにエメリッヒに固執してしまい、決勝戦にも彼を起用してしまったのだ。決勝の彼は、最低の出来であった」
 1954年大会の英雄ラーンと、1度はラッキーボーイになりながら最後にツキのなかったエメリッヒ。12歳年の離れたこのふたりは、2003年の8月中旬、ほぼ同じ時期にこの世を去った。
 ともあれ、スペイン戦については、後半の39分、さらにウーヴェ・ゼーラーのゴールが決まって、「2対1」の勝利となった。ドイツは、トップで1次リーグを通過した。

「欧州対南米」―そんなジャッジが・・・

エウゼビオと筆者、右はジーコ、1995年

 準々決勝4試合の組み合わせは次のように決定した。西ドイツ対ウルグアイ。ソ連対ハンガリー。北朝鮮対ポルトガル。イングランド対アルゼンチン。
 優勝候補ブラジルは、初戦のブルガリア戦には勝利したものの、ペレの負傷もあって、ハンガリー、ポルトガルにそれぞれ「3対1」で敗れ、大会から去っていった。ポルトガル戦のペレの姿は、今もビデオで確認できる。右ひざに包帯をした彼は、左足一本でのプレーを余儀なくされ、見るからに痛々しい。
 ペレに代わって、大会のスターに躍り出たのはポルトガルのエウゼビオである。当時ポルトガル領であったアフリカのモザンビーク出身で、「モザンビークの黒ヒョウ」と呼ばれた偉大なゴールゲッターだ。日本のエース釜本が、現役時代に、このエウゼビオのパワフルなシュートを、どうにか真似ようと努力したエピソードもある。
 そのポルトガルと当たるのは、北朝鮮だった。まったくの伏兵であり、驚きのチームである。1次リーグは、ソ連にこそ敗れたものの、チリと引き分け、イタリアを「1対0」で蹴落として、グループ2位で通過した。対イタリア戦の勝利は、W杯史上、アジア勢初の1勝だった。
 ポルトガルに対しても、北朝鮮はひるむことがなかった。前半で一気に3点をうばう。大番狂わせの予感が広がる。そこからエウゼビオの一大ショーが始まった。ひとりで4点をあげる活躍で試合をひっくりかえし、最終スコアは「5対3」。
 ソ連とハンガリーの東欧対決は、「2対1」でソ連が制し、ポルトガルとともに、準決勝進出を決めた。
 西ドイツ対ウルグアイの「欧州対南米」は、火花散る戦いとなった。前半6分、ウルグアイの攻撃。ヘディングシュートを、ドイツのキーパー、チルコフスキがキャッチできず、ボールはゴールへ。ライン上に立っていたバックスのシュネリンガーは、頭で届かないと見るや、手でセーブしてしまった。明らかなPKである。ところがイングランドのジム・フィニー主審は見ていなかったらしく、そのままプレーを続行させた。議論の余地のないミスジャッジ。ウルグアイはいきりたつ。
 その6分後、ドイツのヘルトが得点するにおよんで、ウルグアイは堪忍袋の緒が切れてしまった。こうなると体のすべてを使ったファウルの連続だ。相手選手に一発かまされたベッケンバウアーも、接近戦になると逃げ腰である。
 後半4分、ウルグアイのオラシオ・トローチェが、ドイツ選手を打ちのめす。退場! トローチェは、外に出る風をよそおいながら、ウーヴェ・ゼーラーに近より、顔面を平手打ちし、さらにツバをはきかけた。トローチェは、ゼーラーがやりかえし、共に退場になることをねらったのである。ところが、ゼーラーは自制心を失わず、トローチェは非難の口笛をあびながらロッカールームに消えていった。さらにその6分後、ファウルしたうえに、さらに殴ったことで、シルバもあとに続いた。ふたり少ないウルグアイは、自ら敗戦への道をたどったことになる。ドイツは3点を加え、「4対0」で準決勝に進んだ。
 イングランド-アルゼンチンという、もうひとつの「欧州対南米」対決でも、アルゼンチンのキャプテン、アントニオ・ラティンが、ドイツのルドルフ・クライトライン主審に退場を宣告された。アントニオ・ラティンは執拗に抗議したが、聞き入れられず、試合は虎の子の1点を守り切ったイングランドの勝利。
 準決勝は、ソ連対西ドイツ、ポルトガル対イングランドとなった。

 1966年W杯は、審判の問題が大きくクローズアップされた大会でもある。準々決勝での退場をめぐって、南米勢からは猛烈な抗議が出た。西ドイツの試合がイングランド人の主審、イングランドの試合がドイツ人の主審と、いずれもヨーロッパの審判であったことに加え、それぞれ南米チームから退場者がでたこと。さらに、アルゼンチン戦の後で、イングランドのラムゼー監督が、アルゼンチン選手のプレーぶりを評して“ Animal”(野獣)と呼んだことから大問題になった。ラムゼーが、試合後にユニフォーム交換をしようとする選手を止めに入った写真も残っている。怒りのおさまらない南米勢はこう言い放った。「そんなジャッジがあるか。ヨーロッパのチームを勝ち残らせようとする陰謀だ。もうW杯には出場しない。南米は独自に選手権を開催する」
 FIFA は、この大会の反省から、次回1970年のメキシコ大会では、世界各国の審判の意思統一をはかり、イエローとレッドのカードを導入することになる。

決勝めざして

 準決勝、リヴァプールでの対ソ連戦。シェーンも、まさかここまで来るとは予想していなかった。ただし、もちろん望んでいなかったわけではない。
 ソ連が強敵であるのはわかっていたが、ドイツチームも、自信を深めていた。選手達も、互いに「やれるぞ! やってやろうじゃないか!」と話していた。
 英国の観客は、熱狂的にソ連に声援を送った。シェーンには、それがドイツ好調の裏付けである、と受けとめるだけの余裕があった。自伝にはこう記されている。
「明らかに、イングランドの人達は、決勝の相手としてドイツのほうが手ごわいと見ていたのであろう。今も、リヴァプールでの「ロシア! ロシア!」のシュプレヒコールが、私の耳に残っている」
 試合は厳しいものとなった。偉大なるゴールキーパー、レフ・ヤシンの守るソ連ゴールは、破るに堅い壁である。それでもドイツチームの調子はよかった。ハーフタイムが近づいても、なお「0対0」。
 前半43分。バックスのシュネリンガーが、相手選手からボールをうばい、そのまま前線のハラーにフィード。ハラー、反転してニアポストにシュート。ゴール!「1対0」。シュネリンガーとハラーの「イタリア組」による迅速なプレーだ。「カテナチオ」と呼ばれたイタリアの守備戦術は有名だが、このふたりは、そのイタリアで揉まれ、「一回のチャンスをものにする」ことに慣れているのだ。シェーンには、イタリアのクラブからふたりをドイツ代表として「借り出す」ために費やした労力がむくわれた気がした。
 後半23分、ハラーからのパスを受けたベッケンバウアーが、2、3歩ドリブルして、20メートルの距離から打ちはなった。ボールは左のポストをかすめ、ネットにつきささった。さすがのヤシンも反応できない。「2対0」!
 その後、ソ連の猛攻をあびて1点をうばわれたが、ついにタイムアップの笛がなった。シェーンは、初采配のW杯で、チームを決勝に導いたのである。
 一方、もうひとつの準決勝では、イングランドが、ボビー・チャールトンの2得点で先攻した。必死に追撃するポルトガルを、エウゼビオのPKによる1点におさえ、決勝進出である。イングランドのゴールキーパー、ゴードン・バンクスが、ここまでの5試合に許したのはこのエウゼビオの1点だけであった。
 決勝戦は7月30日、場所はロンドン、ウェンブレイ競技場。イングランド対西ドイツ。約3週間続いたW杯が、いよいよ最終戦をむかえる。ところが、大事な決勝で、また審判のジャッジが大問題を引き起こすことになるとは、この時だれも予想していなかった。

※ 本来「朝鮮民主主義人民共和国」とすべきところ、冗長になるのを避けるため「北朝鮮」 と表記した。

参考文献
Max Marquis, Anatomy of a football manager; Sir Alf Ramsey, Sportsmans Book Club, Newton Abbot, 1972.
Bernd Rohr, Günter Simon, Fußball Lexikon, Copress, 1991.

(敬称略、つづく)

BACK NUMBER
PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』
にて連載開始

PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて