風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 05 ドイツとドイツサッカー
明石 真和
第9回 黄金時代とヘルムート・シェーン(その3)

 2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

 1952年、ヘルムート・シェーンは、ザールラント(ザール地方)・サッカー協会専属の指導者となった。
 ザールラントとは、ドイツ南西部のフランスとの国境沿いにある地域を指す。このあたりは、もともと炭鉱と製鉄所が多く、戦争のたびに、その領有をめぐってドイツとフランスの間で議論が巻き起こり、複雑な様相を呈していた。第1次世界大戦後は、1919年のヴェルサイユ条約によってフランスの管理下におかれ、後の住民投票により、ドイツへの帰属が決まった。
 しかし、第2次世界大戦後、再び同じ問題が蒸し返される。フランスは、ザールラントやライン川沿いの地域を含むドイツ南西部を占領した。その中で、ザールラントのフランス編入が画策され、先ず通貨をこの地域だけフランに切り替えるなど独自の政策が実施された。ところが、住民の多くはドイツへの帰属を望んでいた。最終的にはドイツに帰属することになるのだが、戦後しばらくの間は混乱が続いた。
 当時、フランス側から見れば、ザールラントに関しては、さしあたり3つの選択肢が想定された。

1.ザールラントのフランスへの編入
2.ザールラントの国際的な独立
3.ザールラントのドイツへの復帰

 フランスの本音は、ザールラントを併合することにあり、いちばん好ましくないのは、3番目の選択肢である。そこで、とにかく、ザールラントを取り込めない場合でも、少なくともドイツから切り離すことがさしあたりの目標とされ、サッカーを含むスポーツ政策も、とりあえずは1番目と2番目の選択肢をにらみながら実施されることとなった。

 一方、終戦後のドイツでは、サッカーの地域リーグ戦が、各地で息をふきかえしていた。
 フランス占領地域の南西部も例外ではなく、占領軍の許可を得て、1945/46シーズンから、マインツ、トリアー、カイザースラウテルン、それにザールラントの主都ザールブリュッケンといった諸都市を中心に、戦前に劣らぬ活気を取り戻しつつあった。
 地域リーグが再開されたこの時点で、ドイツはまだFIFA(国際サッカー連盟)への復帰を果たしていない。国際試合禁止令が解かれていないため、国内での盛り上がりとはうらはらに、ドイツのチームは、他国と交流のできない状況にあった。

かけひき

 ザールラントに注目すれば、ドイツ南西部リーグに所属するザールラントのチームの中で、常に優勝争いにからむ強豪が1.FCザールブリュッケンであった。戦前からの「FVザールブリュッケン」を、1945年に改組して誕生したチームである。1943年、戦中のドイツ選手権で決勝に進出し、シェーンのドレスデン・スポーツクラブ(DSC)に敗れたチームといえば、ご記憶のかたもおありだろう。
 ドイツのスポーツクラブでは、会員が安い費用でサッカーをはじめとする複数のスポーツを楽しめる仕組みになっている。もちろん、会員からの年会費で、すべてがまかなえるわけではなく、大きなクラブになればなるほど、別の方法での金策を考えなくてはならない。その際、集客力のあるサッカーからは、かなりの収益が期待できる。
 国際試合がままならないこの時代、1.FCザールブリュッケンの場合も、近隣の伝統あるドイツのクラブチームとの対戦が、たくさんの観客をひきつけ、クラブの経済を潤していた。

 そんな時代背景の中、ザールラントと1.FCザールブリュッケンをめぐり、3人の人物を中心としたフランスとドイツのかけひきが始まった。
「第1の人物」は、フランス占領軍のトップ、ジルベール・グランヴァル将軍である。彼は、ザールラント政策を、フランス有利に導くために画策し、サッカー部門に関しては、有力者である「第2の人物」に協力を求めていた。
 その「第2の人物」とは、当時のFIFA会長ジュール・リメである。彼は、1921年から1954年までの長きにわたり、第3代FIFA会長を務め、サッカーを通じての国際交流に大いなる貢献をしたフランス人だ。「ワールドカップ(W杯)の生みの親」としても知られる紳士で、W杯の優勝カップ(ジュール・リメ杯)に、その名を冠されたほどの大物である。
 FIFA会長であると同時に、フランス・サッカー協会会長の地位にもあったリメは、グランヴァル将軍の意を受け、1947年4月27日、1.FCザールブリュッケンとフランスのクラブチーム(ランス)との親善試合に許可を与えた。このゲームには、ザールラントとドイツが「別の国」であることを、国際的に印象付ける効果があった。繰り返しになるが、ドイツのチームに、国際試合は許されていなかったからだ。
 さらに、占領軍(すなわちグランヴァル将軍)は、ザールラント諸チームに対し、「ドイツ南西部リーグ」から脱退するよう通告した。「FIFAから承認を受けていないドイツとの交流はまかりならぬ。今後は、フランス及びFIFA加盟国とだけ試合をしなさい」というわけだ。ドイツ南西部の他の地域とザールラントの「国境」では、フランス軍による管理が厳しさを増し、行き来が制限された。
 サッカーをはじめとするスポーツは、漸次この方法でドイツから分離させられていく。あとは、ころあいを見計らって、ザールラント内にいる親フランス派の政治家や関係者を使い、フランスへの「編入」にもちこめば、すべては大成功…というシナリオである。
 ところが、1948年4月、スポーツ政策を統括するパリの国内スポーツ委員会は、なぜか「サッカーの編入」を拒否した。理由は定かではなく、この経緯に関しては、当時のフランス側の事情を含め、さらに研究する必要があるだろう。想像するに、全体的な占領政策のバランスや現地の住民感情から見て、「時期尚早」と判断されたのではないだろうか。また、これも推測の域を出ないが、もし、万が一ザールラントのクラブが、いきなり優勝でもしてしまったら、古くからフランス・リーグにいる他のチームの面目は丸つぶれになる。そんな感情もわいたのであろう。占領軍の思惑とは別に、早急な編入を拒否する空気が、パリには強かったのではないだろうか。本部と現場の温度差といっても良い。
 とにかく、グランヴァル将軍とジュール・リメの構想は頓挫し、ザールラントにあるサッカークラブは、行き場を失った。今や彼らは、ドイツ地域リーグの所属でもなければ、フランス・リーグのメンバーでもない。あとは、レベルが低く、たいした集客も見込めぬ「ザールラント・リーグ」を細々と運営するしか手はない。800人もの会員を抱えた1.FCザールブリュッケンの悩みは、ことに深刻だった。
 そんな折、フランス2部リーグで、内部の事情により棄権するチームがひとつ出た。ここに目を付けた1.FCザールブリュッケンは、フランス協会に参入を申し出る。ザールラントの他のクラブからは白い目で見られたものの、このアイディアは受理され、1.FCザールブリュッケンは、1948/49シーズンをフランス2部リーグでプレーすることになった。ただし、あくまで「オブザーバーとして」という条件付きであった。リーグには参加するが、その結果は公式には認めないという、いわば、中途半端な「仮編入」である。それでもクラブは了承した。
 本音は「ドイツへの復帰」であっても、現実に即し、経済的に立ちゆかないと見るや、たとえオブザーバーとしてであれ、フランス・リーグへの参入も辞さない。このあたり、組織としてのしたたかなクラブ運営をみる思いがする。
 そして1年後、1948/49のシーズンが終わってみると、1.FCザールブリュッケンは、なんとリーグ戦の1位になったのである。本来なら、翌シーズンの1部リーグ昇格が当然なのだが、オブザーバーでは、それもかなわない。翌年も2部でのプレーが要求された。
 そこに、大きな問題が起こった。1部リーグからアルザス地方シュトラースブルクのチームが降格してきたのだ。アルザスとザールラントは、どちらも国境沿いにあり、戦争のたびにドイツとフランスの間で領有問題が起きるという、似たような歴史をもっている。同じ境遇ならそれぞれ親近感がわきそうなものだが、事はそう単純ではないらしい。
 アルザス地方のサッカー関係者には、ヒトラー時代の記憶がまざまざと残っていた。1935年、ザールラント(当時フランス領)は、ナチスに賛意を示し、住民投票の結果、ドイツと合併した。1940年には、アルザスも同じ運命をたどることになる。ただし、ザールラントとは異なり、嫌々ながらの併合だ。似た境遇にありながら、ザールラントとアルザスのドイツやフランスに対する思いは、まったく異なるのであった。
「あいつらはドイツだ。なぜ、オレ達のフランス・リーグに、ドイツのチームがいるのか?」・・・アルザスは、強硬に反対した。
 こうした騒動になってみれば、もともとフランスへの編入に反対する会員の多かったザールラント・サッカー協会のこと。この機会をうまくとらえて、1949年7月、会員投票によりドイツ地域リーグへの復帰を決定した。
 逆に、1.FCザールブリュッケンに対して、翌年のフランス2部リーグへの出場を許可していたジュール・リメは、フランス国内で窮地に立たされた。これが尾を引いて、次のフランス・サッカー協会会長選挙では、落選する破目になる。

ノイベルガーを特集した本の表紙
『ヘルマン・ノイベルガー』
Dr.h.c. HERMANN NEUBERGER,
DFB, ©1993)

 このような事の成り行きを、冷静に見守る「第3の人物」がいた。新進気鋭のザールラント・サッカー協会青年部長(1950年5月より会長)ヘルマン・ノイベルガー(1919-92)、時に30歳という若さである。ノイベルガーは、後にドイツ・サッカー連盟(DFB)会長やFIFA副会長としても辣腕をふるうことになる、いわば「やり手」の人物だ。
 ザールラントに生まれ育った彼は、兵隊として前線でイギリス軍捕虜となって終戦を迎えた。故郷に戻ると、スポーツ新聞の記者をしながら、1.FCザールブリュッケンの理事を務めた。彼は、ドイツ復帰を望むザールラントの住民感情を熟知しており、フランス側の政策が失敗に終わることも、計算済みであったのだろう。その際、即座のドイツへの復帰はかなわないとしても、そのプロセスとして、ザールラントを一時的にサッカー界で「独立」させ、フランスから切り離しておくのは得策である。彼は、周囲と図って、ここぞとばかりにFIFA加盟の申請手続きをした。
 さらに、複雑な、だからこそ面白いことに、時のFIFA会長は、すでに述べたようにジュール・リメである。リメにしてみれば、ザールラントをフランスに編入する案はうまく進んでいないものの、2番目の選択肢である「独立国」にしてしまえば、少なくともドイツからの切り離しには成功したことになる。まったく正反対のリメとノイベルガーの思惑が、意外な形で一致した。
 かくして、1950年6月、申請はFIFAに受理され、ザールラントは、サッカーの世界では、フランスでもなくドイツでもない、紛れもなくひとつの独立した“国”として認められたのである。ほどなくして、西ドイツのFIFA復帰も承認された。独立という点においては、これに先立つ1950年5月、IOC(国際オリンピック委員会)総会でも、ザールラントは、単独に独立した“国”として承認され、52年ヘルシンキ・オリンピックには、ザールラント独自に選手団を派遣することになる。
 シェーンが、ノイベルガーに誘われ、「小国」といえども1国の「代表監督」を任されるようになった背景には、このような混乱の時代が存在していたのである。選手時代、「将来、どんな職業につくとも、監督だけはやりたくない」と考えていたシェーンだが、運命の導きであろうか、結局はその世界に足を踏み入れることになってしまった。こうして、彼の人生の後半戦が幕を開けた。

師弟対決

 ザールラント代表監督としての最初の大仕事は、1954年W杯スイス大会の予選であった。ところが、あろうことか、ザールラントは、ノルウェー、そして西ドイツと同じグループに配属されてしまった。シェーンは、かつて選手時代に教えを受け、その後も公私ともに世話になっている西ドイツ代表監督ゼップ・ヘルベルガー(1897-1977)と直接対決することになった。
 一見、運命的な偶然に思えるこの組み分けの裏に、実は、FIFA会長ジュール・リメ及びフランス側の意図が隠されていたのである。西ドイツとザールラントを同じグループに置けば、両者がそれぞれ別の国であることを、より鮮明に印象づけることができる。
 リメの回想録(『ワールドカップの回想』、ベースボール・マガジン社)には、このスイス大会予選の組み分けについて、次のような記述が見られる。
「各チームをグループに分けるのは、あらゆる点を考慮してやらなければならない微妙な作業で、組織委員会により、1953年2月14日、15両日に行われた」
つまり、「抽選」については、ひとことも触れられておらず、現在のように明快なクジ引きで決められたかどうかは不明なのである。

 政治的な“かけひき”はともかくとして、試合の結果からいえば、ノルウェーには勝ったものの、西ドイツには接戦の末敗退し、ザールラントのW杯出場はならなかった。それでも、母国を苦しめたシェーンの采配は、高く評価された。
 このときの両チームの選手たちを詳しく眺めると面白いことに気づく。ヘルベルガーは、代表チーム主将フリッツ・ヴァルターの所属する1.FCカイザースラウテルンの選手を中心に、西ドイツ代表を選抜していた。ヴァルターは、戦前からヘルベルガーが手塩にかけて育ててきた選手で、「監督の右腕」とも呼ばれる名手である。1.FCカイザースラウテルンは、1948年から1955年の間に5回、ドイツ選手権決勝に進出したほどの名チームであり、このとき全盛を迎えていた。
 一方、シェーンは、1.FCザールブリュッケンを核として、チームを形成した。ザールブリュッケンとカイザースラウテルンは、いずれも「ドイツ南西部リーグ」に所属している。つまり、普段から好敵手として戦い、お互い手の内を知っている者同士が、W杯予選で相対したわけである。監督は師弟、選手は日常の顔見知りとなれば、さぞ、やりにくかったことであろう。試合後のヘルベルガーの談話に、その辺の本音が表れている。「試合が終わってほっとした、ってとこだな。少なくとも私はね。」

 西ドイツとの最終予選の日、1954年3月28日は、奇しくもヘルベルガー57歳の誕生日だった。試合後の親睦パーティで、シェーンは恩師に向かってこうスピーチした。
「ザールラントには、もうチャンスがなくなりました。ぜひ、ドイツチームが世界チャンピオンなってください!」
 3ヵ月後の1954年7月4日。西ドイツは、絶対の優勝候補といわれたハンガリーを、決勝で3:2と破り、本当にW杯に優勝してしまった。この勝利は、戦争での敗戦に打ちひしがれていたドイツ国民に、再び生きる勇気を与えたとされ、今なお「ベルンの奇跡」として語り継がれている。
 この大会には面白いエピソードがある。西ドイツは、1次リーグで、すでにハンガリーと対戦し3:8と大敗していた。決勝戦をひかえて、ハンガリーのマスコミが、ヘルベルガーを訪れ、こう質問した。
「監督、1次リーグで我々ハンガリーは大勝しています。ドイツに勝ち目はあると思いますか?」ヘルベルガーは答える。
「もし、決勝当日が晴れになれば、優勝はハンガリーだ。…でも、もし万が一、雨になれば、我々ドイツにもチャンスはある。」
 ヘルベルガーの自信には、それなりの裏づけがあった。主将のフリッツ・ヴァルターは、雨に濡れた芝生のグラウンドが大好きな選手であった。今でも、ドイツ・サッカー界では、雨の天候を「フリッツ・ヴァルターの天気」と呼ぶほどである。
 もうひとつのヘルベルガーの秘密兵器は、靴職人アディ・ダスラーの発明した「ポイントねじ込み式スパイク」であった。それまでのスパイクは、靴底に木片を釘で打ちつけていたため、臨機応変の処置ができなかった。ダスラーは、この点に着目し、当日のグラウンド状態に応じて即座にポイントを交換できるよう、ねじ込み式にしたのである。この発明により、彼の創始した「アディダス」社は、世界的なメーカーに発展していくことになる。
 決戦当日。スイスの首都ベルンのヴァンクドルフ競技場。天候は、雨。地力に勝るハンガリーは、試合開始直後の猛攻で、前半8分で2点をあげてしまう。ここからドイツの反撃が始まり、前半終了時には2:2の同点。そして、後半39分。ヘルムート・ラーンの決勝点で、3:2と勝ち越し、そのまま逃げ切った。ドイツW杯初優勝。
 当時を知る年配のドイツ人達に話を聞くと、今も、皆一様に「あのときは声をあげて泣きました!」と、感激を語ってくれる。すべてのドイツ国民の心に深く根ざす大勝利であったといえよう。ハンガリーのゴールキーパー、グロシチは、後にこう語った。
「(スパイクの差は)後半になると、いっそう明らかになった。ハンガリー選手が、滑って転んでいるのに対して、ドイツ選手は地面をとらえ、安定したプレーを見せていた」
 表彰式。優勝した西ドイツを代表して、主将のフリッツ・ヴァルターが、歩み出る。彼の手に「ジュール・リメ杯」を授与したのは、ほかならぬFIFA会長のリメその人であった。すでに80歳を過ぎていたリメは、これを最後に、会長の座を退いた。

 1955年、ザールラントではドイツへの帰属をめぐって住民投票が行われ、その結果、1957年1月より正式にドイツに復帰することになった。ザールラントは、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の1州になったのである。また、ザールラント・サッカー協会も、DFBの下部組織である1地方協会となった。
 シェーンも、DFBのコーチとして、ヘルベルガーの元で働くことが決まった。そして、1958年スウェーデン大会(4位)、1962年チリ大会(ベスト8)と、2回のW杯を助手として体験した後、1964年、ついにヘルベルガーの跡を継いで西ドイツ代表監督に就任するのである。目指すは、2年後の1966年にサッカーの母国イングランドで行われる第8回W杯だ。シェーン自身の栄光とドイツ・サッカーの黄金時代が、いよいよ始まろうとしていた。

監督人事

 ところで、ドイツ代表監督がどのように選ばれるのかは、興味をひく点である。内部の事情を詳しく知っているわけではないが、DFBに人事委員会が設けられ、そこでの議論を経て決定が下される、と考えるのが普通であろう。ただ、その際に、具体的な候補者の選出に関しては、DFB会長や連盟内の実力者、それにもちろん前任者の意見が大きくものをいうであろうことも、想像に難くない。

ヘルベルガーの著書
『サッカーW杯』
Fußball, WM, Römer, ©1973)

 1936年から30年近く代表監督の座にあったヘルベルガーには、大勢の弟子がおり、当然、その中から適任者を探すのが順当な道である。では、ヘルベルガーの意中の人物は誰であったのか・・・。1973年に出版されたヘルベルガーの著書『サッカーW杯』(Fußball, WM, Römer社刊)に掲載されている彼の手記を見ると、そのあたりの事情がはっきりと分かって、非常に興味深い。候補者は4人いた。
 第1候補は、フリッツ・ヴァルター(1920-2002)だ。ヘルベルガーとヴァルターは、厚い信頼関係で結ばれていた。戦後のドイツ・サッカー再建のため、共に手を携えて尽くしてきたといっても過言ではない。ヴァルターは、チームのキャプテンというだけでなく、事実上、ヘルベルガーの助手として、1954年のW杯優勝をドイツにもたらした最大の功労者だ。ヘルベルガーにとっては、自らの引退後に代表チームを託せる人物として、まっさきに思い浮かんだことであろう。
 ところが、繊細な性格で知られるヴァルターは、これを固辞した。彼には、長い間、選手として監督を見てきた経験上、その重責が、分かりすぎるほど分かっていたのだ。
 第2候補は、ヘネス・ヴァイスヴァイラー(1919-83)である。彼は、怪我のため、現役生活は短かったが、ヘルベルガーの意を受けて、1954年以降ケルン体育大学で「指導者養成コース」の主任を務めていた。と、同時に、近隣のクラブチーム、ボルシア・メンヘングラットバッハ(ボルシアMG)の監督を引き受け、素晴らしい成果をあげていた。代表監督より、一流クラブのほうが、経済的には、はるかに恵まれている。1960年代後半には、体育大学主任の座も辞して、クラブ監督に専念するようになる。ボルシアMG、バルセロナ、1.FCケルン、ニューヨーク・コスモス等といった、当時の1流チームの監督を歴任して実績を残した。1.FCケルンの監督を務めていた1970年代後半、奥寺康彦の素質を見抜き、日本人初のプロ選手として契約したのもヴァイスヴァイラーであった。
 第3候補は、日本でも有名なデトマール・クラマー(1925-現在も活躍中)だ。戦後すぐに、西ドイツ西部地区の主任指導者となった彼は、新しい才能の発掘には非常に鋭い目をもっていた。ヘルベルガーは、ユース・チームや、後進の指導をクラマーに任せた。また、クラマーはテレビの仕事も引き受け、さらにヘルベルガーの推薦によってFIFAの世界巡回コーチもこなすことになる。1960年代に日本代表を指導して、メキシコ五輪銅メダルに導いた功績は、言わずもがなである。
 そして、いよいよ第4候補として名のあがるのが、本編の主人公ヘルムート・シェーン(1915-96)ということになる。ヘルベルガーは、こう述べている。
「1956年に助手となって以来、その後の8年間、シェーンは、私のもっとも身近な同僚だった。そのため、私はDFBに対し、素直に、後任の『意中の人物』として彼を推薦した。・・・その後の成績を見れば、私の選択が正しかったことが証明されるだろう」

 ヘルベルガーにとって、フリッツ・ヴァルターを除く3名は、すべて横一線であったように思う。シェーンについては、“last not least”(4番目に名前をあげているが、最後ではあっても、決して劣っているわけではない)と、英語の言い回しを引いて語っている。
 客観的に見ても、この4名の候補者の中で、「代表監督経験」のいちばん豊富なのがシェーンである。組織が固まっていなかったとはいえ、「ソ連地区選抜監督」は、実質の「東ドイツ代表監督」であり、また小規模ながら、「独立国ザールラント」での経験もある。いわば、西ドイツ代表監督就任の前に、既にじゅうぶんな「模擬テスト」を受け、モデルケースを体験していたことになる。さらにもうひとつ、次第にDFB内での発言力を強めていた「ザールラントの盟友」ノイベルガーの強力な後押しがあったであろうことも、容易に察しがつく。
 こうして、新スタッフは、代表監督ヘルムート・シェーン、助手デトマール・クラマーに決定した。

イングランドへの道

 1966年W杯イングランド大会への予選は、1964年11月に始まった。西ドイツは、スウェーデン、キプロスと同じグループに配属された。初戦はベルリンでのスウェーデン戦だった。新監督ヘルムート・シェーンの下でのW杯予選。ホームゲーム。ファンの注目は、いやが上にも高まっていく。
 最初の記者会見では、こんな質問が飛んだ。
「あなたは、ヘルベルガーと同じようになさるおつもりですか?」
「コピーは、オリジナルより質が悪いものと相場が決まっています。ですから、私はコピーでは良くないと思っています」
「ヘルベルガーにアドバイスを求めますか?」
「彼の経験を活用し、ある局面ではアドバイスを求めることもしなければ、賢いとはいえないでしょう」
ソツのない軽妙なインタビュー。評判は上々だった。
 ところが、ドイツの地元ベルリンでのスウェーデン戦は、先制しながらも同点に追いつかれ、そのまま1:1で引き分けてしまった。この予選グループでは、キプロスは弱くて問題にならず、事実上、西ドイツとスウェーデンの一騎打ちになると見られていた。地元での引き分けは、敗戦にも等しい。あとは敵地に乗り込んで勝利するしかない。しかし、ドイツは、1911年以来スウェーデン本国で勝ったためしがないのである。
「何か手をうたなくては・・・」
 シェーンは、1965年9月にスウェーデンの首都ストックホルムで行われる決戦に向けて準備を開始した。練習試合を組み、メンバーを入れ替え、さまざまな布陣を試してみる。だが、さしたる効果が見られない。そこへ、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
「ウーヴェ・ゼーラー負傷! アキレス腱切断!」
 決戦を7ヵ月後にひかえた1965年2月のことであった。

ウーヴェ・ゼーラーと筆者
1995年9月

 ウーヴェ・ゼーラーは、「ドイツ魂の権化」ともいえる選手である。ハンブルクのサッカー一家に育ち、父親のエルヴィン、兄のディーターも名選手であった。1936年生まれのゼーラーは、10代から地元のハンブルガーSVで頭角を現していた。17歳で早くもドイツ代表に選ばれ、1958年、1962年と、2回のW杯を経験した。常にフェアで全力を尽くすプレーぶりは、ファンから絶大な支持を受け、その明るい性格ともあいまって「ウンス ウーヴェ(Uns UWe、 我らがウーヴェ)」と親しまれていた。当時のW杯や国際試合で、ドイツ人サポーターが「ドイチュラント!ドイチュラント!」という掛け声と並んで、「ウーヴェ、ウーヴェ!」と彼の名を連呼して応援したのは有名なエピソードである。
 1966年W杯に向けて、このゼーラーを中心に、チーム作りを進めてきたシェーンであった。それが・・・。新監督の計画は、すべて水泡に帰してしまうのか。チームの精神的支柱であるゼーラーを欠いて、アウェイでスウェーデンを破ることができるのだろうか?
 ドイツは、それまでのW杯で予選落ちしたことはない。もし…、万が一…そう考えるだけで、シェーンは針のムシロに座ったような心境であった。自伝にはこう書かれている。
「私はもちろん死ぬほどのショックを受けた。ウーヴェのいない代表チームなど考えられない。・・・スウェーデンでの第2戦をひかえたあの頃、何週間、何ヶ月間にわたって、ウーヴェの再起だけを願っていた。回復と復調をじっと見守っていた。・・・本人とも何度も電話で話をした。・・・私には、自分の運命がウーヴェ・ゼーラーのそれと一つであるように思われた。」

ゼーラーの著書
『ありがとう、サッカー!』
Danke, Fuβball!,
Rowohlt, ©2003)

 ゼーラーも、その著書『ありがとう、サッカー!』(Danke, Fußball!, Rowohlt社刊、2003)で、シェーンの言葉を裏書きしている。
「ヘルムート・シェーン監督は、3日おきに電話してきて、私の状態を尋ねた。・・・私が、8月3日に若手チームとの試合でカムバックを考えていることを伝えると、彼の声が変わった。はるかに朗らかな調子になった」
 シェーンは、ゼーラーにこう打ち明けたという。
「ひとつアイディアがあるんだ。ミュンヘンに、フランツ・ベッケンバウアーという名の若いのがいる。20歳だが、ボール扱いは完璧だ。ストックホルムに連れて行こうと思うが、・・・ウーヴェ、きみはキャプテンとして、どう思うかね?」
「シェーンさん、ボスはあなたです。我々はやります!私も復帰します。そのベッケンバウアーとかいうのを連れて行きましょう」
 ゼーラーの代表復帰戦。そしてベッケンバウアーのデビュー戦。シェーンにとっては、ふたつの大きな賭けであった。

 1965年、9月26日。ストックホルムのドイツ宿舎に、1954年W杯の英雄フリッツ・ヴァルターが姿を現した。彼は、若いベッケンバウアーを連れ出すと、父親のような調子で語りかけた。「僕がきみぐらいの時、やはりチームのみんなが、気にかけてくれたものだ。・・・覚えておくといい。予選がうまくいかなかったら、そりゃあ不運なことさ。でも、だからといって、この世が終わるわけでもない」ベッケンバウアーは、バイエルン訛りでこう言った。「やれると思います」
 そして・・・ドイツチームは、やったのである。前半終了間際の44分、スウェーデンに先制を許したが、その直後45分に同点に追いつく。後半10分、センタリングが上がり、スウェーデン守備陣が取りそこなう。そこに足を伸ばしたのが、「我らがウーヴェ」だ。
 2:1! ゼーラーは言う。
「これは、怪我から治ったばかりのオレを、こんな大事な試合に起用してくれたシェーン監督への恩返しのゴールだ!」と。
 こうしてシェーンは、ドイツ代表監督として、イングランド大会に向け、最初の難関を突破したのである。新聞には、次のような見出しが載っていた。
「ベッケンバウアーは、ドイツ・サッカーの未来の夢である」

参考文献
Dick Bitzer, Bernd Wilting, Stürmen für Deutschland, Campus, 2003.

(敬称略、つづく)

BACK NUMBER
PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』
にて連載開始

PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて