風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 05 ドイツとドイツサッカー
明石 真和
第8回 黄金時代とヘルムート・シェーン(その2)

 2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

ドイツ選手権と「憧れのヴィクトリア」

「ドイツのチャンピオンチーム」
Fußball Meister©1941

 ヘルムート・シェーンが所属していたドレスデン・スポーツクラブ(DSC)は、1898年創立という古い歴史をもつクラブである。
 1863年にロンドンで生まれたサッカーは、19世紀後半から20世紀前半にかけて、ドイツでも次第に愛好者を増やしていき、各地にサッカークラブが創設されていった。ハンブルガーSVは1887年、FCバイエルン・ミュンヘンは1900年、ボルシア・ドルトムントは1909年といった具合に、現在の有名クラブのほとんどがこの時期に誕生している。
 周辺地域に複数のクラブが存在すれば、当然のように対抗戦や大会が行われるようになり、長期的見地に立てば、それを統括する協会が必要になってくる。組織づくりに長けたドイツ人のこと、サッカーに関しても、次第に各地で協会が生まれていった。
 ドイツ・サッカー連盟(DFB)は、ちょうど世紀の変わり目に当たる1900年に設立された。地方分権の国らしく、各地域にあるサッカー協会を、漸次その傘下におさめる形での発足であった。初期の頃には、まだ地域や都市ごとのサッカーに対する温度差もあり、わずか数チームしか登録されていない地方協会もあったようだが、とにかくドイツ全土を統括する組織が、こうしてできあがった。
 1903年、第1回ドイツ全国選手権が開催された。まずは、各地でリーグ戦や地方大会を行い、それに勝利したチャンピオン・チームが、さらに全国大会に駒を進めるという方式であった。1903年といえば、日本の明治36年にあたる。いくら当時の先進国ヨーロッパのドイツとはいえ、まだプロ制度もなく、交通事情も今とは比べようもないほど不便な時代である。地方に重点を置いたこのやり方は、地元意識の強いドイツ人気質とも相まって、まさに時宜にかなうものであったことだろう。後に、ヒトラー政権下における一時期、全国レベルでの「帝国リーグ構想」が検討されたこともあるらしいが、結局実現にはいたらなかった。結果として、この地方大会から勝ち抜いていくという方式は、ブンデスリーガ誕生の1963年まで、60年間続くことになる。
 日本では、夏がくると高校野球に熱中する人が多い。甲子園を目指し、各県の地方予選から勝ち抜いていく中で、地元を巻き込んだ熱狂ぶりが、毎年のように報道されている。そんな夏の高校野球と重ね合わせれば、郷土意識の旺盛なドイツにおける、当時のサッカー選手権のおおよそのイメージが伝わるのではないかと思う。

 全国大会の優勝チームには、その栄冠の象徴として、「ヴィクトリア」と呼ばれる女神像が贈られることになっていた。もともとこの女神像は、1900年パリ・オリンピックへのドイツ選手団派遣委員会が、ドイツ対フランスのラグビー国際試合の賞品として作らせたものであった。その後方針が変わり、同委員会からDFBに譲られ、サッカー・ドイツ選手権の優勝チームに、「持ち回り賞」として授与されることになったのである。つまり、この女神像こそが、ドイツ・チャンピオンの証というわけであり、憧れの「ヴィクトリア」をめぐる戦いは、各地の参加クラブが増すにつれ、年毎に熾烈を極めていった。
 オリンピックの「メダル」、プロ野球の「ペナント」、高校野球の「優勝旗」、サッカーの「カップ(杯)」という具合に、それぞれのスポーツ大会でいろいろな賞品がある。現在のドイツのブンデスリーガの優勝チームに与えられるのは、円盤の形をした銀色の金属製シャーレ(皿)であり、まことに無骨で飾り気がない。それに比べると「女神像」とは、なんと洒落ていて、しかも「雅(みやび)」なことだろう。

警報下の選手権、ドレスデンの最期

ドイツ選手権決勝
「シャルケ04対ドレスデンSC」
プログラム©1940

 1943年6月、ヘルムート・シェーンの所属するDSCは、再びドイツ選手権決勝に進出した。過去何度も苦杯を喫した宿敵シャルケ04がすでに敗退していたこともあり、今度こそ大きなチャンスが目の前に訪れていた。ところが、時は戦時下のドイツである。サッカーだけに集中するわけにはいかない事情があった。

「明日の試合のことは、英軍にだって分かってしまうよな」
「そりゃ、そうだ。いろんな新聞にでてるからな」
「もしやつらが、低空飛行で来て機関銃で貴賓席をねらったら・・・。爆弾をグラウンドに落としたら・・・」

 ドイツ選手権決勝の対FVザールブリュッケン戦を翌日にひかえて、ドレスデンチーム内ではこんな物騒な会話が交わされていた。すでに、イギリスの爆撃隊はドイツ帝国領内にかなり深く入り込んでおり、サイレンだけが、毎夜「警報・・・解除・・・警報・・・解除」と鳴り響いているありさまだった。
 そんな不安な状況のもと、それでもベルリン・オリンピックスタジアムに押しかけた8万の観衆の見守る中、ドレスデンは3:0のスコアで、ドイツ・チャンピオンの座を勝ち取った。「憧れのヴィクトリア」は、ついにシェーンとDSCのものになったのである。
 さらに、翌1944年にもDSCは決勝に駒を進め、ハンブルク空軍スポーツクラブを下して2年連続の優勝を果たした。シェーンは語る。
「すでに大会そのものが狂気の沙汰であった。国が瓦礫に埋没し、人々が飢え、死んでいくときに、まだ『サッカー・ドイツ選手権』とは――。・・・我々は4:0で勝った。でも、あの日々、こんなことにどんな意味があったのだろう」
 連合軍はノルマンジーに上陸し、東ではソ連軍の猛反撃が始まっていた。それでもなお、7万人の観衆がスタジアムに来て、90分間戦争を忘れたのだという。大衆のスポーツ“サッカー”とは、ここまで根強いものなのだろうか。

 1945年2月、連合軍の大飛行部隊が一路ドレスデンを目指していた。ソビエト軍の大部隊もオーダー川を渡ってドイツ帝国領内に進撃し、ドレスデンの東方130キロの地点にまで到達していた。周辺地域からの難民で、63万だったドレスデンの人口は急激に増加し、慎重に見積もっても110万以上に達していたといわれる。
 戦局は、いよいよドイツの不利となっており、すでにハンブルクとベルリンは空爆で破壊されていた。このような情勢下の2月13日、今度はドレスデンが大空襲に見舞われるのである。シェーンは回顧する。

「あの日、私は、会社の防空班長として任にあたっていた。誰もが順に当番になるので、この夜の私は工場にいなければならず、妻のもとへは帰れなかった。・・・10時15分過ぎだった。・・・気味悪いほどゆっくりと、また気味悪いほど美しく、闇の中を照明弾が落ちてきて、空を明るく焦がしていた。誰かが叫んだ。『ドレスデンの最期だ』・・・。この時、市内は、縦7キロ、横4キロにわたって地獄絵そのものだったそうだ。・・・爆発がおさまると、防空壕の中はおそろしいような静寂が広がっていった。人々はただむなしく宙を見つめていた。私は外に出たいと思った。・・・あたりは松明のように燃えていた。火。火。どこもかしこも火の海だ。燃えた家が崩れ落ちてくる。道々に黒焦げの、あるいはミイラのようにカサカサになった死体があった。・・・灰の山だった。みんな焼け焦げになって死んでいた」

「ドイツのフィレンツェ」とまで讃えられた町は、こうして5日間燃え続け、死者の数は13万5000人にものぼった。

 数ヵ月後、戦争は終わった。

生きるための戦い-分裂した占領のなかで

女神像とマイスターシャーレ
03年12月

 戦後のドイツは、戦勝4ヵ国(英国、アメリカ、フランス、ソビエト)に分割統治された。首都ベルリンだけは、4ヵ国の共同管理下に置かれたため、ひとつの都市に4つの占領区域ができてしまった。
 ドレスデンはソ連占領地域に組み入れられ、シェーンは自分の意志とはまったく無関係に、社会主義の制度の中で生きていくことになった。ソ連の占領下では、個人企業は歓迎されず、勤務先の製薬会社「マダウス」は解体され、国営企業となった。スポーツクラブですらその存在を認めてもらえず、ブルジョアクラブの典型と名指しされた名門DSCも、改組と改名を余儀なくされる。新しいクラブは、DSCの本拠地の地名をとってSGフリードリヒシュタットと名付けられた。
 シェーンは、戦時下の1942年1月、長く交際していた恋人のアンネリーゼと結婚し、1944年には長男シュテファンが誕生していた。家族のためにも、とにかく手を尽くして生き延びていくしか道はない。タバコの上等品や事務服を手に入れては、肉や子供のミルクと交換した。マダウス社解体のドサクサに紛れ、ひそかにかくしておいたアルコールが、ロシア兵との交渉にはことに役立ったという。
「私は、当時としてはかなり上等の焼酎やリキュールを作り、家で次々にビン詰めしていった。すべてヘルムート・シェーンお手製である。・・・ソビエト軍の大きなガソリン貯蔵所が、ドレスデンの幹線道路沿いにあり、ロシアのトラックが毎日列を作って燃料補給していた。ある時、私はすっとその列にもぐりこんだ。目の前にトラックが一台止まっており、ロシア兵がひとり荷台に腰かけて、足をブラブラさせていた。私がこっそりと焼酎の入ったビンを見せると、この兵隊は興味を示し、あたりを見回すと、笑い、うなずいて、合図をよこした。私はビンを差し出し、彼はガソリンの入った20リットルの缶をもってきてくれた。こうして焼酎―ガソリン取引が始まった」
 またある時には、インシュリンを調達するという名目で、イギリス占領地区のハンブルクに行き、ついでにサッカーの試合にまで出場するという芸当を見せている。
「このドライブは、まさに冒険だった。ロシア軍にスパイの容疑をかけられてしまうといけないので地図はもっていないし、道路標識はすべてロシア語である。・・・正規の道をみつけるまで、長いこと確信もなくウロウロさまよった。・・・ハンブルクでは、FCザンクト・パウリで旧友達に会い、そのうえゲームにまで出てしまった。そのままハンブルクに残るようずいぶん説得されたが、妻と息子のもとへ帰らなくてはならなかった」

 いつの時代でもそうかもしれないが、為政者が名声のあるスターを放っておくはずがない。シェーンも、SGフリードリヒシュタット(つまり旧DSC)でプレイングマネージャーをしながら、同時にソ連占領地域内でのサッカー選抜チームの指導を任された。この役目は実質の「代表監督」といえるものであり、そのままおとなしく留まっていれば、後に国の体制やサッカー協会の組織が整った時点で、正式に東ドイツ代表監督として任命される可能性も高かったであろう。
 ところが、当局との見解の相違もあってか、シェーンはさまざまな局面において、エーリヒ・ホネッカー(後の東独書記長)を長とするスポーツ委員会指導部からにらまれるのであった。
「スポーツの世界にもすでに政治が入りこみ、あらためてイデオロギーで色づけする必要はない」と考えていたシェーンが、思想教育を拒否したことも一因なのであろう。戦時中、有名サッカー選手として、ナチから入党を勧められた時にも、これを拒否しており、このあたりにシェーンの性格の一端がうかがえる。

 戦後ドイツの再生について、東西陣営で共通しているのは非ナチス化という点だけだった。1945年の戦争終了時から、1949年に東西2つのドイツに分裂するまでの期間、東と西の占領地域においては大きな齟齬が見られるようになっていた。サッカーについても同様であった。
 もともと、地方にベースを置いて選手権を開いていたドイツのこと。戦後も、東西を問わず、ほぼ同時期に各地でサッカーが復活していた。施設やプレーの質は不十分ながら、親善試合や大会があれば、娯楽に飢えた多くの観客が、ゲームに押しかけるようになる。それぞれの地域で雰囲気が盛り上がれば、あとは全国大会を待つだけだ。占領方針が近い西側3ヵ国(英・米・仏)は共同歩調をとって、全国的なドイツ選手権開催の許可を下した。一方、ソ連占領地域では、独自に東側地域に限っての「東地域選手権」が行われることになった。
 西側では、戦前からの「持ち回り賞」であるヴィクトリア像(女神像)を、新チャンピオンに授与しようという機運が高まっていく。しかし、ここで問題があった。戦時中の最後の王者として女神像を保管していたのは旧DSCだったのだ。旧DSCの本拠地であるドレスデンはソ連占領地域にあり、東側はこの像の西側への移管を拒否した。
 シェーンの自伝には、ことさらの詳述がないため、ここから先は、あくまで推測の域を出ないのだが、東側当局にしてみれば、女神像をむざむざと差し出すには、精神的な抵抗や面子もあっただろうし、またそれによって、もともと認めたくない「もうひとつのドイツ(この時点ではまだ英・米・仏の占領地域だが)」の存在を容認することにもなってしまう。
 かくして、女神像を西側に持ってこようという計画は頓挫した。また旧DSCを監督するシェーンは、ホネッカーから大目玉をくらうはめになり、女神像もそのまま「行方知れず」となってしまった。
 その後、40年以上も関係者やファンを心配させつづけたこの「女神像」は、1990年に東西ドイツの再統一が成った後、突如、我々の前に昔のままの優雅な姿を現した。現在では、ブンデスリーガ優勝チームへの副賞として新たな役割を付与され、再びドイツ・サッカー史の本流の中を生き続けている。

 サッカーの世界ですら、この状態である。ましてや、大局的な政策や統治体制については、次第に各占領地域での相違が目立つようになっていた。特に東側地域でソ連が行った独断的とも言える措置に対し、西側3ヵ国はなすすべもなかった。このような政治的背景もあって、1949年5月、英・米・仏の西側占領地域では「ドイツ連邦共和国基本法」が発効し、ライン河畔のボンを「仮の首都」として西ドイツが発足する。あえて「仮の」という表現を使ったのは、将来の統一を前提に、その際は再び首都をベルリンに戻すという可能性を見越してのことである。
 一方、同年10月、東のソ連占領地域では、「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」が建国された。ベルリンは、英・米・仏の占領地域(西ベルリン)を除くソ連占領地域(東ベルリン)だけが、「東ドイツの首都」として公に存在するという異常事態に陥る。町を分断する「壁」はまだ構築されておらず、東西ベルリン間の行き来も比較的自由ではあったとはいえ、東ドイツ内に、西ベルリンだけが「陸の孤島」として存続することになった。こうして、ドイツは、世界中でもっとも鮮明に東西冷戦の図式を具現する「2つの国」になってしまった。

 そんな中、東ドイツ政府の厳しい管理下にありながら、ことサッカーとなると、シェーンは貧欲である。ある時は、当局に対し、こんな大胆な申し出を行うのであった。
「お望みとあれば、コーチを養成し、レベルアップをはかりましょう。それには先ず、私自身がレベルアップできるよう、チャンスを与えてください。ケルン体育大学のヘルベルガーの講習に行かせてもらいたい・・・」
 驚くべきことに、この申し出に対し、ホネッカーから許可がおり、シェーンは1949年から50年にまたがる冬場に、西ドイツでコーチ研修を受けることができた。つまるところ、東ドイツでも優秀なコーチが必要なのであった。
 シェーンにとっては、代表選手時代からの旧師ヘルベルガーの庇護の下、慣れ親しんだ環境に身をおいて、あらためて「ほんとうの居場所」を確認した思いであったろう。心の揺れが始まっていく。ドレスデンに残っている妻との電話では、東地域の雰囲気がますます険悪になっていることを知らされる。そして、その会話も盗聴されていた。

騒動、追放、そして逃亡

1978年4月東西ベルリンの壁
西側に立つ筆者

 そうこうするうち、とうとうサッカーの試合で、大騒動がもち上がってしまった。
 1949年9月、東ドイツ建国に数週間先立って、サッカーの「全国リーグ(オーバーリーガ)」が開始された。シェーンも50年2月に西ドイツケルンのコーチ研修からもどり、チームに復帰する。
 実は、この点は案外見落とされがちなのだが、東ドイツでは、西ドイツのブンデスリーガより14年も早く全国統一的なリーグが創設されていたことになる。西ドイツより東ドイツの方が国土が狭く、各地の行き来が容易であったことや、国全体の連帯感を高めるという政府の方針にかなっていたことも理由にあるのだろう。ただ、当然のことながら、社会主義国家にプロは存在しない。

 新たな国家。新たなサッカーリーグ。その記念すべき初年度のチャンピオンは、シェーンのSGフリードリヒシュタットと、ホルヒ・ツヴィカウの争いとなり、決着は最終戦にまでもつれこんだ。勝ち点で並び、得失点差でドレスデンがわずかにリードしているという状況下での直接対決であった。午後3時キック・オフのゲームを、なるべく良い席で見ようとする前夜からの徹夜組も含め、5万とも6万ともいわれる観客が、決戦の場であるドレスデンのスタジアムに押し寄せていた。
 地元ドレスデンのファンにとってみれば、「ドイツ・チャンピオン」のまま終戦を迎え、さまざまの艱難辛苦を体験した旧DSCチームへの思い入れは相当なものであっただろう。これに対して、ホルヒ・ツヴィカウは、トラクターを作っていた工場の労働者が中心となったチームであった。この工場は、後にトラバントという有名な国産車を生産するようになる。つまり、まさに典型的な東独型国営企業のチームなのであった。
 そして、審判の笛は、「まるでツヴィカウを是が非でも初代チャンピオンにしたいとでも思っているかのように」鳴り響いたのである。真相は永遠の謎だが、どこかで政治的な工作が行われたことは想像に難くない。結果を言えば、シェーン達のフリードリヒシュタットは、1:5で敗れた。
 まだ交代の認められていない時代のこと、前半途中、ツヴィカウの選手の乱暴なプレーにより、主力選手の一人が怪我をして、そのまま退場したことが、ドレスデンには大きな打撃となった。ラフプレーのツヴィカウ選手に対し、審判からはなんのお咎めもなく、その後も偏った判定が続いた。
 試合後、納得しない大観衆がグラウンドになだれこみ、大騒ぎとなる。ヴァルター・ウルブリヒト(後の東独書記長)を初めとする大物党員達の居並ぶ貴賓席に向かって、強烈な抗議の文句をがなりたて、さながら民衆蜂起のような状態であったという。
 それでもウルブリヒトの次のようなコメントが残っている。「国営企業のチームが優勝したことは、我々の民主的なスポーツ運動が正しい道を歩んでいることの証明である」
 数日後、騒動を理由にSGフリードリヒシュタットは解散を命じられ、チームは国営タバコ企業の一部となった。当局にとって、かねてより「目の上のたんこぶ」であった旧社会の残存クラブはこうして消滅し、ソビエトからは、旧DSCの継承者を追放するようにとの指示が出された。
 シェーンは、東ベルリンのスポーツ委員会に呼び出され、事情聴取を受ける。観衆にまでは政治操作の手が及ばなかったことから、彼がスケープゴートとして槍玉にあげられたのであった。
「シェーン君。ドレスデンでの騒ぎの張本人はきみだ! きみが観衆をそそのかしたんだ。この社会主義のスポーツ界では、いつまでも古い伝統にしがみついている輩は要らないんだ。聖霊降臨祭後に、きみの整理を考えているよ!」
 ベルリンから故郷ドレスデンに向かう帰途、アウトバーンに愛車オペル「オリンピア」を走らせながらシェーンはつぶやく。
「やつらはオレを逮捕に来る。東地域選抜監督の座も危ない。早いとこ姿を消さなければ・・・」
 こうして、圧迫を感じたシェーンは、家族とともに西側への逃亡を決意するのである。この1950年には、約20万人がソ連占領地域から西側へ逃げ出したといわれている。
 聖霊降臨祭後という若干の時間的猶予があったのは、その時期に東ベルリンで「世界青少年の集い」という国家的プロジェクトの開催が予定されていたからである。これは、東欧ブロックの青少年組織の大イベントであり、国の首脳部は「社会主義の兄弟国」との社交に手一杯だったのだ。
 この間、シェーンは用意周到であった。逃亡を敢行する前に、もう一度単身でベルリンに行き、身の回りの品を西側の友人のもとに運び込んだ。ベルリンの名門クラブであるヘルタBSCとは、プレイングマネージャーの交渉をし、恩師ヘルベルガーにもコンタクトをとる。ドレスデンからベルリンの駅まで家財道具を運んでくれる運送会社を手配し、そこから先は西ベルリンの運送屋に依頼した。さらに、ちゃっかりと「世界青少年の集い」への通行許可証まで入手し、降臨祭の前の週には親類や友人へのお別れもすませていた。それでも、心には大きな不安が残った。

 その日は聖霊降臨祭の金曜日だった。朝の5時半に目を覚ましたシェーンは、妻にささやく。
「5時を回った。やつら来ないよ。気づいてないんだ」「ええ、きっとうまくいくわね」
 いつも政治的な反対分子が連行される時刻が5時なのだという。その頃にはすでに「秘密警察」創設の準備が進んでいた。
 運送屋が午前中に来る手筈になっていたので、家具をそのまま残しての出発である。車には、既に荷物がいっぱい積み込まれていた。息子のシュテファンを後部座席に座らせ、窓辺にはオモチャの船を置いた。ちょうど、降臨祭の休暇をどこかの海辺で過ごすかのように見せかけるためであった。
 途中の丘から、もう一度ドレスデンの町を眺望する。せつない眺めだ。涙が出てきて、長くは見ていられない。・・・どうやら東地域から西ベルリンへ抜けるチェックポイントにたどり着く。通行許可証を提示すると、歩哨が、にべもなく言い放った。
「ダメですね。南を迂回して入っていただかないと」
「なぜ?」
「新しい指令なのです!」
この厳しくなった仕切りの裏には、ある事実が隠されていた。数日前、「世界青少年の集い」を利用して西側に入った東独の若者達が、ショッピングをし、アメリカ映画を見て、そのまま永久に「自由に」なってしまったのである。
 困ったシェーンは、一計を案じる。聖霊降臨祭の東ベルリンで、東地域選抜チームとポーランドのサッカー試合が組まれており、チームは合宿中であった。本来、シェーンは、すでに選抜チーム監督としては用なしの身であったが、その事実は幸いにもまだ公にはなっていない。彼は人民警察に向かってこう切り出した。
「実は、ぼくはヘルムート・シェーンなのだが、合宿中のチームの所へ行かなくてはならないんだ。ここから突っ切ればすぐなのに、今、何キロも迂回して行くわけにはいかないんだよ」
「では、お通り下さい」
 遮断機の棒が上げられた。アクセルを踏んで、しばらく後、シェーンと家族は西側に入って車を止めた。振り返ると、そのずっと向こうに、東側の歩哨が立っていた。
 新たな人生へのスタートである。

 西に移ったシェーンは、さしあたり西ベルリンに腰をおちつけた。彼の後を追うようにDSCの仲間の多くが東から逃がれてきて、ヘルタBSCに加わることになった。リーグ初年度の準優勝チームが、まるごと西側に逃亡したという事実は、東独内ではニュースにもされなかった。
 こうして、旧DSCとヘルタBSCを融合して、新しいクラブを作る試みが成されたのだが、結果は失敗に終わる。サッカークラブというものは、それぞれの地域にしっかりと根を張っており、移し変えのきかないものなのだろう。レギュラーの座をめぐっての嫉妬めいた対立もあり、チームがスムーズに機能しなかったのである。
 ちょうどこの頃、シェーンは現役引退を決意する。持病をかかえた左膝や練習不足もあり、一流のプレーは望めない状態になっていた。それでも、結局は「サッカー」をキーワードに、人生を模索するしかない。彼も、既に30代半ばを過ぎていた。

 西ドイツ中部、フランクフルトにほど近いヴィースバーデンに居を移したシェーンは、地元の小さなクラブの指導を引き受けながら、次のチャンスを待った。旧師の西ドイツ代表監督ヘルベルガーも尽力してくれる。
 そうこうするうち、名門「1.FCケルン」からの監督要請依頼が届き、それと同時に、フランス国境に近いザールラント・サッカー協会からのオファーも舞い込んできた。有名クラブの監督か、あるいは規模は小さくても、協会専属の指導者か・・・。シェーンは、後者を選んだ。人の運命は、ほんとうに分からない。この時、ザールラントを選択したことが、後の大監督シェーンを生む、直接のきっかけとなったのである。

(敬称略、つづく)

BACK NUMBER
PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

NHKテレビ ドイツ語会話

2005年4月号より
『NHKテレビ ドイツ語会話』
にて連載開始

PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて