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SERIES 05 ドイツとドイツサッカー
明石 真和
第5回 遠い国東ドイツ

 2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

友人フォルカーと娘のヘンリエッテ、
犬のアルフレート(2000年)

 ドイツで友人宅に招かれた2003年のクリスマス。おもいがけぬサンタクロースの出現に驚いたイブから、一夜明けたクリスマス当日のことである。ドイツでは、家族や親戚が集まるクリスマスに、ローストしたガチョウを食べる習慣があるそうで、女性達は、台所で昼の準備に大忙しだ。昨夜、サンタのおじさんから、たくさんのプレゼントをもらった小学生のヘンリエッテは、早速、周囲の大人を巻き込んでおもちゃで遊び始めた。さっきまで玄関の隅でおとなしくしていた犬のアルフレートが、今度は居間に現れたかと思うと、ヘンリエッテにつかまり、お人形遊びの相手をさせられている。
「ねえ、アルフレート。これがお姫様で、おまえは番犬よ。ちゃんと見張りをするのよ」何を言われてもアルフレートは、「クーン、クーン」と聞き分けがいい。やがて、友人とその義兄に昼食前の散歩に誘われ、私もでかけることにした。ヘンリエッテの遊び相手にも飽きたのか、アルフレートもついてくる。
 ドイツの村の祝日は、静寂そのものだ。前日から少しだけ降り積もった雪で、あたり一面、白い世界が広がっている。アルフレートはうれしそうに、先頭に立ってスイスイ歩いていく。ときおり、同じように犬を連れて散歩する人々とすれ違い、互いに「楽しいクリスマスを!」と挨拶が交わされる。
 通りの向こうで、ちょうど庭に出ていた、いかにもドイツ人といった風貌のおじさんが、親しげに「よお!」と声をかけてきた。こちらも、みんなで「ハロー」と挨拶する。そのまま角を曲がると、友人が言った。「今の男、知ってるだろ?」「いや!」と答える私に、友人は笑ってこう言った。「昨夜のサンタクロースだよ!」

 このとき、私がクリスマスを過ごしたのは、ドイツ中部・チューリンゲン州の小さな村である。ここは旧東ドイツにあたる地域で、静かな田舎の村を皆で散歩しながら、今、自分がそこに身を置いていることに、とても不思議な縁を感じていた。クリスマスに招いてくれた友人フォルカー・フォクトは、旧東独の出身で、すでに20年という長いつきあいになるからである。

古都エアフルトで「荒城の月」を歌う

 学生時代、西ドイツに留学した私には、その隣国である東ドイツは、興味がありながらも「遠い国」であった。2、3日の旅行でもヴィザ取得がたいへんであり、ましてや長期滞在には特別の許可が必要と聞いていたからだ。
 初めての留学から6年後の1984年、大学院在籍時に、東独での夏季ドイツ語研修に個人的に参加できるという話を聞いた。特別の組織や学会を通さなくても、手続きできるという。半信半疑で申し込むと、ほどなくして主催者であるエアフルト教育大学から招待状が届いた。厳しい身分照会を想定していた私は、拍子抜けしつつも、まだ見ぬ「もうひとつのドイツ」に対する好奇心がより強くなっていくのを感じた。

夏季研修の学生寮(1984年)
左 筆者、中央 フォルカー、右 フィリップ

 チューリンゲン地方の古都エアフルトでの三週間の研修には、15カ国から約100名ほどが集まった。ひとことでいって、毎日が楽しく、時間が飛ぶように過ぎていく、そんな日々であった。すでに西ドイツ留学時代に学生寮の生活を経験し、勝手が分かっていたため、初めての二人部屋にもとまどうことはなかった。部屋の相棒であるアイルランド人も陽気で楽しく、彼を通じてさらに友の輪が広がっていった。出身国を並べると、アイルランド、イタリア、イングランド、オランダ、ギリシャ、スウェーデン、スコットランド、スペイン、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、フランス・・・と、まるでオリンピックである。
 地元の東ドイツからも、世話役として何名かの学生がついてくれた。生活上の細かなアドバイスだけではなく、空き時間には率先して町の案内をしてくれた。郷土料理のレストランに連れていってくれたり、一緒にサッカーをしたり・・・。そんな世話役のひとりがフォルカーであった。
 親しくなったきっかけは、ちょっとした出来事であった。一日の日程を終え、夕食をすませるとみなそれぞれにくつろぎの時間となる。参加者の多くは、学生寮にあるクルップ(クラブ)と呼ばれる集会所に三々五々集まってくる。もちろん、ビールを飲んでひたすら「駄弁る」のだ。これがまた、格好の交流の場となっていく。世話役の学生がバーテンをしてくれるので、研修生も気軽に入っていける雰囲気がある。そうやってお酒を飲みながら、お互いの国の話をするうちに、親しさが増していく。ある日、参加者のひとりで名古屋に留学した経験もあるという日本通のフィリップというフランス人学生が、こんなことを言った。
「日本にいた時、『荒城の月』という歌があると聞いたけど、覚えるチャンスがなかったんだ。知っていたら教えてくれよ」
 その光景を見ていた世話役の東独学生達もおもしろがって、「オレ達にも教えろ!」と言い出した。そこで、私がローマ字で歌詞を書き、歌の手ほどきをした。
「ハルコーローノ・・・」と、音に敏感なドイツ人は、一、二度ですぐ覚えてくれた。その時に、こんなことを言う者がいた。
「意味は全然わからないが、知ってる単語もあるぞ。『ムーカーシーノーヒーカーリー』の、この『ヒカリ』は、列車の名前だろう。ホネッカー(当時の東独書記長)が日本に行った時に乗った電車だよな!」
 この迷解釈を言ったのがフォルカーだった。私が誤りを正すと、みんなが笑った。
「もっと他の歌はないのかい?」とのリクエストが出たので、調子に乗って『炭鉱節』を教えると、まさに拍手喝采になってしまった。歌のリズムと「ア、ヨイヨイ」という合いの手が、なんともいえず楽しいというのだ。この日を境に、一部の研修参加者と関係者の挨拶が、「グーテン・ターク(ドイツ語の「こんにちは」)」から、「ア、ヨイヨイ」に変わった。

フォルカー家の庭でくつろぐ筆者(1984年)

 こんな出来事をきっかけにフォルカーと親しくなり、なにかと誘ってくれるようになった。今日はあっちの部屋で女子学生の誕生パーティーだ、明日はキューバ人留学生を囲んでコンパだ・・・。果ては、研修最後の週末を自分の田舎で過ごすよう取り計らってくれ、十数カ国二十名ほどがフォルカーの村にお世話になった。村の親戚や知人を動員して世界各国の研修生を分宿させ、夜は村のビール祭りに飛び入りで盛り上がる。それぞれの国の歌を披露しあおうと誰かが言い出すと、すぐに手拍子になる。いいかげん酔ったところに私の番がまわってくると、私が言い出す間もなく、「ヤーパン、ヤーパン(Japan、ドイツ語で「日本」の意)」と大拍手が起こり、皆が勝手に「ツキガー、デタデタ・・・」と歌い始めた。楽しい東ドイツの村祭りであった。
 エアフルトにもどり、研修生もそれぞれの国へ帰って行き、駅ではそれぞれがそれぞれに別れを惜しむ光景が見うけられた。私はといえば、もうしばらくドイツにとどまるのを知っているフォルカーが、再び村に招いてくれた。
 東独の田舎。牛がいて、そこここをにわとりが走り回っている。畑で掘ったダイコンをそのままかじる。垣根越しに「よお、元気かい?」と挨拶しあう。むかし、たしかに日本の田舎にあった風景をドイツでなつかしく味わっていた。西ドイツを昭和60年前後の日本とすれば、東のそれは昭和30年代の感があった。

「西側の外国へは行けないんだ」

 近所の居酒屋に入ると、「日本から来たのか?」と珍しがられ、常連客からそれぞれに薬草酒とビールをおごられる。「このあたりでは、薬草酒とビールを一緒に飲むんだ。おごられたら飲み干さなくては駄目だぞ」というフォルカーのことばに乗せられ、初めて泥酔した。こうして数日間楽しく遊ばせてもらい、帰る日が来た。
「日本にもいつか来いよ!」
「そうしたいけどな。今の国の状態じゃ、あと何十年もして年金生活にならないと西側の外国へは行けないんだ」
 たとえ年金生活に入ったとしても、西と東の貨幣価値では、それが遠い夢であることは分かっていた。と同時に、私は国の体制やイデオロギーとは別な意味で、東ドイツにひかれていた。かつて日本にもあったはずのやさしい人間関係がたしかに存在していたからだ。国は西側に比べ貧しくとも、こころゆたかな素朴なやさしさが、そのままそこに残っていたからだ。
 父親から借りてきたという東独の国産車トラバントで、フォルカーは東西ドイツ国境まで見送ってくれた。
「悪いけどここまでだ。ここから先へ行くと、手が後ろに回ってしまうからな」
 小さな国境の検問所から小さなバスが西ドイツに向かって出発する。外国人の私を除くと、乗客は皆、東西に隔てられた身内を訪ねることを許された年金生活のお年寄りであった。ふりむくとフォルカーとその家族はいつまでもこっちに向かって手を振ってくれている。「東ドイツにもひとり友達ができたと思ってもかまわないだろう・・・」、そんなことを考えているうち、いつのまにか西ドイツに入っていた。

輝かしいオリンピックの戦績

チューリンゲン州、
旧東独の町ヴェルニゲローデ

 その頃の東ドイツのスポーツやサッカーは、どんな状況にあったのだろうか。当然のことながら、社会主義の国東ドイツでは、プロ選手は存在しない。全国から運動能力のある少年少女が選抜され、特定の競技種目について集中トレーニングを受ける。1970年代~80年代、オリンピックの檜舞台における東ドイツの躍進を思い出す方も大勢いるであろう。
 当時の東ベルリンで、偶然出くわした光景を思いだす。日本でいえば小学校から中学校にあたる年齢の子供達が、運動着に身をつつみ、どこかの学校のグラウンドに集まっている。大規模な子供スポーツ大会といった趣だ。フォルカーに聞くと、「それは、全国から集められた運動神経の良い子供達だ。未来の金メダル候補だよ」と言う。彼らは、文字どおり「金の卵」なのであった。
 オリンピックで東ドイツ選手が活躍できた理由のひとつは、幼いころからエリート選手を選抜し、育成したそのシステムにあった。理詰めのドイツ人が、体育学や医学の理論をもとに、長期的展望に立って選手を育てるとどうなるか。その成果を、東独スポーツは世界に示してくれたともいえよう。東独のお家芸ともいえる水泳や陸上は、ある意味で時計がライバルともいえる競技であり、数字好きのドイツ人にとっては、育成計画や達成目標の設定はお手のものであったろう。
 スポーツを通じて世界にその力をアピールしてきた東ドイツは、オリンピックのサッカーでも素晴らしい成績を残した。1972年ミュンヘン大会で銅メダル、1976年モントリオール大会では金メダル、1980年モスクワ大会で銀メダルと、3大会連続で上位入賞を果たしている。

東西分裂時代のサッカー

 1974年1月のことである。衝撃的なニュースが世界をかけめぐった。この年の6~7月にかけて、西ドイツを舞台に開催される第10回サッカーワールドカップ(W杯)本大会の組分け抽選会がフランクフルトで行われ、クジを引いた11歳のドイツ少年デトレフ・ランゲ君が、なんと1次リーグの同じグループに、東西ドイツの対戦を引き当ててしまったのだ。
「世界中の政治家や外交官が、何年にもわたって出来なかったことを、11歳の少年がいとも簡単に成し遂げてしまった」こう報道したマスコミもあるという。
 こうして、東西ドイツのサッカー代表は、1974年6月22日、ハンブルクで初対戦したのである。結果は、1対0で東ドイツの勝利であった。敗れた西ドイツは、その時点からチームを建て直し、2次リーグで復調し、最後には優勝を飾った。
 東ドイツが、予選を勝ち抜いてW杯に出場したのは、この1974年大会が、最初にして最後である。また、東西両ドイツの対決も、この時の一回きりで、その後は行われなかった。再統一が成された今となっては、冷戦時代のひとコマとして、語り継がれていくであろう。
 ふりかえってみれば、戦後異なる二つの国として再出発した東西ドイツは、それぞれにサッカー協会を設立し、独自の道を歩んできたことになる。代表チームはともかく、クラブレベルでは、ヨーロッパチャンピオンズカップ等の対抗戦で、東西チームの対戦が何度も行われた。時に東のチームが勝利することはあっても、ホーム&アウェイのトータル結果で次のラウンドに進むのは、たいていの場合、西ドイツのチームであった。当時、世界の頂点にあるといわれたプロリーグ(ブンデスリーガ)をもち、名選手を多数輩出していた西ドイツ(とそのクラブ)のプロには、さすがに一日の長があったということであろう。それでも、東の栄光が消えることはない。東西ドイツが残した偉大な記録を列挙しておく。

    西ドイツ   東ドイツ
1966年 ワールドカップ準優勝  
1970年 ワールドカップ3位  
1972年 ヨーロッパ選手権優勝 ミュンヘン・オリンピック3位
1974年 ワールドカップ優勝 ワールドカップベスト8
1976年 ヨーロッパ選手権準優勝 モントリオール・オリンピック優勝
1980年 ヨーロッパ選手権優勝 モスクワ・オリンピック2位
1982年 ワールドカップ準優勝  
1986年 ワールドカップ準優勝  
1988年 ソウル・オリンピック3位  
1990年 ワールドカップ優勝  

※国名については、正式名称ドイツ連邦共和国を西ドイツ、ドイツ民主共和国を東ドイツと略した。
※また、本来は、旧西ドイツ、旧東ドイツとするところを、煩瑣になるのを避けるため、西ドイツ、東ドイツとした。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

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