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SERIES 05 ドイツとドイツサッカー
明石 真和
第4回 "南北対抗"とFCバイエルン

 2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。

真面目な北部、自由な南部

ミュンヘン市庁舎

 かつてのドイツには、日本の戦国時代や江戸時代のように各地に多くの小国があり、それぞれに君主がいた。プロイセン(英語でプロシア)を一大強国にしたフリードリヒ大王、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルともいわれるノイシュヴァンシュタイン城を造らせたバイエルンのルートヴィヒⅡ世などは、ドイツ文化やドイツの歴史に興味をもつ人なら一度は耳にしたことのある名前であろう。
 現在「ドイツ連邦共和国」と呼ばれるこの国の領土は、「神聖ローマ帝国」といわれた時代から今日まで、随分と変遷をかさねている。神聖ローマ帝国は、10世紀にはヨーロッパ中央部の広大な地域にまたがる国であったが、その末期にはかなり範囲が狭められ、1806年の消滅時の地図を見ると、ほとんど現在のドイツ、オーストリアにベルギーとチェコの一部を加えた程度に過ぎない。一時は300ほどもあった国内の小国は、時代の流れの中で次第に数を減らし、この時代には30余りになっていたといわれる。
 こうした流れの中、北ドイツに起こった新興勢力がプロイセンである。プロイセンは、もう一方の雄であるオーストリアとの戦いを制した後、1871年に宰相ビスマルクの力により、南ドイツ諸国と北ドイツ諸国の統一を果たし、ドイツ帝国が誕生した。イギリスやフランスが、ロンドンやパリを中心に、いち早く全体的な国家を作り上げたのとは対照的に、「ドイツ」は、ヨーロッパの中では後進国であった。そのため、アジアやアフリカでの植民地獲得競争にも遅れをとり、それが直接的、間接的に、第一次と第二次の世界大戦につながっていった。
 二度の敗戦を経て東西に分裂したドイツは、1990年に再統一を果たし、かつてのプロイセンの都ベルリンも、あらためて国の首都としての整備が進んでいる。そんなドイツだが、決してベルリン中心の中央集権国家になったわけではなく、今なお地方色の濃い国であることに変わりはない。国内では国籍を示す「ドイツ人」という言い方とともに、出身地別に「ベルリン人」、「ハンブルク人」、「ミュンヘン人」といった呼び方をすることが多い。
 日本では、関東と関西が大きな文化圏として存在し、例えばプロ野球の巨人と阪神のように、東京と大阪の強いライバル意識がしばしば冗談めかして語られるが、同じような図式をドイツに求めるとすれば、さしずめ北部ドイツ(プロイセン)と南部ドイツ(バイエルン)の対抗意識ということになるだろう。
 私は、北部ドイツのルール工業地帯にあるボーフム市と、南部ドイツのバイエルン州ミュンヘン市にそれぞれ一年間暮らしたことがある。堅実で合理的というドイツ人一般の特性は南北で共通しているものの、今なお北部では「実直、几帳面、真面目、徹底主義、完全主義、時間厳守」といった昔のプロイセンのイメージを色濃く感じることが多い。それに対し、ドイツの中でも特に郷土意識の強い南部バイエルンでは、「オレ達はドイツではない。プロイセンとは違うんだ。自由国家バイエルンだ!」と胸をはる人によく出会う。
 たとえば、挨拶の言葉ひとつとっても、北と南では表現が異なっている。我々日本人が、ドイツ語を習う時に、真っ先におぼえるGuten Tag(グーテン・ターク、こんにちは)という挨拶は、実は北部の言い方であり、これがバイエルンに入ると Grűß Gott(グリュース・ゴット)という表現になる。「所変われば、品変わる」という日本の諺は、まさにドイツにこそ当てはまるであろう。

ミュンヘン1860応援席

 サッカー界では、先ずチームの命名からして地方色がうかがえる。北部の強豪にボルシア・ドルトムントやボルシア・メンヘングラットバッハ(ボルシアMG)というチームがある。この「ボルシア」という名称は、「プロイセンを象徴する女人像」の名に由来するもので、武骨なサッカーチームに優雅な名前を冠しての命名となっている。また、南にはご存じFCバイエルン、あるいはミュンヘン1860といったチームがあり、ドイツのサッカーでは、南北ともに町や地域の名前(雅称)がチーム名としてそのまま使用されていることがわかる。企業名を前面に押し出した上に、さらにタイガースやジャイアンツといったマスコット的な愛称を付けている日本のプロ野球とは大いに異なっており、この点からすれば、アメリカの強い影響を受けたプロ野球よりも、むしろアマチュア野球で使われる「都市対抗」という言葉のほうが、ドイツ・サッカーのイメージには近いかもしれない。
 北部ドイツには、前述の両ボルシアをはじめ、ヴェルダー・ブレーメン、ハンブルクSV、ヘルタ・ベルリン、一方、南部にはミュンヘン以外にも、FCニュルンベルク、VfBシュトゥットガルト、FCフライブルクといったチームが存在するので、チーム名と所在地を地図上で確認するだけで、そのままちょっとしたドイツ旅行の気分にひたれるであろう。
 最近は、以前にも増してサッカー界のビジネス化が加速しているため、有望選手のスカウト合戦や移籍もますます盛んになっている。当然のことながら、期待の若手選手が必ずしも地元のチームでプレーするとは限らない時代ではあるが、ファンの大半は選手の出身地にかかわらず常に地元チームに熱い声援を送っており、この点は昔も今もまったく変わっていない。

住みたい町ナンバーワン、ミュンヘン

 南ドイツ・バイエルン州の州都であるミュンヘンは、ドイツ人にも人気の高い町だ。以前ドイツで「あなたの住みたい町ナンバーワンはどこですか?」というアンケート調査を行ったところ、ミュンヘンが一番であったという話を聞いた。
 大都会のわりにのんびりしており、人々の表情もやわらかく、ひとなつっこい。ドイツ人のよく使う言葉に Gastfreundlichkeit(ガストフロイントリッヒカイト、「お客様をあたたかくもてなす気持ち」の意)という単語があるのだが、ミュンヘンに代表されるバイエルン地方では、住民の天性の陽気さもあってか、ドイツのどこにもましてこの気風を実感することが多い。
 ミュンヘンからは、晴れた日にはアルプスも望め、オーストリアとの国境も近いので、オーバーバイエルン(上部バイエルン)と呼ばれる南の地域を、一日ドライブして回るコースは、観光客の人気スポットにもなっている。
 歴代のバイエルン王が築いたリンダーホーフ、ホーエンシュヴァンガウ、ノイシュヴァンシュタインといったお城や別荘、エッタル修道院、それにユネスコ世界遺産に登録されている草原の中のヴィース教会といった名所旧跡を辿り、ついでにオーストリアに一歩踏み入れて、またすぐドイツに引き返す。国境が地続きで接しているヨーロッパならではの醍醐味である。
 ドイツ・オーストリア国境は、今ではパスポート検査もなく、フリーで行き来できるし、周辺には、1936年冬季オリンピックの開催されたガルミッシュ、ヴァイオリン作りで有名なミッテンヴァルト、20年に一度、村民が自ら演じる「受難劇」で知られるオーバーアマガウなど、いかにもバイエルンらしい小さな町が点在しており、おすすめのコースといえよう。
 バイエルンはもともと王国で、精神的、文化的にはプロイセン風の北部ドイツより、むしろ隣国オーストリアに近い雰囲気がある。ビスマルクの時代、オーストリアをも含んだ「大ドイツ」として統一するか、あるいはオーストリアを除いた「小ドイツ」とするかでさまざまな駆け引きや議論があったそうだ。結果は、歴史が示すとおり「小ドイツ」でまとまったわけだが、もしこの時に、バイエルンがドイツ帝国に加わらず、オーストリアとひとつになっていたら、その後のドイツ史やサッカー史も大分変わったものになっていたことであろう。

オリヴァー・カーン選手と筆者

 第二次世界大戦終了時にも、戦後のドイツ処理をめぐって、時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルが、ドイツの南北分割論を提案したと言われており、いつの時代でも北と南の対立する図式は変わらない。

南部の雄FCバイエルンの始まり

 第二次世界大戦前から、ドイツ・サッカーは、それぞれの地域リーグでの優勝チームが、全国選手権を争ってチャンピオンを決める仕組みになっていた。それが、1963年に全ドイツ(当時は西ドイツ)を統括するブンデスリーガが開始され、個々のチームが地域を越えて直接ぶつかりあうようになったため、各都市の強烈なライバル意識が、より一層過熱する結果となった。特に北と南は、1970年代のボルシアMG対FCバイエルン、80年代のブレーメン対FCバイエルン、90年代のボルシア・ドルトムント対FCバイエルン・・・といった具合に、常に優勝候補同士がしのぎを削り、ドイツ・サッカーの「南北戦争」ともいえる熱い戦いを繰り広げてきた。
 このような切磋琢磨を経て、世界でも屈指のリーグに成長したブンデスリーガで常に北部諸チームの挑戦を受け続けてきたのが、ミュンヘンに本拠地を置くFCバイエルンだ。頭文字をとってFCB(エフ・ツェー・ベー)と呼ばれることもある。2002年日韓共同開催のワールドカップ大会で、ドイツ決勝進出の立役者となり、最優秀選手に選ばれたオリヴァー・カーン選手の所属チームである。
 FCBの創立は、1900年2月27日。第二次世界大戦前に、一度だけドイツ・チャンピオンになったことがあるが、その後めだった活躍はなく、古豪ではあるものの、国のトップレベルを維持し続けていたわけではなかった。1963年に全国的なブンデスリーガが始まった際も、基本的に1都市から1クラブという原則が適用されたため、同じ町のライバルチームであるミュンヘン1860の後塵を拝してしまい、ブンデスリーガ入りはならなかった。

 我が日本でも、ドイツに遅れること30年後プロリーグ(Jリーグ)が結成された際、創設時の加入チームをめぐって大議論が巻き起こったことは記憶に新しい。現在J-1で活躍するジュビロ磐田や柏レイソルといったチームでさえ、当初はJリーグ入りがかなわず、がっかりしたファンも多かったことだろう。
 1993年当時、Jリーグを目標にチーム強化をすすめていたその柏レイソルに、ヴェルナー・オルクというドイツ人コーチがいた。知る人ぞ知る、この人こそ1960年代のFCBでキャプテンを務めた人物だ。当時、私はドイツのサッカーに関する取材で、何度かオルクコーチを千葉県柏市のレイソル練習場に訪ね、お話を伺ったことがある。そんな話の折に、「オルクさん、Jリーグに入る競争は厳しそうですね?」と尋ねてみた。彼はこう答えた。
「そりゃ厳しいさ。でも、FCバイエルンでブンデスリーガを目指していたころの競争は、こんなものじゃなかった。もっともっときつかったよ。」

 創設時のブンデスリーガ加入を逃すというハンディをおったFCBだが、有望な若手選手を鍛えつつ、虎視眈々とリーグ入りを狙った。そして2年後の1965年、苛酷な這い上がり戦に勝利し、ついにブンデスリーガ入りを果たすのである。その中核を担ったのがキャプテンのオルクであり、ゼップ・マイヤー、フランツ・ベッケンバウアー、それにゲルト・ミュラーといった期待の若手達であった。
 ブンデスリーガに加わった初年度(1965-66シーズン)に、いきなり3位という好成績をおさめ、この時期を境に真の意味での躍進の歴史が始まっていく。次第に地力をつけたチームは、1970年代に入ると飛躍的な成長を遂げるのである。ブンデスリーガで3連覇し、欧州チャンピオンズカップ(現在の欧州チャンピオンズリーグの前身)でも3連覇、さらに世界クラブカップ(現トヨタ・カップ)も勝ち取り、ヨーロッパレベルを越えて、世界的なクラブへと駆け上がって行った。
 主力選手のベッケンバウアーやミュラーは、ドイツ代表チームでも活躍し、1974年には自国開催のワールドカップも制した。ホームグラウンドのミュンヘン・オリンピックスタジアムで行われた決勝は、ヨハン・クライフ率いる優勝候補筆頭のオランダに先制点を許したものの、最後はミュラーのゴールで逆点し、オランダの猛攻をベッケンバウアーやマイヤーの好プレーでしのぎきった。この1974年の決勝戦は、日本で初めて生中継されたワールドカップのゲームであり、ある年齢層のサッカーファンなら、当時の東京12チャンネル(現テレビ東京)による実況をワクワクしながら見守った記憶がおありだろう。
 当時のFCBからは、次の6人が常時西ドイツ代表レギュラーとして出場していた。ゼップ・マイヤー(ひょうきんな仕草で人気のある名ゴールキーパー)、フランツ・ベッケンバウアー(チームの中心で、守備も攻撃も抜群のスーパースター)、パウル・ブライトナー(サイドバックのポジションから盛んに攻撃に参加する個性派)、ゲオルク・シュヴァルツェンベック(ベッケンバウアーと抜群のコンビで、敵フォワードを止める長身ストッパー)、ウリ・ヘーネス(中盤のダイナモ。スピードとテクニックに優れたチャンスメーカー)、ゲルト・ミュラー(「国の爆撃機」と名付けられた稀代のゴールゲッター)
 名ゴールキーパーに守備の要、チャンスメーカーに得点王…、これだけの主軸選手が、そのまま国の代表になっていたわけだから、なるほど強かったこともうなずける。
 FCBは、その後も、カール・ハインツ・ルムメニゲ、ローター・マテウス、シュテファン・エッフェンベルク、オリヴァー・カーン…といった名選手を輩出し、屈指の強豪の座を維持しているのは周知の通りである。

お勧めスポット、FCBクラブハウス

ゲルト・ミュラー氏-バイエルン練習場にて

 飛行機にせよ鉄道にせよ、ミュンヘンを目指す観光客の大半は、とにかく中央駅にたどり着く。もし、あなたが単なる観光客でなくFCバイエルンのクラブハウスを訪れたいと思っているサッカーファンであったら、この駅から出ている地下鉄U1を使うのが一番早くて、しかも安上がりだ。
 U1の一方の終点であるMangfallplatz(マングファル広場)方面行きに乗り、5つ目の駅 Wettersteinplatz(ヴェッターシュタイン広場)か、6つ目の駅 St.-Quirin-Platz(ザンクト・クヴィーリン広場)か、あるいは7つ目(終点)の Mangfallplatz(マングファル広場)で下車する。
 地図で見ると、FCBのクラブハウスがある Säbener Straße(ゼーベナー通り)は、この3つの駅からはほとんど等距離にあり、どこで下車しても同じようなものだが、経験に従えば終点のマングファル広場がおすすめである。
 ザンクト・クヴィーリン広場からでは、道のりが複雑で分かりにくいという難点があるし、ヴェッターシュタイン広場からは、軽い上り坂になる。その点、マングファル広場なら、地下鉄を降り、大通りに沿ってほんの2、3分歩くだけでゼーベナー通りにぶつかるし、そこから先はゆるやかな下り坂になっているため、歩くにも楽である。
 瀟洒な家の立ち並ぶ静かな住宅街に、あの世界的に有名なクラブが本当にあるのだろうか? 誰でも勝手に入れるのだろうか?・・・初めてここのクラブハウスを訪れる人は、たいていそう思うに違いない。それほど静寂に包まれた一画である。右手の教会を過ぎると、もうすぐその先にグラウンドが見えてくる。すでに人だかりがしているのは、一軍の練習が始まっているからであろうか。私も、何度、このゼーベナー通りをワクワクした期待感とドキドキした緊張感とが入り混じった気持ちで歩いたことだろう。
 ここを訪れるファンの行動パターンは、たいてい同じである。先ずグッズショップで買い物をし、練習を見ながらグラウンド脇のレストランで軽食をとり、練習終了後は選手にサインをねだる。選手も時間の許す限りファンの要求に応じてくれ、写真にサインにと気前がいい。中には一人で5枚も6枚もサインを求める者もいる。
 一軍が練習するメイングラウンドの先には、芝生に覆われた広大な敷地が広がり、将来のスターを夢見る若手のアマチュア選手が汗を流している。そして、それをやさしく見守るひとりのコーチの姿。世界の得点王ゲルト・ミュラーだ。毎度のことながら、私はここを訪れると、いつも一軍の練習よりも、先ずアマチュア・チームを探すのを常としていた。何度も通い慣れ、顔見知りになるうちに、ゲルト・ミュラー自身が、私を見つけるたびに手を挙げて挨拶してくれるようになった。時には練習そっちのけで立ち話につきあってくれたこともある。中学・高校時代、テレビでミュラーのゴールシーンを見るたび、翌日のグラウンドで仲間とそのシュートの真似をし、いわば「ゲルト・ミュラーごっこ」をしていた私などには、まさに至福の瞬間だった。
 トップチームの練習では、いつもゴールキーパーのカーンが、真っ先に姿を現し、必ずキーパーコーチのマイヤーが影のように付き添っている。明るいひょうきん者で、人を笑わすことが大好きなマイヤーは、現役時代と変わらぬ人気者だ。このほか、クラブのトップであるベッケンバウアー会長をはじめ、理事長ルムメニゲ、副理事でゼネラル・マネージャーのウリ・ヘーネス・・・と、かつてのスター達が要職についている。彼らはドイツ人らしく、時には自説を展開して激しく意見を戦わすこともあるが、組織の利益のため、チームワークよく運営を行っている。
 ある秋の日、クラブハウス前に一台の物品納入のバンが止まった。荷物を抱えて降りてきたのは、これも当時の名選手で、「鉄の男」と呼ばれたゲオルク・シュヴァルツェンベックであった。FCBが日本遠征を行った際、日本の誇るゴールゲッター釜本をマークしたストッパーである。現役引退後、おばさんが経営する文房具屋を引き継ぎ、店の主人におさまっているという。FCB関係の文房具は、彼の店に注文がいくのであろう。まさに、すべてに堅実なドイツらしい生き方の見本ともいえる。
 当時のスターのうち、毒舌でならしたパウル・ブライトナーだけは、チームとは別にテレビやマスコミで活躍しているが、こうして1974年当時のワールドチャンピオン達が、次世代のクラブと選手とファンのためにサッカーに携わっている姿は、なんとなく家族的で、ほほえましい気持ちにさせてくれる。
 オランダの生んだスーパースター、ヨハン・クライフが、あるインタビューで「ベッケンバウアーやルムメニゲといった、サッカーに精通している人物が、クラブ運営をしているFCバイエルンは、まことにうらやましい」と語っていたが、現場を見ているとそのまま納得がいく。サッカーに興味のある方なら、ミュンヘン旅行の際には、FCBのクラブ訪問をぜひ日程に組み入れることをおすすめする。

厳しい冬の到来、ドイツのクリスマス

エッタルの修道院

 ドイツの冬は寒い。学生時代に留学した1978年など、「欧州100年来の寒波」というわけで、マイナス30度を記録した日もあった。どんな悪天候でも試合を行うというのがサッカーの鉄則ではあるが、あまりにひどい降雪ではプレーどころではないし、ましてや観客も集まらない。いつしか、ドイツではクリスマス前の12月中旬から翌年1月下旬までを、冬休み(中休み)にするという習慣ができあがった。この中休みがあるからこそ、2004年の今年、ドイツ代表がアジア遠征を行い、日本代表とも試合が組めるというわけである。
 8月のシーズン開幕から12月までの前半終了時で、トップに立っているチームには慣例的に Herbstmeister(ヘルプスト・マイスター/秋のチャンピオン)の称号が与えられる。特別な表彰があるわけではないが、この「秋のチャンピオン」は、そのままシーズンを通して好成績をおさめることが多いので、ファンの目からもひとつのバロメーターになっている。こうして、激しい戦いが一段落し、選手もファンもひと息つく頃、ドイツの一年のハイライト「クリスマス」の季節がやってくる。

 12月に入ると、北部、南部に限らず、全ドイツ的にいよいよ厳しい冬が到来する。暦の上では12月22日が冬の始まりとされるらしいのだが、気象学者の中には、12月1日こそ「冬の入り」と頑固に主張する人もいるようで、やはりドイツ人は議論好きだと思ってしまう。
 ともあれ、この時季になると灰色の空が町をおおい、その空の色と反比例するように人々の動きが活発になっていく。市庁舎の前には、大きなモミの木が植えられ、市が立ち始める。みやげ物屋に並んでいた絵ハガキも「衣替え」し、雪景色のものが増えてくる。厚手のオーバーコートが目立つようになり、道行く人々の挨拶が白い息とともに交わされ、郵便局に「カードはお早めに」という張り紙が出されると、いよいよクリスマスだなあ、と実感する。日もめっきり短くなり、朝8時でもまだ薄暗く、夕方は4時を過ぎるともう真っ暗になる。風が吹いて粉雪が舞うと、街灯のオレンジ色がやわらかく霞み、冬のムードたっぷりである。
 そういえば、ドイツで知り合ったフィンランドの友人がこんなことを言っていた。「ドイツよりフィンランドのほうがもっと寒い。でもいくら寒くても風がなければなんのことはない。ドイツだろうがフィンランドだろうが、マイナス20度でも30度でも、それなりにしのげるんだ。ただ、寒中にちょっとでも風が吹き始めたら、どの国にいようとだめだ。マイナス2、3度でも凍えてしまう」と。真冬でもサウナ小屋から出て薄氷の張った湖に飛び込むほど寒さに強いフィンランド人でさえこうである。私も冬場に氷点下のサッカー観戦を経験したことがあるが、風の吹く日は底冷えがして泣きたくなるほどつらかった。「プレーしている選手もたいへんだろうな」と、変な同情までした記憶がある。
 ところが、そんな極寒の日でも、帰宅して一歩部屋に入ると、まったくの別世界である。セントラルヒーティングなどの防寒対策が徹底しているドイツの住まいは本当に暖かく、真冬でもTシャツ1枚で平気なのだ。寒波の冬、倹約家のドイツの主婦が「今年は暖房費がかかって・・・」とこぼしていたのを思い出す。

ミュンヘンのシンボル
フラウエン教会

 そんな寒さのドイツだが、オーバーコートを着て、そぞろ歩くクリスマスシーズンの冬の町には独特の風情がある。クリスマスの市場では、同じバイエルン州にあるニュルンベルクが有名で、その規模はドイツ最大と聞く。
 そのニュルンベルクほどではないにせよ、ミュンヘンでも、歩行者天国となっている町の中心部にクリスマスの市場がオープンする。ミュンヘン市のシンボルであるフラウエン教会から市庁舎にかけての一帯が小屋であふれ、教会の塔や広場に面した建物の上の窓から見下ろすと、マッチ箱を並べたおもちゃの世界のようである。暗いドイツの冬に、小屋の縞模様の屋根とオレンジ色の灯りが、あたたかなアクセントになっている。
 ツリーに飾るデコレーションを扱う店が何十軒となく立ち並び、それに混じって、温かいワイン、焼き栗(マロニ)、木の実菓子、クッキー、ソーセージ等を売る店から、いい匂いが漂ってくる。日本の夏の花火大会の夜店、あるいは暮れから正月にかけての浅草、仲見世の賑わいを思い出す。売る物は違っても、雑踏や暮れ方の印象はいずこも同じ。人間の営みなんて、どこでもそんなには変わらないのかもしれない。
 ツリーの飾りつけは、丸型、ひし形、星型など、さまざまな形のものが小屋の天井から吊るされ、金色に塗られたものが多いため、キラキラと輝いては、道行く人の興味をひきつける。大きな飾り、小さな飾り、サンタクロースやトナカイをかたどったもの、木の皮にビーズをちりばめたもの・・・、人それぞれが、自分の好みと必要に応じて、「2個ください!」「私には5個!」と購入していく。

クリスマスの市場

 店をひやかす私の隣で、ツリーに使う飾り付けの小物を物色していた修道女のおばあさんが、「これ、きれいでしょう。ねえ!」と、小さな鐘の形をしたデコレーションを手にとって私に見せてくれた。「そうですね」と答えながら、「この方は、どこで、どんなふうにその日を祝うのだろう・・・」とそんなことを考えていた。もうじきクリスマスという、ある冬の日である。

「一年を通じて、ドイツでいちばん好きな季節はいつですか?」こう聞かれると、私は必ず「ドイツの冬。クリスマスの時季です。」と答える。遠い昔の学生時代、初めての留学時に、ドイツの友人の家庭でクリスマスから新年までお世話になった。生涯でも幾度・・・と数えられるほど感動した日々であった。今なお、その時のひとつひとつの出来事や心の躍動をはっきりと思い出すことができる。
「ドイツのクリスマスは、日本のお正月のように、家族で静かに祝うお休み。だから、旅人や異邦人は孤独を感じることが多い」とは、よく聞くことばである。だからこそ、ドイツの家庭に招かれた時は本当にうれしかった。
 教員となって留学した昨年度(2003年)にも、また別の友人が招いてくれたので、25年ぶりに2度目の「ドイツのクリスマス」を味わうという幸運に恵まれた。さすがに学生時代のような心の躍動感はなかったが、独特の落ち着いた雰囲気を楽しむことができ、そのような親しい友の存在を、しみじみありがたいと感じた。
 この友人宅のクリスマスでは、おもしろい経験をした。日本では、お正月の雑煮の作り方がそれぞれの家庭で違うという話をよく耳にするが、ドイツでも、クリスマスになると、奥さんと旦那さんの、どちらに合わせた家庭料理を作るかで大きな問題になるというのだ。友人は、「毎年、口げんかになるんだ。でも、今回は、両方の親戚を招いているから、クリスマス料理も2通り作ったよ」と言って笑っていた。

サンタさんとヘンリエッテちゃん

 また、このたびのクリスマスでは、友人にヘンリエッテという名の小さな娘さんがいたため、とても珍しい体験もできた。
 12月24日、クリスマス・イブである。夕刻から、ヘンリエッテがソワソワソワソワし始めた。「早く来ないかな。早く来ないかな。」・・・周囲の親類の大人達も、「お行儀よくしていないと、来てくれないかも・・・」とからかっている。そこへ、玄関の呼び鈴が鳴って・・・。「うわぁ!」とヘンリエッテの声がする。赤い服、白いお髭で、大きな袋を背負ったサンタクロースが、本当に入って来たのだ。
「さあ、今年一年、いい子にしていたかな?」と聞くサンタクロース。目をまんまるくして見つめるヘンリエッテ。かくして、家族全員に贈り物をもってきたサンタのおじさんは、お客で招かれていた私にまでプレゼントをくれて、そのままどこかに去っていった。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

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