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SERIES 05 ドイツとドイツサッカー
明石 真和
第1回 ギリシャに奇跡をもたらせた男 ― オットー・レーハーゲル

 2006年にワールドカップが開かれるドイツ。過去に3回の優勝を誇るドイツサッカーの本質とは何か。ドイツに詳しい、自他共に“サッカーマニア”と認める明石真和氏が現地での体験をまじえ、ドイツとドイツサッカーについて連載する。第1回は、ユー ロ2004でギリシャを奇跡の優勝に導いたドイツ人、オットー・レーハーゲルとその周辺について。

 2004年サッカーヨーロッパ選手権は、おおかたの予想をくつがえしてギリシャが初優勝を飾った。勝利の瞬間、飛び上がって喜ぶレーハーゲル監督の姿がテレビの画面に写し出され、8月にアテネオリンピック開催をひかえていることもあり、ギリシャ国中は熱狂の渦に飲み込まれたようだった。
 オットー・レーハーゲル・・・ドイツのサッカーに精通した人なら、すぐ「ああ、あの監督!」と気づくだろう。1980年代、ドイツのプロリーグであるブンデスリーガの2部から1部に舞い戻ったばかりの名門ヴェルダー・ブレーメンを率い、スター選手の少ない地味なこのチームをブンデスリーガで毎年のように優勝争いをするほどの強豪に育て上げた名伯楽だ。ブレーメンは、当時、日本人初のプロとなった奥寺康彦選手が所属していたことから我が国でもおなじみのチームである。

オットー・レーハーゲル(中央)

 ギリシャの躍進とは反対に、今回のユーロ2004では、これまでサッカー強国と言われてきた国々の不振も目立った。特にドイツはふがいない戦いぶりで、責任を感じてフェラー監督が辞任。後任もなかなか決まらず、地元開催2006年ワールドカップ(W杯)に向け、緊急事態で赤信号の点滅している感がある。結局、8月1日になって新監督に元代表選手のユルゲン・クリンスマンが就任した。しかし、一時は、ドイツサッカー連盟(DFB)が、これまでにない高年俸で、オットー・レーハーゲルに代表監督就任を打診したというニュースも流れてきた。
 それほどの男がなぜ、祖国を離れてギリシャを率いるようになったのだろうか。ギリシャ番狂わせ優勝の仕掛け人となったこのドイツ人監督とはいったいどういう男なのか。

炭鉱町のペンキ屋さん

 オットー・レーハーゲルは、1938年8月9日、ドイツ西部のエッセン市に生まれた。
「親父は炭鉱夫だった。オレはルール工業地帯の出身だ。戦争の中で成長した。1943年、エッセンの町が大空襲でやられた時、オレは5歳だった。親父は防空壕にいて、運よく助かった。戦後は、何週間もまともな食べ物が口に入らないこともあった。つらい時代を体験したよ」
 母親の腕に抱かれた5歳の少年。頭上には爆弾を搭載した連合軍の飛行機。絶え間なく鳴り響くサイレン。エッセン市の大空襲では、8万人が家を失ったといわれる。ドイツ降伏の直前、ルール地方にはすでにアメリカ軍がやってきていた。ジープを乗り回し、電線ケーブルを敷設し、標識を立て、チューインガムを配っていた。
 戦争が終わって5年後の1950年、父親が病気で亡くなった。この時オットー少年は、まだ12歳だった。レーハーゲルは語る。
「瓦礫や飢えや貧乏から抜け出す道はただひとつ。サッカーだけだった」
 当時のドイツには、まだプロ組織は存在しておらず、サッカーによって生活の糧が得られる時代ではなかった。つまり、オットーにとってのサッカーは、裕福になるための手段というより、むしろ心の支えであったのだろう。彼を知る多くの人が、その特質に「野心的で、頑張り屋である」点を挙げているが、幼時期の境遇と無関係ではないと思われる。
「戦後のオレたちは、なんでも闘い取らなくてはならなかった。今の子たちは、戦後のオレたちがボロ布を詰めて丸めただけのボールで遊んでいたなんて言ったら、笑うだろうな。今とは育ち方が違うんだ。今ははるかに楽になっている。オレたちは、授業の前も放課後も、とにかく狂ったようにサッカーだけだった」
 と、語っているレーハーゲルだが、もちろんサッカーは遊びであり、戦後の厳しい経済状況のなかで生きて行くにはなんらかの仕事に就かなくてならない。

 地方分権の進んだ国ドイツでは、州によって若干の違いがあるのだが、たいていは日本の中学校卒業程度の年齢で将来の道を決めてしまう。その際、大学への進学を希望しない者は、職業訓練に入るのが普通である。現在では、企業で見習いとして実習しながら、同時に職業学校に週1、2回通って一般教育や理論的知識を学ぶという制度が定着しており、これがだいたい3年間続く。
 また、今でこそ同年代の若者全体の3分の1以上が大学に進むようになっているが、オットーの時代の進学率は8%程度であり、当時はほとんどの若者が15歳前後で何らかの職業を目指すのが普通であった。父親を早く亡くしたオットーが、手に職をつけるために働き始めたのは、自然の流れであったろう。
 ドイツは、昔から職人を大事にする国と言われ、この風潮は現在でもそれほど変わってはいない。その中でも、特に手工業は中世以来の伝統をもつ古い産業分野であり、その道の専門家であれば、ソーセージ職人であれ、靴職人であれ、左官職人であれ、「マイスター(親方、名人)」と呼ばれ尊敬される。ちなみに、サッカーも含めたスポーツのチャンピォンもドイツ語では「マイスター」である。
 こうして、ドイツでは若手スポーツ選手でも、将来を夢見ながら、同時に何らかの職業技術を学んでいる場合が多い。世界的な大選手となったベッケンバウアーやルムメニゲでさえ、かつては保険会社で見習いをしていたし、1990年のワールドカップで大活躍したブーフヴァルト(現浦和レッズ監督)は電気技師、ゴールゲッターのユルゲン・クリンスマンはパン職人といった具合である。
 余談になるが、昨年ドイツで珍しい職業をもつ選手と知り合いになった。ミュンヘン市に、ミュンヘン1860というチームがある。地元では、有名なFCバイエルンより人気のあるクラブだ。このチームの“二軍”に所属するラルフ・クリングマン選手は、本業がなんと煙突掃除人というユニークな肩書きをもっている。

ラルフ・クリングマンと筆者

「ミュンヘンからちょっと離れた町の出身なんで、見習い時代は、両方の町を行き来して、煙突掃除の修業とサッカーの練習を両立させるのがたいへんでしたよ」と、語っていた。20代前半の彼も、一軍に上がってプロのレギュラー選手になることを夢見ながら、練習で、そしてゲームで必死にボールを追っている。
 ドイツでは、煙突掃除人と握手すると幸運が訪れるという言い伝えがあるので、私も握手してもらったが、効き目があるのかどうか・・・。しかし、今の時代に煙突掃除で食べていけるのだろうか、と余計な心配までしてしまった。

 ともあれ、すべての選手がサッカーで成功するわけではない。このように手に職をもつことは、ドイツではごく当たり前のことであり、もしサッカーがだめになった場合でも(そして、その可能性は高い)、きちんと社会での活動場所があるように職業教育を徹底させるという方針がとられているのだ。
 そんな風潮のあるドイツで、オットー・レーハーゲル少年はペンキ職人になることを決意し、16歳の時エッセン市内の小さなペンキ屋で見習いとしての修業を始めた。もちろん、その間にも地元のクラブで熱心にボールを蹴り続けていた。

念願のプロ選手に

 レーハーゲルは、ベッケンバウアーやネッツァーといった、かつてのドイツを代表するような優雅で天才肌の選手ではなく、体を張ってガンガン当たって行くファイタータイプの選手であったという。激しいプレーが身上の、時としてかんしゃくを爆発させる選手だったようだ。ゴツゴツしてパワー優先といった感じの、まさに現在の多くのサッカーファンがイメージする「ドイツ的なプレーヤー」だったといえる。
 1960年、そんな彼を当時の西ドイツ・オリンピック代表チームの監督ゲオルグ・ガブリチェクが、予選の対ポーランド戦に起用した。結果は1対3の敗戦であったが、オットー自身はそれなりの評価を受けることができた。
 さらに西ドイツサッカー連盟が、将来を期待する若手を対象に行う研修会にも参加を許される。この研修会で、特にオットーのプレースタイルに目をかけてくれた人物がいた。当時サッカー連盟の西部地区担当者で、後に「日本サッカーの恩人」と呼ばれるようになるデトマール・クラマーその人である。クラマーは、1962年5月に計画されていたドイツ西部地区選抜の日本遠征にオットーを加えた。こうして23歳の彼は、日独交歓サッカー(NHK、朝日新聞社主催)に選手の一員として来日し、当時の日本代表と戦ったのである。記録を調べると、日本チームには川淵三郎(現日本サッカー協会会長)、八重樫茂生(メキシコオリンピック時の主将)といった名前が見られる。

 そのころ、時代は、石炭から石油へというエネルギーの転換期を迎えていた。ルール工業地方の炭鉱町でも、炭鉱閉鎖反対の嵐が吹き荒れ、1万7000人の炭鉱夫が、エッセンの町を抗議して練り歩いた。好きなサッカーのかたわら、この町の仲間の炭鉱夫やその家族達を相手としたペンキ屋を続けるというオットーの生活にも不安がつのった。
 しかし、幸運にもオットーのサッカー人生に道が開けた。1963年から西ドイツ全土を包括する全国リーグ「ブンデスリーガ」が誕生することになったのだ。これによって、現在とは比べものにならないほどの薄給とはいえ、いちおう正式なプロ選手が生まれることになった。
 オットーも、名門ヘルタBSCクラブから誘いを受け、後に結婚することになる恋人ベアーテを伴って、住み慣れた故郷エッセンを後にした。行く先は、ヘルタの所在地であり、東西ドイツ分断の象徴と呼ばれた大都会ベルリンだ。

指導者として

 1963年8月24日、新たに創立されたブンデスリーガ開幕日。レーハーゲルは、ヘルタチームの一員として、ベルリン・オリンピックスタジアムの6万人の観衆の前で、古豪ニュルンベルクを相手に戦っていた。結果は1対1という引き分けであったものの、権威あるスポーツ専門誌「キッカー」による「その日のベストイレブン」に選出された。
 その後、ヘルタからカイザースラウテルンに移り、1971年にひざのケガで現役を退くまでに、ブンデスリーガで201試合に出場、22ゴール(そのうち12点はPKによるもの)という記録が残っている。ブンデスリーガは、18チーム(創成期の2シーズンは16チーム)によるホームアンドアウェイ式の総当たり戦であるから、年間30試合ほどとしても、レーハーゲルは、8シーズンに渡って、ほぼレギュラーとして出場した計算になる。
 こうして、選手として現役でのプレーを続けながら、そのかたわらで未来の指導者を目指し、1970年にはケルン体育大学で、サッカーコーチのライセンスを取得した。指導教官は、名監督として名高いヘネス・ヴァイスヴァイラーであった。
 サッカーの指導者になるにも資格試験を課し、合格者に免許を与えるというのはいかにもドイツらしい制度である。プレーの実際だけではなく、最新のスポーツ医学をはじめとする関連分野まで含んだコーチングシステムは世界的にも評価が高く、指導者を目指す著名選手や各国からの留学生も数多く学んでいる。理詰めで、そして長期的な展望に立って計画的に選手を育てるという発想に「ドイツ」を感じるが、今では日本を含め、この方式を自国での後進育成に取り入れている国も多い。
 指導者としてのレーハーゲルとそれを取り巻く人々には、いろいろなエピソードがあり、また奇妙に「日本」というキーワードも関係してくるので、ここで紹介しておこう。

ヴァイスバイラーの去就とレーハーゲルをめぐる因縁

 1954年、西ドイツはスイスで行われた第5回W杯で初優勝を遂げた。絶対的な優勝候補であったハンガリーを決勝で破ったその勝利は、今日なお「ベルンの奇跡」と呼ばれ、語り継がれている。その奇跡を成し遂げたのがゼップ・ヘルベルガー監督である。彼は戦前から代表監督をつとめる伝説の人物で、ドイツ式サッカーコーチング法を完成させ、戦後、ケルン体育大学にコーチ養成コースを開講するなど、後世に大きな影響を与えた。
 ヘルベルガーには、数多くの後継者がいたが、そのうちのひとりがヘネス・ヴァイスヴァイラーであった。彼は1960年代に、当時まだ無名の田舎チームであったボルシア・メンヘングラットバッハ(ボルシアMG)を率いて、ネッツアー、フォクツ、ボンホフ、ハインケスといった名選手を育て、ブンデスリーガで優勝し、さらにヨーロッパのカップ戦でも旋風を巻き起こした。また、彼は同時に、ケルン体育大学でのサッカーコーチ養成コースの主任でもあった。ドイツの名物監督のひとりである。
 日本との関連でいえば、1960年代後半から70年代、三菱重工と日本代表の監督を歴任した二宮寛が、このヴァイスヴァイラーに個人的に教えを受けたことで、その縁から多くの日本人選手が名将の薫陶をうけることとなった。古河電工の奥寺康彦もそのひとりだ。奥寺は、1977年、日本代表がドイツで夏合宿を行った際、ヴァイスヴァイラーの目にとまり、入団をすすめられた日本初のプロ選手である。
 ちょうどそのころ、レーハーゲルは複数のクラブから監督の要請を受け、迷っていた。意中のチームは、故郷ルール地方の人気クラブ、ボルシア・ドルトムントだが、ドルトムントは、ヴァイスヴァイラーを第一候補としているという噂もある。ヴァイスヴァイラーは、ボルシアMGを名チームに育てあげた後、スペインのFCバルセロナの監督に就任したものの、中心選手であるオランダ人ヨハン・クライフとソリが合わず、退団していた。オットーの就職先は、ヴァイスヴァイラーの気持ち次第ということになる。
 結果から言えば、ヴァイスヴァイラーはFCケルンを選択し、レーハーゲルは希望通りドルトムントの監督に就くことができた。こうして1977/78シーズンがスタートした。

ヴェストファーレン・スタジアム
ドルトムントの本拠地

 この年、FCケルンは絶好調だった。シーズン途中から契約した日本人選手奥寺康彦も、次第にチームに溶け込んでいる。久しぶりの優勝に向け、ムードも盛り上がってきた。
 また、怖い存在といえば、その前年まで3年連続優勝を果たしているボルシア・メンヘングラットバッハ(MG)がある。かつてヴァイスヴァイラーが手塩にかけて育て上げたチームだ。こちらも大物のウド・ラテク監督のもと、好調を維持している。ケルン対ボルシアMG。ヴァイスヴァイラー対ウド・ラテク。優勝の行方は最終戦までもつれこんた。
 1978年4月29日。ブンデスリーガ最終戦。ケルンはハンブルクでザンクト・パウリを相手にアウェイゲーム。ボルシアMGは、ドルトムントを迎えうつ。ただし、本拠地ビョーケルベルク・スタジアムはキャパシティが小さいため、近隣のデュッセルドルフ市ライン・スタジアムに場所を移してのゲームだ。勝ち点が同じ場合には、得失点差が決め手となる。
 私事で恐縮だが、この1978年当時、私はルール地方ボーフム市にあるルール大学に留学していた。最終戦のあった土曜日は、よく晴れた春の日であった。学生寮の中庭には、デッキチェアを持ち出して、寝転びながらラジオを聞いている一団があった。当時のボルシアMGは、なぜか学生やインテリ層に絶大な人気があり、寮にも数多くのファンがいた。最終戦を迎え、中庭でラジオを聞く彼らも気合十分だ。日本ではボルシアMGと略されるこのチームだが、ドイツでは、グラットバッハと呼ばれている。

 実況が始まった。グラットバッハ・ファンの彼らが歓声をあげるたび、ボルシアMGが得点したことが知れた。そして、彼らはなんと12度喜びの声をあげたのである!
 ボルシアMG対ドルトムント・・・12対0!
 ケルンの情報は、それからほどなく入ってきた。ラジオが叫んだ。
「オクデーラ飛び込む。ゴール!5対0」
 この奥寺のヘディングによるビューティフル・ゴールは、「月間のベストゴール」に選ばれ、今も語り草になっている。
 勝ち点は同じだったものの、ケルンのシーズン総得点は86、総失点は41、一方、ボルシアMGの総得点は86、総失点は44。つまり3点の得失点差によりケルンの優勝が決まった。ボルシアMGに12点を許したドルトムントの監督レーハーゲルは、翌日解雇された。この1試合12点はいまだにブンデスリーガ記録として残っている。

奥寺との出会いからブレーメンをヨーロッパのトップクラスに

 1981年、レーハーゲルは2部から1部に復帰したばかりの北ドイツにあるヴェルダー・ブレーメンの監督になった。きっかけはまったくの偶然であったという。前任者の監督が交通事故で戦列を離れたため、いきなり失業中の彼にお鉢がまわってきたのだ。
 彼は、無名でも才能あふれるフェラーのような若手選手や、他チームで出番の少なくなっていたベテラン選手を集めチームを作っていった。レーハーゲル式再生工場だ。そんな選手の中に、奥寺がいた。奥寺はケルンで優勝を飾った2年後、監督交代にともなってだんだんスタメンをはずされることが多くなっており、新天地を2部に落ちていたヘルタに求めていた。レーハーゲルは、奥寺の秘められた素質を見抜いてブレーメンに引っ張った。
 後の1995年、筆者は当時FCバイエルンの監督をしていたレーハーゲルに、直接こう聞いたことがある。
「監督の目に、奥寺選手はどう映っていたのですか?」
「オクはいい選手だった。(ドイツ人選手によくありがちな)オレがオレがという我の強いタイプではないが、チームの意図を的確にプレーに表してくれた。しかもどのポジションでも起用できるユーティリティ・プレーヤーだ。性格もよくて、本当にいい仲間だったよ。名選手だ」
 奥寺選手のドイツでの9年間のうち5年間がレーハーゲル監督の元でのブレーメン時代に当たる。その間、残念ながら優勝はできなかったが、3度2位になり、ブレーメン黄金時代を築いた功績は大きい。インテリジェンスあふれるプレーで、マスコミやファンから「東洋のコンピュータ」と親しまれたオクは、レーハーゲルにとっても印象に残る選手に違いない。ある意味では、もっともレーハーゲル好みの選手ともいえよう。
 奥寺の抜けた後、ブレーメンは1988年、1993年と2度のブンデスリーガ優勝を飾り、さらに1992年には、ヨーロッパ・カップウィナーズカップで決勝に進出し、フランスのASモナコに2対0の勝利。各国のカップ戦優勝チームによって争われたカップウィナーズ・カップは、現在ではUEFAカップに組み込まれているが、いずれにせよブレーメンは、ヨーロッパ規模でのトップクラスに仲間入りしたことになる。
 このヨーロッパカップ戦での勝利と、それに続く翌年のブンデスリーガ優勝を花道に、レーハーゲルはブレーメンを去り、FCバイエルンの監督に就任する。常勝クラブFCバイエルン監督という地位や注目度は、日本のプロ野球で言えば、巨人の監督にでも相当するであろう。監督生活を双六にたとえて、「上がり」と見る人もいよう。
 一方、レーハーゲルの去ったブレーメンは、新たな監督候補として、ある人物に白羽の矢を立てていた。前年のヨーロッパカップで、ASモナコを決勝戦まで導いた男。ところが、その人物は一足さきに遠いアジアのJリーグチーム名古屋グランパスエイトと契約を結んでしまっていた。つまり、この人物こそ、現在イングランドのアーセナルを率いるアーセン・ヴェンゲルなのである。

レーハーゲルのサッカーとドイツ代表監督人事

 FCバイエルンの監督としてのレーハーゲルはどうであったかと言えば、これがなんと大失敗に終わってしまった。FCバイエルン会長のベッケンバウアーはこう言い切った。
「レーハーゲルは、どのチームにもぴったり合うという監督ではない!」
 レーハーゲルのサッカーは、チームとしての決め事をしっかり作って、個人個人がチームの利益のために戦うサッカーである。スター選手は要らない。彼は言う。「チームがスターなんだ!」と。スター選手ばかり集め、FCハリウッドとまで呼ばれたバイエルン・ミュンヘンは、レーハーゲルには一番不向きなチームであったのかもしれない。
 その後、2部に落ちたライン川西部の名門カイザースラウテルンを引き受け、すぐ1部に復帰させたばかりか、なんとそのシーズン(98年)にいきなりドイツチャンピォンにしてしまった。2部から上がったチームがいきなり優勝したのは、例のないことである。

 こうしてみると、レーハーゲルは、2部から復帰したばかりのブレーメン、2部落ちしたばかりのカイザースラウテルン、そして今回ノーマークのギリシャと、いずれも常勝を義務付けられてはいないチームで、うまく選手のやりくりをしながら結果を出してきた。指導者になりたてのころは、危機的なチームを引き受け、それなりの結果を出すということから「消防士監督」と呼ばれたこともあるという。挑戦者の立場から、長期的な展望に立って、泥臭くても基本に忠実で敢闘精神に富んだチームを作る。そんな時こそレーハーゲルの負けじ魂に火がつき、持ち味が発揮されるように思える。考えようによっては、大スター不在の、今のドイツ代表にはピッタリかもしれない。
「生きている限り、戦いつづけたい!」
 熱血漢レーハーゲルらしい言葉だ。

 フランスW杯を控え欧州予選がたけなわだった1997年秋、ドイツのスポーツマスコミ関係者3人と次期代表監督の話をしたことがある。うち2人は、そのころから「オットーがいいよ!」と語っていた。
 1998年フランスW杯でのドイツは、前回アメリカ大会に続き2大会連続のベスト8止まりで、フォクツ監督は辞任。後任には1978年から84年にかけて代表監督助手を務めた経験のあるエリッヒ・リベックが選ばれたが、2000年ヨーロッパ選手権で1次リーグを突破することができずに退陣。その後任候補クリストフ・ダウムはコカイン問題ではずれ、代表監督の座は、かつてレーハーゲルがブレーメン監督時代にその才能を開花させた選手、ルディ・フェラーに落ち着いた。
 フェラーは、2002年W杯で準優勝という結果を出し、2006年の地元開催W杯までの長期政権が見込まれたが、今回ユーロ2004の敗退で辞任してしまった。

 この間、オットーは何をしていたのだろうか? 彼は、2001年にカイザースラウテルンを去った後、要請を受けギリシャの代表監督に就任した。クラブチームの指導者だった彼が、初めて一国の代表監督を任されたわけである。しかし、ギリシャは、オリンピックやW杯といった主要大会での実績はなく、サッカー弱小国と言われていた。
 就任後の大きな初仕事が、2002年W杯欧州予選だった。この時ギリシャは、運命のいたずらか、ドイツ、イングランドと同じグループに組分けされていた。そして、フェラー率いるドイツは、ホームのミュンヘンでイングランドに1対5の歴史的敗戦を喫してしまい、その時点でグループ1位はイングランド、2位はドイツという結果になった。
 イングランドはギリシャと、そしてドイツはフィンランドと最終戦を残しており、たとえドイツが勝ってもイングランドが勝ってしまえばドイツのグループ2位は変わらず、となれば、苛酷なプレーオフに回らなくてはならない。ドイツとしてはフィンランドに勝つのはもちろんのこと、なんとかギリシャにイングランドを破ってもらい、1位で予選を通過したかった。2001年秋。ドイツ国民はひたすらレーハーゲルのギリシャに望みを託していた。
「頼むぞ、オットー!」という母国の声援に応えるかのようにギリシャは粘った。試合はギリシャの1点リードでロスタイムに入った。イングランド最後のチャンスはフリーキック。キッカーはもちろんベッカムだ。このフリーキックが直接ゴールに飛び込み、ゲームは引き分けた。この結果、予選はイングランドが1位通過し、ドイツは他グループとのプレーオフを経て、かろうじて日韓共催W杯に出場することができた。
 惜しくも金星にはならなかったが、強豪を敗戦の縁まで追い込んだギリシャの戦いは注目を浴びた。見方を変えれば、すでに3年前のこの時点でオットーはギリシャをかなりのレベルまでまとめ上げていたことになる。

 レーハーゲルの長い監督生活において、クラブ監督時代の最高の晴れ舞台が、1992年5月6日のカップウィナーズ・カップ優勝だったが、今回の7月4日ユーロ2004優勝は、それにも勝る栄光の瞬間だったろう。
 この2度の大勝利の会場が、いずれもポルトガルの首都リスボンのルス・スタジアムであったことは、まさに不思議な縁かもしれない。ルスは、ポルトガル語で「光」という意味だそうだが、レーハーゲルにとって、まさに栄光の光に包まれた、生涯思い出に残るスタジアムになるのではないだろうか。

(敬称略、つづく)

※レーハーゲルについては、次の書を参考にした。
 Norbert Kuntze:Rehhagel, Verlag Werkstatt, 1999.

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PROFILE

明石 真和

1957年千葉県銚子市生まれ。南山大学、ルール大学、学習院大学大学院でドイツ語ドイツ文学専攻。関東学院大学、法政大学、亜細亜大学等の講師を経て90年より駿河台大学勤務。現在同大学教授、サッカー部部長。2003年度ミュンヘン大学客員研究員としてドイツ滞在。
シャルケ04(ドイツ)&トッテナム・ホットスパー(イングランド)の会員、ドイツ代表ファンクラブメンバー。
高校時代サッカー部に所属、現役時代のポジション左ウィング。
好きなサッカー選手 ウルリヒ・ビトヒャー(元シャルケ)、ラルフ・クリングマン(現ミュンヘン1860アマチュア)、ゲルト・ミュラー(元FCバイエルン、現バイエルン・アマチュアチームコーチ)

写真:オットー・レーハーゲル(左から3人目)

1995年ベッケンバウアー50歳の誕生パーティーで。写真上の文字はルディ・フェラー(向かってレーハーゲルの左)のサイン。

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