風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
11/06/15

第21回 成長と原発と豊かさと……

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 1980年代に全国紙の静岡支局で新聞記者をしていた当時、電力あるいは電力会社について、私には二つの思い出がある。一つは浜岡砂丘から間近に目にした浜岡原発の姿で、もう一つは、この原発を動かす中部電力の経済記者クラブでの定期的な発表である。
 当時、私は東西に長い静岡県の海岸線を自転車で走りながら、海沿いに展開する光景や人々の暮らしをルポするという連載記事の取材をしていた。遠州灘を望む御前崎半島の周辺では、美しい砂丘のはずれに突然出現する原発の建屋への違和感を覚え、近くで遊ぶ地元の人が原発に対して示す生理的な嫌悪感を聞いた。
 ついでに言えば、取材で原発内を訪れたときに、にぎり寿司だかうな重だか忘れたが、豪華な昼ご飯が用意されていたことを覚えている。うわさには聞いていたが、電力会社はマスコミに対して相当神経を使っていると察しがついた。
 定例の記者発表では、電力需要についての説明がされるのだが、需要が下降線をたどりそうになると「伸び悩みました」と担当者が残念そうに言ったのを覚えている。その一方で省エネを推進するためとして、確かアサガオの種だかを配布していた。"緑"を増やすなどして日陰をつくってエアコンの需要を抑えたらどうかというのだ。
 本当に省エネを推進したいのなら「伸び悩み」は歓迎されるところで、それが本音ではないことはいうまでもない。電力需要は、いわば電気の"売り上げ"であり、伸びる方が企業としては業績上好ましいのだ。
 このころ、1970年代に起きたオイルショックはまだ記憶に新しく、エネルギーの受給に対しては、大切に使う、節約するという省エネの風潮は残っていた。しかし、少なくとも80年代初めのころの電力業界は、経済成長と並行しての電力需要の伸びを期待していた。これはいわば当たり前のことで、私企業としては、公害を発生させるなど反社会的な行為に及ばない限り、事業の規模にかかわらず、売り上げを伸ばす、あるいは利益の最大化を図るのが第一だというのは自明の理だ。
 しかしである。電力供給という事業の特殊性を考えた場合、これは果たして適当だろうか。電力供給はきわめて公共性の高いサービスである。利用者からすれば電力は公共財のようなものだ。それなのに、企業の論理に委ねていいのだろうか。結論は今回の原発事故を見れば明らかである。
 水の受給と比較してみよう。水を管理するのは直接的には地方自治体であり、ダムなどの水源開発を含めれば都道府県や国もその管理、供給に重要な役割と責任を持っている。産業の需要に応じて水源開発などをすることはあるが、なにも水需要を伸ばし業績を上げることなどを管理者は目的とはしていない。もしそんなことをすれば、資源の枯渇や環境問題を引き起こす可能性がある。だから、水をすべて商品化し市場原理で取引させることはできないし、してはいけないのだ。

われわれが求める豊かさとは何か

 こう考えれば、電気という文化的な生活に欠かせない公共性の高いエネルギーは、いまや公共財に準ずるものとして考え、扱われるべきではないだろうか。さもなければ、経済成長にともなって、需要がある(売れる)という理由でどこまでも電力供給を伸ばそうということになりかねない。これまでを振り返れば事実結果として、原子力発電所が増設されてきた。
 自戒を含めて言えば、多くの人がなんとなく大事故がないことと、その建設場所が"過疎地"であることをいいことに、原発の増加を見過ごしてきたのではないだろうか。しかし、改めて考えればわかることだが、仮に大事故がなかったとしても、テロも含めて事故が起きたときの重大性を想像すれば、増え続ける原発について疑問を抱かない方がおかしかったのだ。

『成長の限界:ローマ・クラブ人類の危機レポート』
(ドネラ H.メドウズ著、ダイヤモンド社)

  いまや経済成長という概念を大手マスメディアを含めてポジティブにとらえないところはない。だが、現在の計算方式で図られる経済成長というものが原発建設を促進し自然環境や生活環境を損なうことについては、どう考えられているのだろうか。成長と言えばポジティブなニュアンスがあるが、それにともなって衰退するもの(環境など)もあり、その意味でこの場合の成長は一面的なものにすぎない。 
 高度経済成長期、わが国は数字の上での経済的な豊かさを自画自賛する一方で、公害や働き過ぎなど、社会問題が深刻さを増していたことへの批判もまた噴出した。朝日新聞が「くたばれGNP」なるキャンペーン記事を展開したのもその一例だ。その後、国際的にも経済成長の神話なるものへの疑義は高まり、ローマ・クラブは、『成長の限界』なる警鐘のレポートを発表した。地球の資源は有限であり、これまでのような経済と人口の成長をつづけていけば取り返しのつかないことになるという研究報告であった。
 この報告書は世界的に話題を呼んだ。しかし、これがその後ずっと真剣にテーマとして議論されてきたかと言えば否と言うしかないだろう。バブル経済とその崩壊、リーマンショックなど、浮き沈みを経ながらも、相変わらず経済成長に対して私たちは、成長なくしては豊かさは享受できないと信じ込まされているふしがある。
 しかし、繰り返せば、成長のベクトルは同時に原発に象徴される環境破壊や生命の存続の危機を高めてきた。今回の原発災害によって問われるのは、原発の安全性・存廃や自然エネルギーへの転換といった問題だけではなく、その奥にある大きなテーマ、つまり「経済成長とは何か」、「われわれが求める豊かさとは何か」ではないのか。この点について、いまこそ考え直すべきときだろう。
 日本の近代を振り返れば、国力を増強し、"文化的"な生活を維持し高めるために、海辺を埋め立て、山を切り開き、生物を追いやってきた。もちろん必要不可欠な開発はある。しかし、そうだとしてもいったいどこまでそれを続ければいいのか。やがていつかその負の側面がわれわれに覆い被さってくることとにはならないのか。
 もう一度考えるべきは、成長についての議論だろう。その上で、やはりわれわれは自然をどこまでも食いつぶしながら、成長に挑戦するしかないのだ、という結論に達するのであれば、それはそれで仕方のないことだろう。

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