風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
10/12/15

第14回 中津探訪~鱧、からあげ、豆腐

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 その日の日本列島は各地で強風に見舞われた。大分空港周辺もその例外ではなく、晴天ながら私が乗る飛行機の窓から海を見下ろすと白く波頭が一面に立っている。これはどうやらかなりの風だと思っていると、ぐらりと飛行機が揺れた。
 その後、揺れを繰り返しながら翼は旋回して海から滑走路へ向かった。まだ揺れている。いやな予感がするなかで飛行機は着陸態勢に入り、地面にもう少しで車輪が着くだろうというところに来て、ぐらっときたかと思ったらものすごい勢いで急上昇しはじめた。強風のため着陸をやり直したのだ。
 数年前、青森か三沢空港で同じ経験をしたことがあるが、今度の方が着陸間近だった。体をこわばらせながらなんとか二度目で無事大分空港に着陸。私はここから同じ大分県の中津市へ向かうことになっていた。大分県の北西、江戸時代までは中津藩だった城下町で、福沢諭吉が幼少期を過ごしたところとしても知られる。
 中津まではバスが出ているはずだったがだいぶ待たなくてはいけない。仕方なく、大分市行きの高速バスに乗り、杵築インターという停留所で降り、そこから予約しておいたタクシーに乗り10分ほどでJRの杵築駅に着いた。
 瓦屋根で引き締まった武家屋敷風の駅舎のこの駅からは中津まで30分ほどだ。日豊本線の特急ソニックに乗ると、案の定自由席でも客は少ない。こうして空港から1時間半ほどでJR中津駅へ降り立った。
 人口約8万5000人とはいえ中津駅周辺では歩く人は少なく、隣接するアーケードのある商店街も人影はほとんど見られない。この商店街を通り抜け、海の方へと向かって寒風の吹きすさぶなかを進むと、十分ほどで山国川という川の河口近くに建つ中津城へとたどり着いた。

 鱧しゃぶとニーナ・シモンで夜はふけて

中津城天守閣
中津城天守閣

 この中津城は旧中津藩の藩主である奥平家と関係のある中津勧業という会社が所有してきたが、最近になって建物自体は民間企業に売却されることが決まった。私は同社の社長であり、奥平家の十九代当主の奥平政幸氏に会うため隣接する奥平神社の社務所を訪れた。
 明治期に伯爵になった奥平家当主・奥平昌恭の弟で奥平昌国という人物がいる。明治時代後期、彼はアメリカに留学し、それがきっかけでフロリダに日本人を入植させようという計画を推進した一人だった。ヤマトコロニーという入植地については、本誌で何度か紹介しているが、その関連の取材をするためである。
 中津は、福沢諭吉をはじめ江戸時代の蘭学者で、解体新書を編纂した一人としても知られる前野良沢など、海外の先進技術、思想を取り入れた才人を輩出しているようだが、奥平昌国についてはその名前は地元でもほとんど知られることはない。その彼がフロリダの入植事業にどう関わったのかもよくわかっていない。
 これについては後日、本誌で紹介するので、ここではほんのわずかの期間だが、中津で出合ったものや、訪れた場所について記したい。いきなり下世話な話になるが、地方を訪れやはり気になるのは食べ物である。
 事前に調べたわけでもなく、まちなかを歩いると中津ではどうやら「鱧(ハモ)」と「からあげ」が有名らしいことがわかった。東京では鱧料理が店の前面に出てくることはまずないので、早速夕食時に鱧を出す食事処へ出かけた。
 こういうとき店選びは悩ましいところである。懐具合と相談してできれば庶民的なところをと思い、まずはホテルで尋ねてみる。すると、フロントの中年の女性が自信ありげとばかりに勧めるので近くの「○太郎」という料理屋に決めた。
 メニューをながめ鱧を探すと、うれしいことに「鱧シャブ、一人前」というのがある。鱧の天ぷらも捨てがたいと思ったのだが、店の勧めもあって鱧シャブを選んだ。出てきたのは、野菜やシメジ?の入った小さな鉄鍋と、こぶりの皿に形よく並んだ薄くイチジクを輪切りにしたような切り身。
 これを沸騰した鍋のなかにさっと通して、タレにつけて食べる。どんなタレかはうまく説明できないのだが、さっぱりとして魚のうまみが伝わる。ちょっと骨を感じながらかみ砕いていくのは気にならない。こうしてビール(大ビンなのがいい)を片手に、量、質ともちょうどいいバランスで楽しめた。
 もちろんこれだけではお腹は膨れないので、メニューを見る。和食の店だが確かにからあげがある。あとでわかったのだが、「なかつからあげマップ」というのができているくらい、数多くのからあげ自慢の店がまちにはある。以前、北海道の室蘭市に行ったとき、「カレーラーメンのマップ」というのがあった。町おこしの一環でB級グルメとして売り出していたようだ。
 中津のからあげの歴史はかなり古いようだが、やはりいま流行のB級グルメとして力を入れているのだろう。「やはり、からあげは押さえておきたいところではないでしょうか」という勧め上手の店主の言葉で、からあげを注文。この店のからあげは昔から、ころもなどつけないいわゆる素揚げで骨付きのモモを出す。
 これが表面がパリパリでなかはジューシーというなかなかの品だった。最後にゴボウと鳥の炊き込みご飯をいただき、満足度も高まり店をあとにした。不思議なもので、昼間は静かなまちなかも、夜になると人を吸い寄せるような店の明かりが目立つ。ここ十年くらいでだいぶ衰退したとある人は言っていたが、それは他の地方都市でも同じだろう。
 からあげのあとは、ウェブで検索した店を探しに出た。このくらいの規模のまちにならひょっとして音楽の聴けるジャズバーやライブハウスがあるかと思い調べると、だれかのブログらしきサイトに一軒、ジャズのライブもやるらしい店を見つけた。ホームページはなく電話も通じないが、ともかく訪ねてみた。
 飲み屋が並ぶ通りから細い路地を入ったところにその店はあった。ドアを開けると予想以上に広いフロアがあり、奥にピアノやスピーカーが設えてあった。私以外に客はないこともあってカウンターでマスターが話し相手になってくれた。私の知らない日本人の女性ジャズボーカルがかかっていたことから、女性ボーカルの話になりニーナ・シモンの古いアルバムを堪能することになった。
 中津というまちと人間について、私と同世代と思われるマスターはあれこれと教えてくれた。彼によれば、ジャズを専門に聴かせてくれる店はもう一軒あって、そこでは昼ご飯も食べられるから明日足を運んでみたらと勧められた。そのすぐ近くには、江戸時代の南画の大家である池大雅の書画が展示されている自性寺という寺があるのでこれも、襖に描かれた書画がすばらしいので是非みるべきだという。

 中津出身の作家、松下竜一氏に思いを馳せ

 そのあと中津出身の有名人の話になったので、私は松下竜一氏の名前をあげた。福沢諭吉よりも個人的に強く記憶に残っている人だ。2006年に67歳で亡くなった松下氏のことはもちろん店のマスターも知っているし、「松下さんの豆腐も食べたことありますよ」と言う。松下氏は、このまちで若いころは豆腐屋を営んでいた。
 このころの生活を赤裸々に描いた『豆腐屋の四季~ある青春の記録』は初期の代表作であり、テレビドラマ化もされた。環境問題や社会問題にも積極的にかかわり、行動する作家でもあった。私が彼の作品に出合ったのは30年ほど前のことで、それは『豊前環境権裁判』(日本評論社、1980年)というノンフィクションだった。豊前火力発電所の建設に反対し、弁護士などに頼らず自ら裁判をたたかった著者の記録だった。
 以来、『ルイズ - 父に貰いし名は』(講談社、1982年、第4回講談社ノンフィクション賞受賞)など硬派ですぐれたノンフィクションを書き続け、お金にこだわらず淡々と生活してきた信念の人だという印象を持っていた。その一方で実際に彼に取材をした友人によれば穏やかでやさしい人だという。
 偶然なのだろうか、今回中津に行くと決めたとき、夜神保町を歩いていると、遅くまで開いている中古レコード屋兼古本屋の店先で、『豆腐屋の四季~ある青春の記録』を見つけた。このときはこの本が現在、講談社文芸文庫に形を変えて出版されていると知らなかったので、これも何かの縁と思い古いハードカバーを手に入れた。
 読み始めてからまだ数ページ進んだあたりで、ぐいぐいと引き込まれていった。そしてこれは時代を超えて読まれるべきものだと、とくに若い人に読まれるべき作品だと確信した。小さいころから体が弱く右目を失明、そして母を亡くし進学を諦めて家業を継いだ著者の必死な青春の記録である。
 これを読みながら、できれば松下氏が豆腐屋を営んでいたところを訪ねたいと思って、中津に来てから調べてみると、いまもかつて豆腐屋だったところで家族が暮らしていると聞いた。そこは翌日見学する予定だった福沢諭吉の旧居と記念館のすぐそばだった。
 福沢諭吉が幼少期を過ごした家は、いまもそのまま残されていて、その隣に彼の足跡や業績を集めた記念館がある。実際に目にする旧居はこぢんまりとした佇まいだったが、諭吉が幼少期に勉学に励んだという庭の土蔵が印象的だった。いまでいうロフトのような小さな空間(写真)は、集中力を養うには最適だったのかなどと想像した。
 記念館では、彼の生涯をまとめた映像作品を見て、全体像をつかみ、その学者としてのみならず実業家としての手腕を教えられた。
 このあと、松下竜一氏の自宅を訪ねてみた。ここまで来たのだからと思い、失礼を承知で「ごめんください」と引き戸を開けた。すると松下氏の妻の洋子さんがお出になられた。事情を説明し、著書に感銘を受けたことなどを話すと、洋子さんは、「東京・松下(を読む)会 読書会ノート」という冊子をくださった。文字通り、東京で続いている彼の作品を読む人たちによる読書会の記録だった。
 突然の訪問の失礼を改めてお詫びし、今も松下竜一と書かれた表札の家をあとにした。豆腐屋の四季には、松下氏が小さいころ福沢諭吉にちなんだ公園の清掃などを仲間と進んで行ったという話が出てくる。同氏が福沢諭吉をどう評価していたのか、機会をみていつか調べてみたい。
(編集部 川井 龍介)

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