風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
10/10/15

第10回 計画性の美しさ

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 冷や汗ものだった。青森空港から東京へ帰るときのことだ。空港近くのレンタカー屋に車を返したのが出発の7分前。絶望的な時間だ。しかし、フライトの変更がきかないチケットであり、この便を逃したら買い換えなければならない。レンタカー屋には、「ぎりぎりになりそうだから、店に着いたらすぐ空港まで送ってもらえないか」と、電話はしておいた。

 到着するやいなや運転してきた車でそのまま空港へ。急いでJALのカウンターの前に行き、「東京行き、間に合います?」とひと言。一瞬相手の顔が険しくなるのを見たが、なんとかなりそうだということで搭乗手続きをすると、その間に、係の女性が「では、行きましょう」と、私のカバンをもって手荷物検査へ駆け込む。
 その颯爽としててきぱきとした姿に「すいませんね」と、頭を下げながら彼女の後を追って検査を通過。なんとか機内に滑り込み、座席についている乗客の冷たい視線を受けながら、非常扉前の席についた。以前にも同じ経験をしたことがある。その時の教訓があったはずなので、余裕をもって帰路についたつもりだったのだが……。
 なぜ、こういうことになったのか。若いうちならともかく、半世紀以上も生きていると、同じ過ちはできるだけ繰り返したくないと思っているので、過ちの検証をすることにしている。「なぜ、おれは遅れたのか」である。一つは、残念ながら過去の教訓が十分生かされてなく、基本的には時間の読みが甘いことにあった。
 私の場合、無駄な時間をとりたくないという気持ちが働くので、余裕をもっているつもりでも、ついつい合理的にことが進むことを想定してしまう。まず、途中でトイレに行きたくなったのを計算に入れていなかったり、田舎の国道だからそこそこのスピードで走れるだろうと高を括っていたのだが、渋滞にも多少あった。
 こうした細かいことが重なって時間が押していたところに、最大の問題が起きた。カーナビである。使い方は知っているが、日頃運転するマイカーにはカーナビはついていないのでいまひとつ慣れていない。
 今回の道は何度も通ったことがあり、直観的に変だなと思ったのだが、空港に着く直前になってナビが指示したのは遠回りの道だった。空港への取り付け道路には、わずかながら200円をとる有料道路がある。おそらく「一般道を優先する」という設定になっていたのだろう。そのため、空港を目前にしてぐるりと迂回する道を走ってしまった。
 機械を熟知しているのでなければ、機械に頼り過ぎてはいけなかったのである。基本はまず地図で確認しておくべきだった。地図をみれば一目瞭然である。ナビを見ればなんとかなるという気の緩みが事前の準備をおろそかにしたのだ。私の場合だが。
 ここから話は大きくなるが、ナビにかかわらず、さまざまな情報機器によって、われわれの社会は、つぎつぎと効率面で最善の策をとることを求めるようになってきた。と同時に人間の欲求にどれだけ応えられるかという、利便性を競ってきた。
 携帯電話はその最たるものだろう。いつでもどこでも情報を発信、受信できる。昔だったら一週間前に計画を立てて、手紙で伝えておかなければならないようなことが、いまは直前に連絡すれば済む。車での道順についても、事前にある程度調べて頭に入れておかなくてもまさにその場でカーナビに頼ればいい。
 しかし、どんなことにでも必ずメリット、デメリットの両面あることは、世の中の公理である。事前に調査しなくていいということは、時間の節約になるし便利だが、計画性を失わせることにもつながる。
 誰かと待ち合わせをすること一つとっても、だいたいの場所と時間を了解し合って、携帯で直前に「いま、どこ? もう着いた?」、「あと少しで着くから、○○あたりで」と、いった具合に、その場で調整すれば済むことがある。
 それが昔のように、もし、はぐれたら他に連絡のとりようがないとなれば、間違いのないように場所の確認をしたり、仮に、はぐれたらどうするか、といった次善の策を練っておき、"リスク回避"を試みる。これはとても頭を使うことであり、相手を思いやることでもある。
 もちろん、携帯があれば緊急の時は相手にとっても便利だろう。だが、逆にその時の気分で一度下した決定を変えやすくもなり、悪く見れば、いつまでも優柔不断で、決断力を鈍らせることになりはしないか。

 便利さと引きかえに失ったもの

 昭和30年代後半、私が小学校の低学年だったころは、子供同士の遊びの約束は、学校の帰りにただ口頭で、「3時に、校門近くの鉄棒の前で」とか「2時に○○君ところへ行くよ」というような約束をしていた。行けなくなったら連絡のしようがないし、友達との約束だから必ず守る。
 それから30年後、私の子供が小学校に上がるころは、子供といえど家の電話で連絡をとり合って遊びの約束をするか、親同士が代わりに話をしてあげたこともあった。このとき、確か「昔は電話がなかったから、ただ口で約束するしかなかったんだよ」と、子供に言ったら不思議そうな顔をしていた。
 私が小学校の高学年になると、黒い色の固定電話を使って友達と約束をした。そして、もし行けそうもなくなったときは電話で"ごめん"と謝った。また、友達が電話口に出られないときは、家族に伝言をした。その時は、子供でも気を遣ってていねいに話をした。
 つまり、約束の重みや緊張感がいまよりあった。また、段取りはしっかりしなくてはいけなかった。その過程でいい意味で形式を踏んだ。固定電話だから子供でも「○○さんのお宅ですか、××と申しますが、△△君はいますか」と、緊張しながら話していた。中学でも高校でもそうだった。いまは、そんなことを言う必要はない。携帯でダイレクトに「どうしてる?」とでも言えばいい。着信記録で相手がわかるし、便利と言えば便利だが……。
 計画を遂行するためには、まず青写真を描き、次に実行するための段取りを立てなければならない。これは結構頭を使う作業である。また、決断力や物事を割り切る気持ちもいる。そして、一度決めたら目標に向かって進む姿勢も必要だ。途中でいろいろ変更できるから、臨機応変にというのとは違う。

 面倒だと言えばそうかもしれないが、面倒だからこそ養われるものがある。こう思うと、小さなことでも計画性をもつことの意義は、いまの時代だからこそ大きい。
 しかし、計画性について気になることが一つある。「ご利用は計画的に」というCMのコピーに象徴される消費者金融のピーアールについてだ。一見、良識のあることを訴えているように思えるが、よく考えれば恐ろしいことだというのは、以前本誌で紹介した『下流喰い/消費者金融の実態』(須田慎一郎著、ちくま新書)に明快に説かれている。
 そもそも、返せるあてもないのに、欲望が先に立ちお金を借りる。逆に言えば、返せるあてがあると確信できなくても、とにかく貸し付ける。
 こういうことを延々と繰り返してきたから、多重債務という社会問題が起きた。だから「計画的に」というのだが、計画的に利用するというのは、ともすれば、言葉は悪いが借金という麻薬に漬かる、"シャブ漬け"になるということである。だいたい真に計画的な人が消費者金融に手を出すだろうか。
「いざとなったら金を借りる」、「いざとなったら携帯で連絡すればいい」。空港に出発直前に駆け込むやつが言うな、と叱られそうだが、どこか似ているような気がする。
(編集部 川井 龍介)

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