風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
10/09/30

第9回 おかしなことが常識になる?

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 とうとうここまで来たか。なにがかと言うと、前回にひきつづき「~させていただく」という言葉遣いである。
 先日、東国原英夫・宮崎県知事が12月の知事選には立候補しない意向を表明したが、そのとき彼は、なんと「出馬させていただかないことにしました」と言ったのだ。私は直接テレビやラジオで耳にしたたわけではないのだが、これを聞いた友人が教えてくれた。
 これは、いくらなんでも“変だな”と思った人は多いのではないか。繰り返すが「~させていただく」は、話している相手に尊敬の気持ちをもって、自分がする行為に許可を求める意味である。
 出馬するにもしないにも、許可などいらないのはもっともである。だから出馬するなら、「出馬いたします」、「出馬します」と、堂々と言うのが筋だ。逆に出馬しないのなら「出馬しません」と言えばいい。最初は出馬する意向を示していながら事情があってやめるのなら、「出馬は取りやめました」とか「出馬は断念しました」などという言い方もあるだろう。しかし、最後はするか、しないかだけを示せばいい。
 思い出したのが、先の衆院選で自民党から出馬を打診されたとき、この人は「~自民党さんは私を総裁候補として選挙戦をお闘いになるお覚悟がおありになるのか」と、たくさん「お」をつけて話していた。これには、慇懃無礼だという声も多く上がった。
 好き嫌いはさておき、石原慎太郎・東京都知事だったら、まずこんな言い方はしないだろう。まして、作家でもあるから「出馬させていただかない」と、混乱の極みのような言い方はしないはずだ。
 だいたい、「出馬させていただく」という言い方が、もってまわったようだし、自意識過剰な感じがする。「そんなにあなたのこと気にしているわけじゃないよ」とでも言いたくなる。それでも、これは受け取る側の気分の問題だと言えるかもしれない。
 しかし、「出馬させていただかないことした」は、どう考えても変だ。これは形の上では「出馬させていただく」ことを否定している。つまり、「相手に気遣って許可を得る」ことの反対の意味になる。となれば、まったく相手のことなど考えず、許可も得ることなく出馬しないとなってしまうのだが。
 もちろん、本人が言いたいことは、出馬しないということを単にていねいに言いたかっただけだと思う。だから、どうしても「~させていただく」をつけたいのなら、せめて「出馬しないことにさせていただく」とするべきだろう。つまり、「~させていただく」そのものの否定は、一般的に意味が通じないのだ。
 よく、会議などの席で「発表させていただく」といった表現を連発する人がいるが、意味からすればこれはあり得るとしても、「発表させていただかない」などとは言えない。周囲が発表を迫っている、あるいは期待しているのに発表できないのなら、「申し訳ありませんが、発表できません」とか「発表を控えることをお許しください」などという言い方がある。
 それをなんでも「~させていただく」をつける癖をつけていると、「発表させていただきません」のような、変な言い方に陥ることになる。今回の東国原氏の発言はこれに相当する。とにかく一度「~させていただく」表現をまったく使わないようしないと、この流れは止まらないだろう。

 メールを打ちながら歩いてくる

 このさせていただきますの例が示すように、おかしな言い方でもみんながつかっていると、当たり前になってしまうことがある。多勢に無勢というか、常識が負けて非常識が勝つ。たとえば、携帯電話でメールを操作しながら歩く行為がそれに似ている。
 ここ数ヵ月の間、何度か同じような経験をしている。都内で通りを歩いていて、なんどか反対から歩いてくる人とぶつかりそうになった。相手は、携帯電話を片手に、まるで、念仏をとなえながら前進してくるように歩いてくる。視線はほとんど携帯画面に向けられている。
 誰かから来たメールをただ読んでいるか、あるいはなにかボタンを操作しながらの時もある。黙ってみていると、そのままこちらへ向かって来てぶつかりそうになるので、こちらが体をかわす。相手はそのまま直進。危ないったらありゃしない。
 しかし、どうして、こちらが普通に歩いていてよけなければいけないのか。どうも納得がいかない。こういうことが何回かあったので、あるとき舗道上を携帯を見ながら接近してきた若い女性に、“チキンレース”ではないが、どこまで互いに近づいたら相手が気づいてよけるかと思いこちらも黙って進んでみた。
 すると、結局ぶつかりそうになったので「危ない!」といってやると、謝るでもなくそのまま体をかわして過ぎて行ってしまった。実に感じ悪い。同じようなことがつづいて起きたので、その時も「危ない!」と言ってやったが、相手の男性にはほとんど反省の色らしきものはなかった。
 周りをみると携帯を操作しながら歩いている人が結構いる。しかし、それが当たり前になっているからか、見ていると、携帯を持っていない人がよけているのだ。これは自分もまた同じようなことをしているから、明日はわが身と、相手の立場になって考えて動いているのかもしれない。
 しかし、これを黙認していると、おかしな行為がいつしか正当性をもち、まともな行為が肩身の狭い思いをしなくてはいけなくなる。第一、お年寄りや子供にとって非常に危険だ。自分だって危ない。ニューヨークでは携帯メールを打ちながら歩いていた15歳の女の子がマンホールに落ちて軽傷を負ったというニュースがあった。マンホールが開いていたのもとんでもないが、これこそ、どんなところに落とし穴があるかわからないというやつだ。
 こういう危険性をはらんでいるのに、「歩きながら携帯メールが打てるアプリケーション」が出ているという。どういうことかというと、携帯を操作している人の視線の先が、携帯画面に映し出されるという機能だ。忙しい現代の若者のために比較的安全に歩きながらメールが打てるということらしいが、こういうことがほんとうに必要な機能なのか。技術の進歩をいうなら別のもっと重要なところで発揮してほしいものだ。
 まったく、面倒くさい世の中になった。携帯をもってなにかしていればそちらが優先されるのだ。こういう話を仕事場でしていたら、ITに詳しい30代の女性が、「運転中に
メールを打たないだけいいじゃないですか」という。そこで「そういうやついるの?」ときくと、「えへへ、・・・でも、赤信号で止まったときだけですよ」と、笑うではないか。ほんとうに止まったときだけであることを願うしかないね、これは。
(編集部 川井 龍介)

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