風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
10/07/31

第5回 白髪と若作り

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 ときどき行くカウンター・バーでは、音声の出ないテレビの映像をいつも流している。あるとき、テレビ朝日の「報道ステーション」が放送されていた。政治関連のニュースだったようで、政治家のインタビューなどが行われ、そのあとで古舘伊知郎氏がコメントをしている様子だった。
 すると、これを観ていた隣にいた中年の男性が、「なんか、この人たち変だと思いませんか」とグラスを手に不満げに漏らす。なんのことかと思うと一拍おいて、「だって、みんな妙に髪が黒いじゃないですか、結構歳なのにあれはおかしい」とつづける。
 なるほど、いわれてみれば確かにそうかもしれない。古館氏も50代半ばだし、登場していた政治家も同年代かそれ以上の人たちばかりだった。ふつうに考えれば、彼らの頭が自然なままなら、頭には白いものがかなり混じっているはずだ。それが妙に黒々艶々している。「妙に」というのは、必要以上に若返って見えるくらいという意味だ。おそらく彼らは白髪を染めているはずだ。
 女性の間では昔から白髪染めは当たり前だが、男性の間でもかなり白髪を染めるのが流行っているという。女房に「あなたも少し染めた方がいいわよ」なんて言われるのか、あるいは、若い女性の目を気にしてか、いずれにしても目的は若く見せる、あるいは老けているように見られないことにある。
 テレビのCMでも男性用の白髪染めが登場しているし、私が通っている理髪店でも、「ぼかしの白髪染めはいかがでしょう」といったポスターが貼ってある。あまり黒々しても妙だから、部分的に染めていかにも自然に見せようという工夫である。
 黒くして若く見せるのは、自然に進む「老い」に対する不自然なことだが、ぼかし染めが自然なのかといえば、これは不自然に自然に見せかけるという意味では、なんだか手の込んだ不自然という不思議な気がする。こう考えると、なんだか訳がわからなくなってくるが、とにかく不自然には違いない。
 さて、この不自然な不自然にせよ、不自然な自然にせよ、これを求める背景にあるのは高齢社会の進展と、老いに対する意識の変化だろう。さきごろ厚労省が公表した簡易生命表によると、日本人の2009年の平均寿命は女性が86・44歳で男性が79・5歳。ともに4年続けて過去最高を更新したという。
 これだけ人生が長くなると、数十年前と比べて、人間の成長の過程も変わってくるだろう。つまり、かつてなら「30代であれば○○でしょう」と、漠然と世間が認めていたようなことがいまは「50代であれば○○~」と20歳もスライドするかもしれない。例えばかつては勤め人の定年は55歳だったが、いまはそこでリタイヤする人はまずいない。
 また、趣味の世界をみても、いまや60歳を過ぎてもマラソンや自転車、登山とかつてとは比較にならないほど、高齢者はアクティブである。私は相模湾沿いに住んでいるのだが、海岸沿いの遊歩道を走るランナーでも、国道を飛ばすロードレーサーやクロスバイクといった自転車の愛好家にしろ、とにかく高齢者は目立つようになった。海に入れば、白髪や髪の薄くなったサーファーはもはやふつうである。
 こうなるとルックスも若くしようというのは自然の流れで、ファッションに年代差はだんだんなくなってきた。ライフスタイルについても年齢による壁はどんどんなくなってきている。
 この傾向は、日本のさまざまな文化がアメリカの後追いをしているように、アメリカではすでに当たり前といっていい。思い出すのは20数年前にフロリダの高級リゾートのパームビーチの町に立ち寄ったときのことだ。ワース・アヴェニューという高級ブランドショップが軒を連ねる有名な通りで、なんともファッショナブルで颯爽とした女性が前を歩いていた。
 膝上くらいのスカートに鮮やかな花柄のプリントのブラウスにつばの広い帽子をかぶっている。すらりと伸びた脚も印象的だった。しかし次の瞬間こちらに振り向いた彼女を見て驚いた。その顔はどうみても60代、いや70代だった。
 同じフロリダで当時、私はときどきファミリーレストランのデニーズにひとりで入ったものだったが、そこで高齢者が一人食事をしていたのを見かけ、「日本でもそのうちこういう光景が見られるのかな」と思ったことを覚えている。その予想はいまや日本でふつうの現実となった。

 年老いても気持ちも見てくれも若くあろうとすることは、歓迎されるべきことだろう。「年寄りなんだから」とか、「いい年をして」などと、年齢を理由に意識や行動を制約するのはよくない。しかしである。こう言いながらもどこかひっかかる。うまく言えないのだが、年相応という自然な形をもう少し尊重してもいいのではないか。
 若作りもいいが、やはりそれは中身があってのことではないだろうか。いつまでも好奇心があったり、なにかに挑戦しようといった精神がある人は、ファッショナブルかどうかは別として、自然とその雰囲気が外ににじみ出ている。歳を取ってもどこか少年らしさや少女らしさを持ち続けている人はいるものだ。その時外見は関係ない。
 反対に、いくら頭を黒々させても、ただ守りに入っているような人は、逆に痛々しい。こういうと、守りにはいって何が悪い、保守的で権威主義的で結構、目上の者や年寄りを尊敬しろ、という人の声も聞こえてきそうだが、それはそれでまったくもって歓迎だ。いや、ほんと。そういう人は、自信と威厳をもって、たとえばどんどん頑固オヤジになってもらいたい。要するに、妙な小手先の方法で若く見せることを目的とするスタイルは、ちぐはぐだと言いたいのだ。

 若作りを心がけるのは、若さに価値を認めるからだが、ともすると若い人のスタイルや価値観に迎合することにもなる。これもまた痛々しい。若い者が好きな歌を密かに仕入れてカラオケで歌っても、ときがたてばすぐに色あせ、また新しいものを仕入れなくてはいけなくなる。そんなことはいつまでも続かず、やがて自分の好みも見失う。
 とにかく自然が一番。若くありたい人は心も若くし、反対に、年相応にしっかり老いていくのが実はいいと思っている人は、その路線を突き進むのがいいのではないか。こう書いていて、昨年話題になったクリント・イーストウッド主演の映画「グラン・トリノ」の主人公が頭に浮かんだ。
 打算的な子供たちには迎合しない。祖父に敬意も払えない、躾のなっていない孫よりは、必死に生きる隣人のモン族の若者に親近感を覚えて、彼らのために身を投げ出す。イーストウッド演ずるこの気むずかしい老人は、ある意味、自然に年老いて自分を貫いている。
 男性の白髪染めの話から話は飛んだが、少なくとも自分のスタイルにあった自然な歳の取り方をしたいものだ。小手先の若作りにまどわされず、これまで生きてきて自然と培った自分のドグマを大切にして。
(編集部 川井 龍介)

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