風
 
 
 
 
 
 
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Series コラム
明日吹く風は 
10/06/30

第3回 大阪の中の沖縄と「十九の春」

風のように毎日が過ぎてゆく、あしたはどんな風が吹くだろうか。

 大阪の人が聞いたらちょっと怒るかもしれないが、たまに新幹線で大阪に行くと、新大阪から大阪へ入り、環状線に乗り換えたあたりでなぜか「プッ」と吹き出したくなる。理由はよくわからないのだが、街全体がなんだか笑いを誘うのだ。
 これまで訪れたときの印象が積み重なっているのかもしれない。やたらめったらでかでか地下の通路に貼られた新聞とか、ちょっと道を聞いただけで、「どっから来たん?」といろいろ突っ込んでくるおばちゃん。立ち食いうどんを食べるスーツ姿のOL、半ズボンにカーボーイハットをかぶってマウンテンバイクで疾走するおっさんとか。最後の例は、大阪でも特異な地域、通天閣の周辺で目にした光景だが、とにかくなんだか妙なものを行くたびに目にする。
 また、これらが自然と街に溶け込んでいて、周りの人もあまり気にしていないように見える。日本全国あちこち取材で足を運んでいるが、どの地方都市も個性はあってもミニ東京化しているなかで、沖縄と大阪だけはまだ独自性が色濃く残っているようだ。その大阪と沖縄をかけ合わせたような街に、梅雨のさなか取材で訪れた。

大阪に根づく沖縄コミュニティー

 大阪市の南西部に大正区という大阪24区の一つがある。大阪湾に面して、運河や川に囲まれたこの区域は、沖縄出身者の大きなコミュニティーがあることでも知られる。明治時代以降、紡績工場や造船所などができ、工業地帯として労働力が必要だったところに、沖縄からの人たちが移住してきたのがそのルーツだという。
 運河や港が近く、埋め立て地や再開発のために町並みはいまは広い道路が縦横に走るが、かつてはずいぶんと混沌としていたと想像できる。私は、ときどき仕事で川崎の工業地帯に近い一帯にでかけるのだが、同じような匂いがする。沖縄料理の居酒屋や韓国・朝鮮料理の店などがよく目につくのは、沖縄や朝鮮半島にルーツをもつ人たちが多く暮らしているからだ。最初はなんだか変わったところだなと思っていたが、何度か足を運んでいると、なんだかリラックスしてくる居心地の良さがある。

 大正区の話に戻れば、沖縄の物産などを置いている商店街や、沖縄県人会のつくった沖縄会館なる古いビルもある。こうした沖縄に関係するお店のなかに、関西沖縄文庫というものがあることを知った。大正区に隣接し、同じように沖縄や奄美からの移住が早くから行われた港区の図書館の方から教えてもらったのだ。地域の図書館というのはありがたいもので、私はよく取材で訪れた際に地元の歴史や文化を図書館で教えてもらうのだが、今回も助けてもらうことになった。

 沖縄にルーツのある、金城馨さんが主催する関西沖縄文庫は、そのホームページによれば、
「・・・1985年から関西沖縄文庫というスペースで文化活動を中心に活動しています。主な活動は6千冊に及ぶ沖縄のみならず先島・奄美諸島に及ぶ、図書の貸し出し、大正区のフィールドワーク、定期的に関西沖縄文庫内で行われるライブ、三線教室などです」とある。 

関西沖縄文庫
関西沖縄文庫

 建物の外に沖縄の"魔除けの獅子"であるシーサーの飾られたビルの2階にある関西沖縄文庫を訪ね、金城さんに大正区の沖縄、奄美のコミュニティーについて話を聞いた。驚いたのは、沖縄関係だけでなく、移民や異文化などに関する書籍がびっしり、学校の教室より少し狭いくらいの空間の壁を埋め尽くしている。これとは別に音楽CDもあり、会員になると無料で貸し出してもらえるらしい。
 金城さんは、若い頃は東京・神田の古書店街にもでかけて興味のある本を買い出しに行ったりしたという。これだけの資料はまだデータベース化されていないようだが、沖縄や日本の南方の文化、あるいは移住・異文化交流といったテーマに興味のある人にとっては貴重なものとうつるに違いない。

「十九の春」を探して

 ところで、私が金城さんを訪ねたのは、この地の戦前のことを知る沖縄や奄美の人がいたら聞きたいことがあったからだ。ある歌のルーツを探るためである。3年前に、私は『「十九の春」を探して』というノンフィクションを出版した。「十九の春」というのは、歌のタイトルで、この歌は1975(昭和50)年に演歌の大御所、田端義夫が大ヒットさせたことで全国的に知られるようになった。
「私があなたに惚れたのは ちょうど十九の春でした」
 こういう出だしを聴けば、「あー、あの歌か」と、思われる方もいるだろう。しかし、沖縄や奄美諸島では、このヒットのはるか前からこのメロディーは人々の知るところで、遅くとも70年ごろにはよく知られていた。どういうことかといえば、この歌は、詞もメロディーもだれがつくったのかははっきりしないままに、いろいろなところで歌われていたのだった。
「十九の春」というタイトルも、72年にこの歌が最初にレコードになったときにつけられたタイトルであり、これより先に与論小唄とかジュリグァー小唄などと呼ばれていたこともわかっている。また、名前ははっきりしないが、戦時中に八重山諸島の西表島で、駐留していた日本軍の兵隊のなかでそのメロディーは歌詞をつけて歌われていた。同じく戦時中に、兵庫県尼崎の紡績工場に働きに来ていた沖縄出身の若い女性たちが歌っていたということもわかっている。
 そして、これらのなかでもっとも具体的にその歌われていた状況がはっきりしていたのが、戦時中の43(昭和18)年に歌詞がつくられた「嘉義丸のうた」だった。この歌をつくったのは奄美大島に隣接する加計呂麻島で鍼灸師をしていた朝崎辰恕さんという人で、同年、奄美大島沖でアメリカの潜水艦に撃沈された貨客船、嘉義丸の犠牲者の遺族の慰みにと歌った。

 こうした証言や事実をもとに、私はこの歌がいったいどこから来たのか、ルーツはなんなのかを取材して本にまとめたのだが、結局私が調べた範囲でははっきりとしたことはわからなかった。ただ、歌のルーツを探っていくと、自然と沖縄や奄美、九州などを旅することになり、その副産物としてこうした地の近・現代史の知られざる秘話にであうことになった。
 その一つが、「嘉義丸のうた」にであったことから、その全容を知った戦時遭難船をめぐる事実だった。「嘉義丸のうた」については、同時期に別のところで同様の歌が歌われていたことから、朝崎さんがこのメロディーそのものをつくったとは考えにくかったので、だとすれば朝崎さんがどこでこのメロディーにであったかが、ルーツ探しに必要だと思われた。拙著を出版した時点では、朝崎さんは若い頃大阪にいたことはわかっていた。しかし、足跡ははっきりしなかったのでそれ以上は追うことができなかった。

歌のルーツはわからなかったけれど……

 その後、朝崎さんの家族の話などから、朝崎さんは、おそらく戦前、現在の大正区か港区あたりで暮らしてしたと推測できた。ということは、もしかすると戦前、現在の大正区や港区で朝崎さんは「十九の春」のメロディーにであったのではないか。そうであれば、同じように現地でこのメロディーを聴いた人もいるのではないか。歌の話であれば、昔を知る人のなかでも奄美や沖縄に関係のある人だろう。そう考えてまずは金城さんを訪ねた。
 金城さんは、「大阪での沖縄や奄美」のことを知っていそうな人を何人か紹介してくれた。その一人が、財団法人大阪沖縄協会の事務局長をする新城重光さんで、新城さんは父親の代に沖縄から大阪に出てきた、沖縄生まれの大阪育ちだ。
 歌のことはご存じなかったが、嘉義丸とつながる体験を新城さんはしていた。彼の父親は戦時中、亡くなった子供たちの遺骨を墓に入れるため一時沖縄に帰った。そして、家族のいる大阪に戻ろうと船に乗っていたとき、その湖南丸という船がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃にあって亡くなったという。嘉義丸と同じ昭和18年のことだった。兄たちが軍に入り家にはいなかったので、それからはまだ十代の新城さんは母や兄弟のために必死で働いたという。
 戦時中敵の攻撃を受けて、沈んだ民間の船を戦時遭難船という。汽船をはじめ機帆船、漁船をあわせて7240隻が日本の周辺海域から、当時日本が覇権を持っていた地域で、民間船でありながら海の藻屑となって沈んだ。船員をはじめ乗船していた一般人などが犠牲となったが、沖縄や奄美など、本土と船で行き来をしていた人たちのなかに一般の犠牲者は多い。
「嘉義丸のうた」の話をすると、新城さんは不思議そうな表情で聞いていた。この新城さんの紹介で、近くに住む宮城トミさんという方にも話を聞くことができた。わざわざ新城さんが車で私を案内してくれ、同席して宮城さんに話をしてくれた。今年90歳になる宮城さんもまた父親が沖縄から大阪に出てきた。結婚する前は嘉手苅という苗字だった。飄々とした味わいのある沖縄の民謡歌手、嘉手苅林昌と同じ名前だ。
 大阪にはない、この苗字で呼ばれるのが若い頃はとても恥ずかしかったという。「字もなかなか普通の人が読めなくて、当時の役場も困ったから、役場に行って苗字を変えました」という。沖縄の人間であることでいじめられることはなかったが、陰口を言われることはあった。
「女学校に入るとき、『琉球の子が女学校に入るんだって』と言われたのよ」
 宮城さんは、ちょっと悔しそうに何度も私にそう言った。
 大正区にあるJR環状線の大正駅を出たところにある焼き肉屋さんもまた、昔のことを知っているかもしれないというので、雨の降る夜訪ねてみた。ハラミを肴にビールを飲みながら、店の女将さんに事情を説明すると、店主の小浜正勝さんがわざわざ店内に出てきてくれた。
「うちのお母さんが生きていたらなあ、紡績(工場)で働いていたから・・・」。そう言いながら、小浜さんは真剣に思いをめぐらしてくれた。先に記したように、紡績工場に働きに来ていた若い女性たちのなかで、「十九の春」のメロディーが歌われていたという証言があっただけに残念ではあった。
 戦前、沖縄や奄美から出稼ぎ的に紡績工場へ働きに出てきたなかには、お金を前借りしていた娘たちもいて、つらい仕事に耐えきれず工場を抜け出すと、追われることもあったと、小浜さんは話す。
 昨年、私は尼崎を訪れ、かつての紡績工場の歴史を調べ、そこで働いていた当時の女工さんたちがまとめた思い出の文集のようなものを図書館で見つけた。そこには彼女らが職場などで歌を楽しんだということも書かれていたが、「十九の春」については、残念ながらわからなかった。
 今回の大阪での限られた時間での取材でも、歌のルーツを知る直接の手がかりはなかった。しかし、沖縄と大阪、尼崎(兵庫)といった関西の地域との深いつながりの一端を知ることができ、ルーツ探しはまた別の副産物をもたらしてくれるような予感がした。
(編集部 川井 龍介)

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