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Series Around the World
世界10大気持ちいい 横井 弘海
06/06/30

最終回 ヨルダン・死海で浮く

世界の観光スポットや娯楽についての情報は、いまやさまざまなかたちで手に入れることができる。しかし、それでもまだまだ知られざる「楽しみ」がある。 場所、季節、食べ物、人間、そして旅の技術・・・。世界約50ヵ国を旅してきた横井弘海氏が「気持ちいい」をキーワードに、女性の視点からとっておきのやすらぎのポイントを紹介する。

 先日、大相撲の佐渡ヶ嶽部屋の力士らがイスラエルで親善相撲大会を開いた合間、琴欧州や琴光喜などが死海に行き、ぷかぷか浮いている写真が新聞に載っていた。関取たちは皆笑顔で、とても気持ちよさそうだった。
  それにしても、どうして浮くのだろう? 理屈はわかるのだが、不思議である。いつか行ってみたいと思っていたが、そのときがようやく訪れた。

旧約聖書ゆかりの地に囲まれた湖

 死海はアラビア半島北西部、海抜マイナス337m(394mなど諸説あり)の渓谷にあり、西をイスラエル、東をヨルダンに接する。白亜紀以前は本当の海だったと考えられているが、いまの死海は、ヨルダン川からの水と周囲の湧水が流れ込む塩湖である。もともと水の蒸発が激しいのが、最近、地球温暖化の影響か、水位が低くなっていることが心配されている。塩分は普通の海の5倍とも10倍とも言われ、25%くらいは確実にある。「ドォウナリエラ」という藻が一部の場所で生きているらしいが、それ以外の生物が確認されたことはない、その名の通り「死の海」である。
 
  この地域は聖書の世界でもある。旧約聖書の申命記に、「アバリム山(ネボ山)に登り、主がイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ」と主がモーセに告げる場面がある。十戒を受けたモーセは約束どおり、ヨルダンのネボ山に辿り着き、はるか死海の向こうに広がるエルサレムを「あれが約束の地だ」と確かめて、そこで120歳の生涯を閉じたと聖書に書かれている。

モーゼ終焉の地ネボ山から見た死海

 シリアのダマスカスで車を頼み、いくつかの遺跡を見た後、国境を抜けて、まずはネボ山を目指した。ヨルダンが山がちな国なのか、たまたま行く方向に渓谷が多いのかわからないが、とにかく山に至る道はアップダウンが多い。ネボ山一帯はサンフランシスコ教会管轄で、前のローマ法王パウロ2世も訪れた聖地だ。中はきれいに整備され、道なりに進むと床のモザイクが美しいモーゼ記念教会に出る。その奥の展望台から死海が望めた。
「エルサレムも死海も全然見えないことが多いのですが、ラッキーですね」と現地ガイドが言う。ネボ山はオリーブなどの木々で覆われて青々しているが、太陽が輝いているのに、目の前の景色には紗がかかっているようだ。ブッシュや石がごろごろした荒れた傾斜地がほとんどで、たまに耕地らしき緑地が見える。正面にはヨルダン川が横たわっている。川に沿って左に目をやった46キロ先に、死海と対岸の低い台地エルサレムが白っぽく霞んでいた。
  初めて見る死海は思っていたより大きく、砂塵で煙っているせいもあるのか、どこか神秘的だ。総面積は1020km、南北に78(60キロ説あり)km、東西に18(17キロ説あり)kmもある。

 ジェリコ、ベツレヘム、エルサレム、パレスチナ・・・。ガイドは、それぞれの土地の方向を指差しながら説明をしてくれた。「何故あそこが約束の地だったのでしたっけ?」「主がそうおっしゃったからです」。ニュースでもしばしば耳にする地を遠くからでも生で見ると、ただ美しいという感想とは異なる複雑な思いが胸をよぎる。でも、ここでの質問は聖書の世界にとどめたほうがよさそうだ。以降は説明をサラリと聞きながら、これから訪れる死海をただ見つめた。展望台から見る景色は静物画のように静かだった。

世界で一番低い土地―マイナス390mの謎

「死海に夕日が落ちるところもきれいだから、間に合うように行きましょう」
  運転手のアハメッドはそう言って、時には片道4車線もある広い道を飛ばした。シリアから来ると、ヨルダンのメインの道路がきれいに舗装されているのが印象的だ。ただ道の両脇は近くで見てもやはり荒地で、ヤギや羊の群れがのんびり歩いていたり、たまにレンガを積んだ簡素な家が見えるだけ。
  野菜を満載した小さなトラックがしばしばすれ違う。荷台にそれぞれカラフルな模様が描かれているのが目を引く。死海のあたりは他の場所より年中気温が高く、ナス、キュウリ、トマトなどアラブ料理に欠かせない野菜が普通より早く収穫できるらしい。
  死海の方向には、薄水色の空の下に、低い山々がレイヤー状にいろいろな色を見せていた。私たちは海抜マイナス390mを目指し、ひたすら下り坂を進んだ。

マイナス390M・死海の地形の説明

 ところで、マイナス390mって何なのだろう。世界で一番低い土地というのも死海のキャッチフレーズだが、前々から不思議だった。道中、海抜0mの道の脇に、その答えを記した看板を見つけた。要は地中海の水面を水準点0にして、そこからマイナス390mの低い位置にあるということらしい。渓谷に囲まれるとそんなことが可能になるのかな・・・。 その何故はよくわからないけれど、図解では一応納得。

 アハメッドは時間に正確で、とても真面目なドライバーだ。「アラブ時間」と言われる決められた時間に無頓着なのは、むしろ我々のほうだった。面白いのは、1時間黙っていたら死んでしまうのかもしれないと思えるほど、運転しながらよく電話をする。アラブの人たちはたいていそうなので、別になんとも思わないが、旅行中、その彼が電話をする気力すら失ったときがあった。
  突然、パトカーに止められて、20キロオーバーのスピード違反で、切符を切られてしまったのである。 その場で罰金15ディナールを徴収された。国境を抜けるときに、隣国人同士の移動はEU並みに簡単だなぁと感心してみていたけれど、違反も同様に容赦しないようだ。「90キロ出していたから・・・」と肩を落とすアルミール。日本円にして4500円くらいだと思うけれど、彼の日当はいくらなのだろうか。
「あなたたちのために急いだのだから、皆で罰金を分け・・・」とまで言って黙り、その後、運転のスピードが極端に遅くなった。
「その速度なら隣を歩いている羊の群れと変わらないんだけれど」「陽が沈む前に死海に着くのかなぁ」。友人とブツブツ言っていたら、坂の右前方に死海が見えてきた。水面はキラキラ輝いて、その向こうにはイスラエルの地もはっきり見えた。日が傾いてきたのを見て、気を取り直したのか、再びアハメッドはスピードを違反しない程度に上げてくれた。そして、なんとか日が落ちる前にホテルに着くことができた。

お酒は出ないけど、豊富な野菜と羊肉の料理は絶品!!

死海の夕陽

 ホテルのチェックインを済ませ、カメラを持ち、洋服のまま“ビーチ”に飛び出した。遠くからはとても静かに見えた死海は、風が強いせいか、近くで見ると結構小さな波が立っていた。夕日を受けて、赤と青と黒色を混ぜたような微妙な色に光る海に、数人の宿泊客が浸かっていた。マットの上にうつぶせになっているのかと見まがうばかりに、体がほとんど全部見えるほど、体が水面から全部浮き上がっている。
「あんなに浮くの?」
  海岸線は砂地よりも大小の石がごろごろしている所のほうが多い。足元を気にしながら水に近寄り、触ってみると多少ぬるかった。せっかくだから水を掬って、なめてみた。
「うっ」。しょっぱいを通り越して、声をあげるほどまずくて苦い。でも、これだけ苦ければ、私でも絶対に浮くだろう。「早く明日が来ないかなぁ」。心地よい海風に吹かれながら、シルエットになったエルサレムの低い台地に夕日がゆっくりと沈むまで、海にいた。

アラブ料理の前菜

 夕食の時間。イスラム教国のヨルダンだが、ホテルでは問題なくワインも出す一方、街中では「お酒?とんでもない、ありません」というレストランも多い。酒を飲む以前に、自分のいる場所に酒があるだけでも罪深いと考える人もいるのだとか。
  そういう考えはそういう考えとして認めるが、美味しい料理には美味しい酒があうでしょう。アラブ料理は野菜が豊富に使われ、とてもヘルシーで美味しい。特に前菜はゴマ、ナス、ヒヨコ豆をペーストにした料理やトマトやパセリをみじん切りにしたサラダは、毎食食べても飽きない。「ホブス」と呼ばれる丸く平べったいパンをちぎり、おかずをはさんで食べる。メインは串焼き「シシカバブ」など羊の肉がよく出される。羊の種類が違うのか、あちこち元気に歩き回っている羊は地鶏のように味がよくなるのか、臭みもなく、やわらかくて、日本で食べる羊とは味が違う。

まるで椅子に腰掛けたような心地

 翌朝は、少しでも長く死海に浸かろうと早起きした。ミネラルがたっぷり含まれた死海の泥や塩を使うエステティック・サロンがホテル内にあったが、水に浸かり、死海の空気を吸い、ビーチにある泥を体に塗っても同様の効果があるらしい。
  朝食を済ませ、ビーチに出ると、すでにデッキチェアで寝そべっている人たちや水に入っている人がいた。フランス語、ドイツ語、ロシア語などいろいろな言葉が飛び交っている。私たちと同じく、初めて死海に来たのか、皆、最初のうちはおっかなびっくりで、どうしたら体が浮くのかなぁという戸惑いが伝わってくる。

乾くと塩で真っ白になる岩

 その朝は晴れ、水面はなぎ状態。明るいところで水をよく見ると、ウネウネ、どろどろ、まるでシロップを水に溶かしたようだ。でも、とても澄んでいる。そして、魚一匹いない。まずは歩いて水に入ってみた。石には塩がこびりついて、白くなっているものもある。歩いてみると遠浅で、光が当たる加減の違いなのか、水の温かいところと冷たいところが固まっているようにあるのが不思議だった。立ったまま浮いたらすごいと立ち止まってみたが、さすがにこれでは浮かない。  続いて、海に背を向けて後ろ向きに進みながら、お尻を水につけてみた。体重を少し後ろにかけると、椅子に座ったような体勢のまま、体が「ヒョイ」と水に浮かんだ。「エー、こんな簡単に浮いてしまうの??」「写真、写真!」。沈む前に早く撮ってほしいと騒いで、友人にシャッターを押してもらったが、体が沈む様子は一向にない。  仰向けのまま、手足を伸ばしてみた。これももちろんOK。うつ伏せになってみると、顔を水につけないように首を上げようとする力がいるだけで、体は軽々水面に出ている。足を後ろに伸ばして、えびぞりになっても、バランスを崩してひっくり返ることもない。普通の海でこんなことを試していたら、かなり変わった人だと思われるだろう。でも、死海では誰もが、この不思議な浮遊感を楽しんでいる。

浮き輪がなくてもこの通り!

 ただ気をつけなければいけないこともある。これだけ塩分が濃いと、漬かっているうちに、皮膚の柔らかい部分、例えば首筋の辺りがヒリヒリしてくる。強い痛みではないけれど、傷があったら思い切りしみそうだ。マットか浮き輪に乗っている気分なので、手で水を掻くだけで、いくらでも前に進むので、面白がって泳いでいると、飛沫が目に入り、ピンで刺されるような刺激が感じられるので、びっくりした。

粘土のような泥パックで赤ちゃんのような柔肌に?!

 死海のもうひとつの楽しみは、泥パックだ。泥遊びに興じる子供のような大人が、ビーチのあちらこちらにいる。陶器に入った体に塗るための泥が、波打ち際に用意されているので、それで遊んでいるのだ。

これを塗れば、あなたもドロ星人の仲間入り

 美容効果が高いということで、世界中に輸出される濃いオリーブ色をした泥は、かなりの粘性がある。本当の粘土のようだ。この変な色の泥を塗るだけで美しくなるのなら、と体が重く感じるほど体全体に塗りつけてみた。後でどうなるかとても楽しみにしながら、太陽に向かって座り、泥を乾かした。
  10分もすると、体に塗った厚い泥はギプスのようにカチカチに乾いてくる。泥がなかなか落ちないので、水に浸かった。泳いでいるうちに自然に溶けるだろうと思っていたが、時々、体の部分部分が後ろに引っ張られるような妙な感覚がする。「何か生き物がいるの?」。そんなはずはない。泥が固まったまま、大きな塊で、ボロリと体から離れるのだ。水を掻くたび、ボロッ、ボロッと音がするように、泥が落ちた。海から上がると、泥パックの効果で、皮膚は赤ちゃんのようにスベスベになっていた。そういう気がしただけかもしれないが・・・。

 デッキチェアに横たわっていると、日が高くなるにつれて、水はだんだんに青さを増し、水面は鏡のように透明感を増す。対岸のエルサレムはベージュ色に霞んでいる。南は海と空が見えるだけだが、海面と空の区切りがわからない。ちょうど湯気でも立っているように、目が開けられないほどまぶしく白く光っている。なんて幻想的な光景だろう。

太陽を求めてやってくる欧州の人も多い

 風が西から東へそよそよと流れ出した。あるヨットマンから大洋上は匂いがなく、潮の香りは魚が揚がる沿岸にしかないものだと聞いたことがある。死海にも香りはなかった。ただ空気にもミネラル分が溶け出していて、呼吸するとエネルギーが体にしみこんでくる気がした。
「はぁ、気持ちいい・・・」。気がついたらデッキチェアでうたた寝していた。

ヨルダンとの時差:7時間

ヨルダンに関する情報
ヨルダン大使館
〒100‐0014 千代田区永田町2丁目17‐8
電話:03-3580‐5856

アクセス:
カタール航空=関西国際空港からカタール経由ダマスカス
ほか航空各社=イスタンブール、ドバイ、その他の都市経由でアンマン・クイーン・アリア・国際航空への便あり。

ホテル:Marriot Jordan Valley 205室

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PROFILE

横井 弘海

東京都台東区生まれ。
青山学院女子短期大学卒業。国際英語学校通訳ガイド科修了。ヨーロッパに半年間遊学。テレビ東京パーソナリティ室所属後フリーとなる。「世界週報」(時事通信社)で「大使の食卓拝見」を連載。エジプト大統領夫人、オーストラリア首相夫人、アイスランド首相をはじめ、世界中のセレブと会見しインタビューを行っている。

主な著作:
『大使夫人』
(朝日選書)

大使夫人

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