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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 06 世界10大気持ちいい
横井 弘海
第5回 マチュ・ピチュ

 世界の観光スポットや娯楽についての情報は、いまやさまざまなかたちで手に入れることができる。しかし、それでもまだまだ知られざる「楽しみ」がある。場所、季節、食べ物、人間、そして旅の技術・・・。世界約50ヵ国を旅してきた横井弘海氏が「気持ちいい」をキーワードに、女性の視点からとっておきのやすらぎのポイントを紹介する。

幻の都市、ビルカ・バンバ

マチュ・ピチュ遺跡全景

 ペルーは遺跡の宝庫である。チャビン、ナスカ、チムー、シカン、インカなどいくつもの文明や王国の貴重な遺跡が、アンデス山脈に沿って点在する。まだ発掘が続いているものもある。
 なかでも有名なマチュ・ピチュ遺跡は、約500年前、中央アンデスの標高2400メートルの山頂に築かれた面積約5平方キロメートルにわたる都市の遺構だ。誰が何のために造ったのかわからない。ある日、突然、人々はその場所を捨て去ってしまったとも伝えられる。「地球上にこんなところがあるんだ・・・」と、本やテレビで目にするたび、一生に一度は自分の目で見てみたいと思っていた。

 マチュ・ピチュを巡る謎は1533年に始まる。伝説の黄金郷を求めてやってきたフランシスコ・ピサロ率いるスペイン人によって、「太陽の子」と崇められたアタワルパ皇帝が処刑され、強大なインカ帝国があっけなく滅亡したのが1533年。その後、なんとか生きながらえたインカ族は反乱のための拠点ビルカ・バンバという都を築き、金銀財宝を隠したという。結局、反乱軍は捕えられたものの、スペイン人は都の場所を見つけることができなかった。そして、都の存在は伝説となった。
 19世紀以降、ビルカ・バンバを求めて、多くの学者や冒険家が次々とアンデスの山々に入る。1911年、米国人の歴史家ハイラム・ビンガム一行によって、先住民族のケチュア語で「老いた峰」の意味という「マチュ・ピチュ」から北西の「ワイナ・ピチュ(若い峰)」につながる尾根の上に、ビルカ・バンバではないかと思われる広大な都市遺跡が発見された。これがマチュ・ピチュ遺跡として、世界中にその存在を知られるようになる。しかし、近年の調査によって、マチュ・ピチュもまた幻の都ビルカ・バンバではなかったことが明らかになった。それなら、一体ビルカ・バンバはどこにあるのか、一方マチュ・ピチュ遺跡とは何だったのかという謎が残り、それは解けないまま現在に至っている。

ツーリストポリス

 念願かなって、2001年9月末、ロスアンゼルス経由でペルーに出発した。おりしも9・11テロ事件直後。ロスアンゼルス空港の警備体制は、トランジットのための入国審査ですら厳格で、ものものしかった。
 同じツアーに参加したある男性は、探知機の枠を通った瞬間に止められ、女性係員にズボンのポケットに入れていたペットボトルを指さされた。中の水をその場で飲むようにということらしい。「何故そんなことをしなければいけないのか」と当人は怪訝そうにしつつ、やおら腰に手をあて、一気に水を飲み始める。ただの水だと確認した彼女は、「もういい。行って」と、また、一言も発せずに指だけ動かして彼を通した。ぽかんと彼女を見つめる男性。その光景の一部始終を見ていて、思わず吹き出しそうになったが、当時は、ボトルの水さえ液体の爆弾か劇薬かと思われてもおかしくないほど、空港全体はピリピリしていた。
 ペルーもまた、1996年に起きた日本大使館占拠事件のイメージが鮮烈だったせいか、到着した直後は私も緊張していた。インカ帝国滅亡後、ペルー副王領の主都として栄えたリマは、南米大陸でもっとも気品と伝統を感じさせる都市だと聞いていたが、ホテルに入る前に見学した歴史地区に立ち並ぶスペイン統治時代の豪華な建物よりも、パトロール中の警官のほうが気になってしまった。
「やはりここも厳戒態勢なのかな」と思ったが、よく見ると、いかつい制服の彼らが手にしているのは、拳銃ではなく旅行ガイドブック。一大観光国のペルーには観光客の安全を守る「ツーリストポリス」と呼ばれる警官がいるのだ。

新鮮な魚介類

 リマの中心地から少し離れた海沿いのレストランで太平洋を眺めながらランチを終えた頃には、すっかり緊張がほぐれてきた。ペルーはジャガイモとトウモロコシの原産地ということばかり頭にあったが、そこで食べた魚介類が驚くほど新鮮で美味しかったからかもしれない。食事と一緒に出された「ピスコ・サワー」という甘いカクテルも緊張をほぐすのに一役買った。ブドウを原料としたピスコという蒸留酒にレモン汁と卵白と砂糖を入れてシェイクして作る。ピスコ自体はアルコール度40%以上という強い酒だが、酸味と甘みのついた卵白のホワッとした舌触りがよい。

甘酸っぱいピスコサワー

 ペルーの旅行中の飲み物は、アルコールならこの「ピスコ・サワー」、ソフトドリンクなら「インカ・コーラ」という名の、おなじみのコーラとは異なる真っ黄色のソーダが定番だが、異国気分を高めてくれると同時に、何とも素朴な味だ。

インカの心の歌「コンドルは飛んでいく」

 さて、日本から20時間以上かけてリマに着いても、その足で簡単にマチュ・ピチュへとはいかない。リマの南東にあるクスコへ飛行機で1時間。そこからマチュ・ピチュの麓にあるアグアス・カリエンテス駅まで列車で3時間半、さらに乗り合いバスで2~30分山道を揺られて、空中都市マチュ・ピチュにようやく辿り着く。もちろん、徒歩で何日もかけて、山に分け入ったビンガムの時代とは違い、飛行機も列車も快適だ。マチュ・ピチュへの旅は、まるで一つの物語のように、プロセスで気分を盛り上げながらハイライトの遺跡に向かうようにできている。

クスコ中心地

 そもそもペルーで急ぎ旅は禁物だ。特にマチュ・ピチュへの玄関口、クスコはのんびりせざるを得ない。クスコは標高3500メートルの高地にある。富士山との差がたった200メートル程なので、観光客としてはまず高山病にかからないように、ゆっくり身体を適応させなければならない。バスやホテルには酸素ボンベが常備されており、高山病を防ぐという「コカ茶」をあちこちで飲まされる。コカはあの麻薬のコカインの原料になる葉で、それに熱湯に注いで作る茶だが、現地に住む先住民族は宗教儀式に用いたり、疲労回復や健康維持のために日常的にコカ茶を飲んだり、葉を噛んでいる。
 ガイドさんが「噛んでみる?」と、そっとビニール袋からコカの黒っぽい葉の切れ端を差し出した。その怪しさにドキドキしながら口に入れてみたが、なんということはなく無味乾燥で、「こんなの効くのかな」と疑ったが、そのおかげか頭痛の一つも起こらなかった。コカインなんて大丈夫なの?と思われるかもしれないが、葉に含まれるある成分をどう精製するかが問題で、高地で葉っぱの1、2枚を噛むと高山病を防ぐ効果があるらしい。

クスコの風景

 12世紀に作られたインカ帝国の都クスコはマチュ・ピチュへの憧れを盛り上げる街だ。クスコとは、先住民族のケチュア語で「へそ」、つまり、宇宙の中心を意味する。最盛期には北はエクアドル、南はチリまで勢力を伸ばしたというインカ帝国の中心地として栄えた。だが、その時、私の目の前に広がっていた風景は全くスペイン風の街に作りかえられていて、遠くに幾重にも連なって見える赤茶けた色や深い緑色をした山々の中腹のだだっ広い平野には赤レンガの屋根の建物が整然と並んでいた。
 その景色は歴史を知った後は物悲しく見える。「サイモンとガーファンクル」の有名な歌「コンドルは飛んでいく」のメロディがピッタリはまる。それもそのはず、この歌の原曲「El Condor Pasa」はペルーに伝わる伝承曲を元に作られたサルスエラという民族オペラの1曲だ。民族音楽グループ「ロス・インカス」が持ち歌にしていたのを、ポール・サイモンが聞いて、すっかり魅せられ、大ヒット曲になったという。アンデス地方でコンドルは、インカ帝国滅亡後、スペイン統治に反乱を起こして処刑されたインカ皇帝の後裔トゥパク・アマルの生まれ変わりだと伝えられる。もともとインカ帝国の人々の心の歌なのである。

インカ帝国の末裔たち

 しかし、遠くからはスペイン風にしか見えない街も、歩いてみるとインカ帝国の痕跡があちこちに残っている。
 細い通りにははるかに遠くまで強固な石組みの壁が続き、スペイン風の修道院が乗っかるように建てられている石組みの基礎も残っている。アジア人を彷彿とさせる面差しの小柄で浅黒い顔をしたインカ帝国の末裔たちは、カラフルな民族衣装に身を包み、観光客の被写体になったり、民芸品を売ったりしている。決して裕福そうではないが、先祖が造ったかみそりの刃さえ通さない精密な石組みの前で微笑むその表情は、自分の血を誇らしく思っているように見える。

「アウトバコン」で遺跡を目指す

観光列車「アウトバゴン」

 いよいよマチュ・ピチュである。高山病の心配はまずない。何故ならマチュ・ピチュは山の上だから標高が高そうなイメージだが、クスコからマチュ・ピチュに行くと、高度は1000メートルも低くなる。空気もだんだん濃くなる。頭痛はもともとなかったし、爽快感は増すばかりだ。
 観光専用列車「アウトバゴン」は、クスコの中央市場の前にあるサン・ペドロ駅を毎朝8時前に出発する。赤と黄色に塗り分けられた列車は、外装こそ派手だが編成は確か2両程度の小さな電車だった。茹でたてのトウモロコシがホーム周辺で売られていて、その湯気にひかれて、つい買ってしまう。車内ではパンとフルーツの軽い朝食をかわいい女性が運んできてくれる。通路を挟んで左右二人がけの車内は清潔で社内から見える展望が自慢だ。

車窓から見えるウルバンバ川

 町を抜けると、道中は山あり谷ありの起伏に富んだ風景が続き、途中からはマチュ・ピチュまで伸びるウルバンバ川沿いを走る。終点のアグアス・カリエンテス駅まであっという間に時間が過ぎる。
 駅の周辺は川に沿って開けた山間の小さな村だ。温泉もある。駅前にはカラフルでなかなかおしゃれな絨毯や民芸品が、木枠の上にトタン板を載せた露店に並んでいたり、道端に咲いている花にくちばしを入れて蜜を吸っている鳥が、本でしか見たことのなかったハミング・バードだったりと、小さな楽しさに満ちている。そして、山の上はマチュ・ピチュ遺跡だ。
 歩いて登る以外、ほとんどの観光客は駅前で待ち構える乗り合いバスを利用して、「ハイラム・ビンガム・ロード」という遺跡の発見者にちなんで名づけられた九十九折の急な山道を登る。駅と遺跡は標高差にするとわずか400メートルだが、下からだと遺跡がどこにあるのか、全くわからない。
 車内は装飾も何もなく殺風景だが、私たち乗客は、どの瞬間にマチュ・ピチュが見えるのかと、左右せわしなく窓の外の険しい山を見上げるのに忙しく、内装など気にならない。だが、バスからだと遺跡は全く見えない。「空からしか見えない“空中都市”と異名を取るだけある」と、それなりの納得をしつつ、バスを降りる。
 山の頂上からは、首が痛くなるほど見上げた山々が今度は眼下に広がる。ガードレールから下を見るのが怖いほど深い緑の谷。でも、停留所を降りてもまだ遺跡は見えない。
「いったいどこにあるのだろう・・・」。見晴らしがよく、入場券売り場の先には、ワイナ・ピチュと思しき山が見えている。なのにお目当ての遺跡だけが視界にないとは、なんとも不思議だ。

16世紀も今も、同じ場所に-“空中都市”

神聖な広場と三つの窓の神殿

 だが、入り口からその山の方向に伸びる道を少し歩くと、あれほど探しても見つからなかった遺跡が、目の前に突然ひょいと姿を現した。石で積み上げられた神殿、一面緑の広場、三角の壁が一列に残る住居群、そして牢屋や墓地などの都市遺跡と、斜面の傾斜に沿って石壁で階段状に仕切られた段々畑の遺構などが、マチュ・ピチュの頂上から尾根づたいに壮大に広がる。遺跡のスケールは思ったよりずっと大きく、切り立った山々の頂を周囲にはべらせるような姿には威厳すら感じられる。肌にそよそよ吹く涼しい風が、マチュ・ピチュ遺跡までやってきたことを実感させた。
 一望に見渡せる風景は、もちろんすべて廃墟だが、山を渡る風の音は、まるで人が生活をしていようにも聞こえる。遺跡が人工的に修復され過ぎているからではなく、都市の機能が揃っていて、屋根をかければ、人が住めなくもないからだ。

人気者「リャマ」

 辺りでは、古代から荷物を山の上に運ぶのに使われる「リャマ」というコブのない小型の白いラクダがのんびり歩いていて、雰囲気を盛り上げて?いた。聞いたところによると、日本の旅行会社が贈ったものらしいが、観光客には絶対の人気を誇っており、観光地と思えば、そういうのもありなのかもしれないと、私もリャマと遺跡をバックに写真を撮ってしまった。

500年前の階段
中央が磨り減っている

 遺跡は自由に散策できるので、1日かけて中をゆっくり見ることができる。中央が磨り減ってしまった階段などを上がって行くと、何故こんなところに、誰がこんなものを造ったのかという疑問がわいてくる。リャマだと多分動かせないほどの巨石が都市に運びこまれている。また、石畳みが500年もの間、崩れない高度な技術は何なのだろう。
 遺跡に多く使われている花崗岩に触ってみた。ヒンヤリとした感触。何かを語りかけてくれそうな気がするが、そんなはずもない。ただ、数百年前にここにいた誰かが、もしかすると同じ石に触れて、私と同じようにその感触を心地よいと思ったかもしれない。そんな想像をしてみると、不思議な気持ちになる。
 この都市は何のために作られたのだろう。太陽を崇めたインカ帝国の神官達が統治していたのか、「太陽の処女」と呼ばれる宗教活動に従事した女性が生け贄にされた場所なのか、王様の別荘、あるいは先史文明の遺跡・・・と諸説紛々だが、16世紀も今も、同じ場所に、何らかの意味をもって、その石が置かれていたのは事実だ。

 インカ文明は文字を残さなかったというが、だからこそ、歴史へのロマンはよけいに強くなる。同じ16世紀の日本の武将「織田信長」について研究をしていた知人が「500年も前のことなんか、誰も本当のことを分かるわけがない。だから、自分の人生と照らし合わせて、想像を巡らせる楽しみがある」と語っていたことを思い出した。
 自分の想像を超える歴史があることもマチュ・ピチュから知らされる。ここに立ってみると、500年という遥かな時空が自分のなかに迫ってくる。
 他の遺跡ではあまり味わえない、それが誰なのかはわからないけれど、そこに人の営みがあったことが何故かリアルに感じられるのだ。

ケーナを吹くガイド

 マチュ・ピチュの中央にあるサッカーの試合ができそうな大きな広場の草の上に、ツアーの参加者たちがどっかり座ったところで、ガイドさんがケーナという尺八に似た縦笛で「ふるさと」を吹いてくれた。広場に響き渡る音色の耳ざわりがよいこと。地面に腰をおろして見上げる周囲の遺跡は、歩いて見るのとは違う神々しさがあった。
 マチュ・ピチュの隣には、部屋の窓から遺跡が目の前に見える「サンクチュアリー・ロッジ」というホテルが建っている。予約の取れない宿泊費の高いホテルとして有名だが、いつかはそこに泊まって、月の夜、朝陽の中のマチュ・ピチュも眺めてみたい。マチュ・ピチュは後を引く遺跡である。

(敬称略、つづく)

宿泊案内:
Machu Picchu Sanctuary Lodge
Monumento Arqueologico de Machu Picchu, Machu Picchu, Cusco, Peru

問合せ:
Tel: +51 84 21 1038
Fax: + 51 84 21 1053

宿泊施設:
客室数: 33室

宿泊料金:
Single US$ 474
Double US$ 567
Double with a view to the mountains US$ 675(Suite US$ 768)
(2005年、3食、サービス料込み、要確認)

各種情報:
マチュピチュ遺跡
入場料 US$ 20(要確認)

ペルー観光
URL:http://www.peru-japan.org/

アクセス:
北米都市経由リマは各航空会社
(ヴァリグ・ブラジル航空は現在、ロスアンゼルス経由ランチリ航空乗り換え)

リマ-クスコ 空路1時間
クスコ・アグアス-カリエンテ ペルー・レールで3時間半
アグアスカリエンテ-マチュピチュ バスで20分から30分

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PROFILE

横井 弘海

東京都台東区生まれ。
青山学院女子短期大学卒業。国際英語学校通訳ガイド科修了。ヨーロッパに半年間遊学。テレビ東京パーソナリティ室所属後フリーとなる。「世界週報」(時事通信社)で「大使の食卓拝見」を連載。エジプト大統領夫人、オーストラリア首相夫人、アイスランド首相をはじめ、世界中のセレブと会見しインタビューを行っている。

主な著作:
『大使夫人』
(朝日選書)

大使夫人

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