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分校の挑戦、敗者は蘇る
 今年もまた甲子園では熱戦が展開されている。高校野球の頂点である甲子園という晴れの舞台の陰には、数多くの地方大会での戦いがある。そのなかにはやっと部員の頭数をそろえて挑戦する、僻地の学校もある。その一つ、昨年お伝えした青森県の小さな野球部をはじめ、同県のいくつかの分校の戦いを追ってみた。
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1.近年にない実力を貯えて挑戦する夏
2.僻地というハンディが与えてくれたもの
3.鍛えられた分校同士の戦いに
4.小さな学校の速球派エースが奮闘
 この夏の天候不順は、青森県大会にもかつてない影響を及ぼした。開会式が行われたのが7月12日。その翌日、私は朝一番の飛行機で羽田から青森空港に向かった。この日午前11時から弘前市運動公園野球場で行われる青森北高校今別校舎対弘前実業の一回戦を観るためだ。
 この今別校舎とは、かつては今別高校と呼ばれていたが、平成19年度から青森北高校の分校となった。しかし、青森県では分校という名前は使わずに校舎という言い方をしている。全校生徒89人、野球部員は13人ながら、この年は速球でならすエースの存在が注目され、分校ながらどこまでやるかが注目されていた。
 青森空港からはレンタカーを手配してあり、試合開始に間に合うようにできるだけ早く出発したい旨を伝えてあった。天気は時折強く風の吹く小雨模様。試合ができないほどではない。しかし念のため青森県高野連に連絡をとると、「雨でグラウンドコンディション順延になった」という。
 しかたなく、予定を変えて日本海側の深浦町へとレンタカーを走らせた。目的はこのまちにある木造高校深浦校舎。ここの野球部が1998年の夏の大会で「122対0」という高校野球史上に残る大敗を喫したことは有名だが、その後、この野球部や学校、そして地域がどう変化してきたかを、機を見ては私は追いかけてきた。
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近年にない実力を貯えて挑戦する夏
学校のグラウンドで練習する深浦の選手たち
 当時から、生徒数は減少傾向にあり4年前にはとうとう分校(深浦校舎)になった。しかし、野球部は存続しここ数年は指導者と選手が一体となって、限られた人数ながら実力をつけてきた。2008年の夏の大会では、青森工業という伝統校を破りその力が本物であることを誇示できた。
 野球部が近年かつてないほど力をつけたきっかけは、6年前、分校化される前の最後の校長として外崎忠彦氏が赴任してきたことだった。外崎氏は県内では野球指導者として有名で、過去に野球部の監督として弘前実業や木造高校を通算5回にわたって甲子園に導いたことがあり、08年10月からは母校である東奥義塾高校(弘前市)の野球部監督をつとめている。
 その彼が、定年を2年後に控えて日本海沿いの陸の孤島ともいわれる深浦町にある深浦高校に赴任したのを機に、なにか学校に活力をもたせようと、かつて大敗によって話題になった野球部を強化することを思いついた。この大敗の相手が、東奥義塾高校であったというのも妙な因縁ではある。
 当時の野球部の指導者は経験者ではなかったので、一時は外崎校長自らがバットを握りノックをしたというのも小さな学校だからこそできたことだった。彼はかつて弘前実業の監督時代の教え子で、当時県内の他校で教職についている大湯輔氏に声をかけ同校へ教員として赴任するよう働きかけた。それが実現して大湯氏は07年春、深浦高校に赴任、野球部の監督についた。
 彼は、弘前実業高校の野球部のナインとして1996年夏に甲子園に出場した経験をもつ。こうした実力のある指導者が赴任するという話は、地元の中学で野球をする生徒たちや保護者に伝わり、中学時代の野球経験者が11人も野球部に入ってきた。
 その彼らを大湯監督は徹底的に指導するが、この夏の大会では八戸工大一高という実力校と初戦であたり、「25対2」の大差でコールド負けを喫した。しかし、分校化となった翌08年の春には新入部員が3人入り、練習の成果もあって夏の大会では初戦で青森工業を「5対4」で破るという快挙を成し遂げた。
 おまけにこのときのチームは二年生と一年だけ。秋の大会では気負いすぎたのか実力が空回りし、いいところはなかったが、翌年はさらなる成果が期待された。大湯監督だけではなく、彼と同時期に深浦に赴任し、野球部部長となった同年代の平山学氏と翌年赴任し副部長に就いた二十代の竹内俊悦氏のふたりもまた野球経験者であり、大湯氏とともにトロイカ体制で指導にあたった。
 礼儀や生活面からも指導をするのが大湯氏の方針で、野球はこうした規律と姿勢を大事にしながら、技術を磨き、加えて考えさせる野球を試みた。僻地の学校の子供たちは、一般に純朴で素直だが自発性に欠けるといった話をよくきく。深浦の生徒たちもこの例外ではなく、引っ込み思案なところがあり、試合という勝負では覇気が表に出ない点があった。しかし、練習では素直に監督たちの指導を聞き入れ、実践することで実力を伸ばしていった。
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僻地というハンディが与えてくれたもの
 部活ひとつとっても、分校など僻地の学校の抱えるハンディは大きい。練習面では人数が少ないから自前で練習試合は組めない。球拾いでもなんでも全員でしなければならない。ときには指導者も加わる。遠隔地から通う生徒は多く、さらに交通の便は悪いから練習時間は制約される。深浦も学校の近くには鉄道ファンの間では有名なJR五能線が走っているが、本数が少なく、遠方から通う部員のなかには、家族に車で迎えに来てもらったりするものもいる。
 部活のOB会や後援会の組織も大きな学校に比べて小さい。保護者をめぐる経済的な環境も都市部に比べて厳しい。深浦では生徒によっては、部活の合間に新聞配達や、冬には年賀状の配達、さらには、最近地場の農産品として話題になっている「雪ニンジン」というニンジンを掘るアルバイトなどをして、部活の費用を捻出している。
 他校との練習試合ひとつするにも、深浦の場合たいてい1時間半以上はかけて出かける。そのたびに、監督も部長も車を運転していく。夏の大会で一番遠い会場となる太平洋岸の八戸市までは約4時間かかる。当然、前日から宿泊することになる。それが雨で延びればもちろん連泊だ。当然費用も時間もかかる。あらゆることにおいて効率という面ではハンディがある。
 しかし、物事にはすべて裏表があるように、ハンディをおうことは悪いことばかりを意味しない。効率が悪いことをあたりまえだと思ってきた生徒たちは、それなりの忍耐力を自然と身につけている。これらを強さに変えるのは指導者の力だろう。熱意と誠意のある指導者に出会ったとき、素直でねばり強い彼らの真価が発揮される。そのまた逆も真であり、腰掛け気分で僻地の学校に赴任したことを不運などと感じているような、教師・指導者のもとでは彼らの長所は伸ばされることがない。
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鍛えられた分校同士の戦いに
海沿いを走る五能線にある驫木駅
 大湯監督のもとで09年を迎え、3年生主体のチームでこの年の夏はどんな戦いをするかは、このチームを一年のときから見てきた私にとっても興味深かった。ところがその前に予期せぬ事態がおきた。新年度を機にこの大湯氏が他校へ転勤になることになったのだ。家庭の事情によるもので本人も去りがたい気持ちを抱えての残念な異動であった。しかし、部長の平山氏が監督に、副部長の竹内氏が部長に就任、これまでどおりの練習方針に、さらに自分で考えさせる指導をする平山色を加えて再スタートを切った。この春に赴任した若い木村圭良氏もスタッフに加わった。
 夏の大会は実力とともに、組み合わせで勝敗は左右される。これまでの春の大会の結果などをみれば、深浦は、県内の野球部のなかで中レベルの実力はつけていた。いきなり強豪と当たらなければ3回戦、4回戦もねらえる欲をもってもいいところまできた。抽選の結果、今年の相手は同じ分校である大湊高校川内校舎となった。分校とはいえ、川内は部員も19人と深浦より多く今年度で8年目を迎える半田拓也監督に鍛えられたチームだった。県高野連関係者の間では川内の方がわずかに力は上ではないかという見方が多かった。
 地元の生徒だけ、それも少人数という限られた戦力のなかで、いかに戦うかという戦略を立て、強化するという点では深浦も川内も同じだった。青森県内にはいわゆる分校は9校あってこのうち5校が野球部を存続させていた。74校が参加する今大会では、4会場(青森、弘前、八戸、六戸)に分かれて行われる予定だったが、この5校のうち3校が弘前での試合となり、2校が青森での試合となった。
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小さな学校の速球派エースが奮闘
 雨で一日遅れた14日午前11時、青森北高校今別校舎と弘前実業の試合がはじまった。全校89人の生徒は、学校あげての応援を予定し、前日は早朝、津軽海峡に面した今別の町を出たものの、私のように中止の連絡を受けていったん引き返し、この日改めてバスで約2時間をかけてやってきた。
力投する今別・泉谷投手
 今別はレギュラーのうち1年生が4人で5人が3年生で2年生はいない。最速140キロの速球を投げるといわれる注目の今別の3年生エース、泉谷優斗は声援を受けながら、小さく振りかぶり胸の前でワンクッション置くようなフォームで右腕から速球を繰り出す。このストレートを中心にまずは安定した立ち上がりを見せ、弘実打線を1、2回は3人で抑えた。
 先制したのは今別で、3回に長打と相手のエラーが絡んで弘前の好投手唐牛から1点をもぎ取った。しかし、その裏死球で出した走者を安打で返され1-1の同点とされた。その後は両投手の投げ合いがつづいたが、今別は唐牛の変化球に翻弄され追加点を取れなかった。一方の弘実は4回、5回にも安打と四球を効率よく絡めて1点ずつ加点、最終的に3-1で今別を振り切った。
 試合後、3年生の泉谷投手は「いい試合でした。1年生がここまでやってくれるとは思いませんでした。相手がどんな強い学校でもチーム一丸となってぶつかっていこうと思っていた」と、涙ながらに話した。中学時代から投手として注目され、強い野球部を持つ学校から声もかかったが、あえて地元の学校を選んだ彼の心意気を示すような言葉だった。
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