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戦争によって、二つの祖国の間で彷徨う魂「ノー・ノー・ボーイ」を探した先にみえるもの 戦争によって、二つの祖国の間で彷徨う魂「ノー・ノー・ボーイ」を探した先にみえるもの(2)
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3. 成功を知らずに、逝ってしまった作家
4. フィクションに事実から光をあてる
5. 問い続けられる戦時中の対日系人政策
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成功を知らずに、逝ってしまった作家
 今回公開された「In Search of No-No Boy」は30分弱で、ジョン・オカダ個人の歴史と小説「ノー・ノー・ボーイ」が生まれる背景、そして作品への批評、評価についてまとめている。具体的な手法としては、フィクションの中から一部を映像化したり、実際の映像や写真を使用しているが、その多くは関係者へのインタビューで構成している。
  ジョン・オカダ個人については、未亡人のドロシー・オカダをはじめ、彼の長女、長男、そして弟が登場。また、この作品を世に出す運動をした作家で中国系アメリカ人のショーン・ウォンや日系詩人のローソン・イナダ、ワシントン大学のエスニック・スタディーの教授、ステファン・スミダが解説する。
  このほか、収容所を体験し、徴兵を拒否したフランク・エミや当時、ノー・ノー・ボーイと呼ばれたジム・アクツとジーン・アクツの兄弟もインタビューに答えている。ジム・アクツ(故人)は、若い頃ジョン・オカダに当時の体験談を話したことがあり、小説の主人公イチローのモデルと言われている人物でもある。彼の母親は彼がノー・ノー・ボーイであったことに、仲間はずれにされいじめられたことなどで自殺したとみられている。
  イチローは徴兵を拒否して刑務所に入ったという意味では、本来の意味でのノー・ノー・ボーイではないが、アメリカという国家への忠誠を欠く人間とみられるわけであり、こうした人物を主人公とした小説が、出版当初はアメリカの日系社会のみならずアメリカ社会でも受け入れられなかったことが改めてわかる。
  ジョン・オカダとその家族は、戦争中はアイダホ州のミネドカ収容所に入れられたが、ジョンは志願して従軍、MIS(軍事情報部)に所属して太平洋戦線に赴く。終戦後はシアトルに戻り、その後ニューヨークなどを経てデトロイトの図書館に勤務、最後はロサンゼルスの企業でテクニカルな文書作成の仕事をしていた。
シアトルにあるジョン・オカダの墓
  インタビューによれば、家族は小説家としてのジョンについてはほとんど知らず、また、作家になることができず、仕事という点では彼は生前決して満足できなかったという。ようやく70年代に入って、徐々に注目を集めるようになるが、その時彼はすでにこの世を去っていた。自分の作品は成功とはいえなかったという思いのまま亡くなったことになる。
  今後、この映画はさらに編集を施され完成される予定という。
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フィクションに事実から光をあてる
 監督でありプロデューサーでもあるフランク・アベは、51年生まれの日系三世。両親は帰米二世で福岡県での生活経験もあり、その意味では日本とのつながりは強い。父親は10代のころ収容所にいた経験をもつ。アベ自身は、現在は地元キング・カウンティー郡政府のコミュニケーション・ディレクターをしている。
  彼が最初にこの小説と出会ったのは73年で、その後CARPのメンバーと出会い、この小説と深く関わるようになり、しばらくしてシアトルに移った。「ノー・ノー・ボーイ」と呼ばれた人々をはじめ二世の気持ちを理解したかったという彼は、2000年には戦時中に徴兵を拒否した日系人を取り上げた「Conscience and Constitution」というドキュメンタリー映画を完成させた。
  今回の作品では「ノー・ノー・ボーイ」というフィクションに描かれた世界とジョン・オカダを追うことで、日系人のアイデンティティに迫った。その方が真正面からドキュメンタリーとして、「ノー・ノー・ボーイ」と日系人をとらえるよりも効果的だと判断したからだろう。事実、この小説にはよく見れば、さまざまな境遇や立場にある人間が登場し、多くの根本的な苦悩や疑問が詰め込まれている。
  6月に映画が図書館で公開されてから数日後、シアトル市内のコーヒーショップでアベと会うことができた。そこはダウンタウンのはずれ、アジア系のショップなどが固まる地区の近くで、すこし高い所に位置している。アムトラック(鉄道)の鉄路がたどり着く、煉瓦造りの古びた駅舎と、その横に時計台が天を突くように立っているのが見える。
  時代から取り残されたようでもある、このキング・ストリート駅は、小説のなかでも古ぼけた時代物としてイチローの目には映る。刑務所からシアトルに戻ってきたイチローがバスを降りた場所もそう遠くない。
「ここから見えるのは、“オカダの世界”なんだよ」と、アベは優しく微笑みながら言った。
キング・ストリート駅の時計台
    かつては、イチローに象徴された“ノー・ノー・ボーイ”も、そして戦地から復員した日系人兵士たちも、この界隈を複雑な気持ちで往き来していたのだろう。
  アベは多くのことを語ってくれたが、私が理解する範囲で「ノー・ノー・ボーイ」の魅力についてこう強調した。
「自分は何なのか、どう生きたらいいのだろうかなど、この小説のなかではいろいろなことがつねに(主人公によって)、自問されている。それがこの作品の性格を強くしている」
  自問し、苦悩するイチローの姿は、多くの二世・三世の日系人が多かれ少なかれ共有する感覚だったともいえる。小説のなかではこの主人公に対して、つらくあたる者ばかりではなく、むしろ善意で彼を受け入れ、助けようとする人物が登場する。彼の大学への復学を勧めてくれる教授や彼の経歴を知りながら仕事を差し出してくれる人がいる。しかし、彼はそれをすぐに受け入れない。受け入れられない何かも抱えている。その点にアベは共感を覚えるという。
「仕事をもらえるからといって、例えば白人にありがとうなどといって簡単に受け入れるのではなく、ありがとうと言う気持ちはあっても、何かがまちがっていると感じて、結構ですとイチローは言う。仕事を得ることよりも、彼にはまず自分がだれであるかを知ることが必要だった。彼は日系アメリカ人というアイデンティティをつくろうとしていた。アメリカ人でもない、そして日本人でもない・・」 
イチローがバスを降りた交差点付近
  この小説が民族研究などのテキストとして大学などで使われているように、この映画も広く、研究・学習の素材として提供されることを目的としている。
「高校生だって同じように自身について疑問をかかえている。フットボールチームに入るべきかどうか、どういう仕事をしたらいいのか、など自問していると思う」と、彼は言う。
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問い続けられる戦時中の対日系人政策
 本誌の「スペシャル」(7月30日号)で、シアトルにある北米報知の佐々木志峰記者が触れているように、シアトルにあるフォート・ルイス基地に勤務する日系アメリカ人であるワタダ中尉がイラク戦争への従軍を拒否して軍法会議にかけられている。このことで、地元の日系人のなかには、彼の行為を太平洋戦争中の徴兵拒否者や“ノー・ノー・ボーイ”たちの立場と重ね合わせてみる人もいる。
  その意味で、いまもって戦時中に日系アメリカ人が置かれた問題は、議論されるテーマになっている。戦争や収容所体験をもつ二世世代は数が少なくなってきたようだが、そのなかの一人、シアトル在住のヒロ・ニシムラは、収容所に入れられる前に徴兵されて、インド・ビルマ(現ミャンマー)戦線へ赴き、ジャングルのなかを生き延びた。そうした苦労を背負いながらも彼は言う。
「この問題について突っ込んで議論しない。私はこういう立場にある人は、とても難しかったろうと同情します。私はかえって従軍して助かったと思っています」と、いま振り返る。しかし、日系の退役軍人のなかには、いまもってかつての「ノー・ノー・ボーイ」に対して反感を持っている人たちがいるのも事実である。 
  どちらが正しいとか間違っているという問題でないのはいうまでもない。繰り返していえば、それぞれに事情があり、こうした複雑な状況に陥れたのも戦争があったからにほかならない。非難されるべきは戦争そのものであり、政府との関係で言えば、収容所政策である。
  これについては戦後長らく、地元の日系社会では忘られざるべきこととして、残しておこうという動きがずっとつづいている。今回シアトルを訪れた際に目にした最近の例を紹介しよう。
  ダウンタウンの船着き場からフェリーで30分ほどのところにベインブリッジ島という閑静な地区がある。この地の日系人コミュニティーの人たちは、太平洋戦争がはじまってから最初に強制移動させられたといわれる。この歴史を教訓とし、このようなことを繰り返してはならないという意図で、現在地元の日系人コミュニティーを中心に「WWII Interment and Exclusion Memorial Project」という計画で、記念公園の建設が少しずつ進んでいる。

日本語も刻まれた記念碑(上)とオフィスの写真を見るF・キタモト
  地元で日系人会の会長をつとめるフランク・キタモトの案内で現地を訪れることができた。地元で歯科医をする彼は1937年生まれで、家族とともに幼い頃収容所に入れられた経験をもつ。オフィスには当時の写真が壁一面に並べられていた。
  公園化が計画されているかつて桟橋があったところでは、記念の石碑が建てられていた。そこには「Let it not happen again」という英語に添えて、「二度とないように」、「Nidoto Nai Yoni」と、日本語でも大きく表記されていた。そこには英語が得意でなかった一世や一部二世の気持ちを汲んでいるように思えた。
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