この映画はどのようなテーマでいったい何を描いているのか。その前に、ベースとなった小説「ノー・ノー・ボーイ」について説明をしたい。作者は、日系アメリカ人二世のジョン・オカダ。彼は1923年にシアトルで生まれ、57年にこの作品を発表、そして71年に47歳で心臓発作のため亡くなった。彼が完成させた唯一の作品がこの小説だった。
「ノー・ノー・ボーイ」とは、いったい何を意味するかというと、戦時中にアメリカ政府が強制収容所内の日系人に対して行ったいくつかの質問のうち、ある二つについて「No(ノー)」と答えた者が、こう呼ばれた。
質問は、アメリカに対する忠誠を確認するためのもので全部で33項目にわたったが、そのうち第27と第28が特に重要だった。敵性外国人として扱われた日本人に対するそれはいわば踏み絵といっていい内容であった。
第27項は、徴兵年齢に達していた男子に向けられ「あなたはいかなる場所にあっても戦闘義務を果たすために合衆国軍隊に進んで奉仕する用意はあるか」と質し、つづく第28項では、すべての収容者に対して「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、外国や国内のいかなる攻撃からも合衆国を守り、また、日本国天皇をはじめ、いかなる外国の政府・権力・組織に対しても忠誠を示さず服従もしない、と誓えますか」が、突きつけられた。
この二つに対して、ひとつでも「No(ノー)」という答えをしたものが、「ノー・ノー・ボーイ」という、いわば不忠誠組として扱われた。当時、アメリカにいる日本人・日系人といっても、質問に対する考え方、敷衍すれば、日米間の戦争をどうとらえて、自分はどういう対応するのかは、まさにさまざまであった。
当時は日本から移民してきた一世とその子どもたちの二世がほとんどを占めていたなかで、民族的な意味での「日本人」が染みついている者も多くあれば、一方で、すでに「アメリカ人」として生活してきた者など、個々に置かれた状況も歴史も異なっていた。例えば、二世のなかでも「帰米」といって、アメリカの親元を離れていったん日本に帰って教育を受けてまたアメリカに戻るという経験をもつ者もいた。
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シアトル市内の日系経営のスーパー「UWAJIMAYA」 |
自らのアイデンティティを日本人であることに置く者、また、名実ともにアメリカ人になろうとする者、そしてその間で揺れる者。問題の質問に対しては、「アメリカ市民として義務を果たして生活してきたのに、なぜその権利を剥奪して収容所に隔離するのか。さらに、権利を剥奪しておいて、今度はアメリカ人として戦えというのか」という矛盾に憤りを覚え、その結果が答えとなった例は多々あった。
「ノー・ノー・ボーイ」は、全体からみれば少数派で、さらにそのなかでもまた急進的な日本擁護論者たちもいれば、兵役忌避を目的とするものたちなどもいてひとくくりにはできない。ただ、全体としてはアメリカ政府から反抗分子とみられ、彼らだけが集められて収容されることになった。
彼らとは反対に、アメリカ兵として志願して戦地に赴く者も当然いた。日系人の部隊としてヨーロッパ戦線でその勇敢な戦いぶりで功績を残した442部隊は有名だが、多数の死傷者を出した彼らにとっては、一般的に「ノー・ノー・ボーイ」たちは認められない、非難の対象であった。
このように同じ日本人・日系人でも、あるいは同じ家族のなかでも世代によってはとるべき道が違ったりと、当時の日系社会のなかは混沌とした状態にあった。この辺の事情は、デイ多佳子が著した『日本の兵隊を撃つことはできない/日系人強制収容の裏面史』(芙蓉書房、2000年)に詳しい。