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戦争によって、二つの祖国の間で彷徨う魂 「ノー・ノー・ボーイ」を探した先にみえるもの
 この夏、アメリカ西海岸のまちシアトルで、「In Search of No-No Boy(ノー・ノー・ボーイを探して)」という短編映画が仮上映された。作品のもとになった同名の小説は、戦時中のアメリカで生きる日系人の苦悩を描きいまも読み継がれるアジア系アメリカ人文学の代表作。映画制作にあたった日系三世フランク・アベの話を含め、小説に込められた時代を超えた普遍的なテーマについてシアトルを訪れ考察してみた。(敬称略)
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1.“踏み絵”の質問に、「どうしたらいいのか?」
2. 出口のないトンネルを彷徨うイチロー
「ヒロシマナガサキ」を制作したスティーブン・オカザキ、「TOKKO・特攻」の監督であるリサ・モリモト。日本の戦争を扱ったこの夏の話題の映画を撮ったのはいずれも日系アメリカ人三世だった。
  スティーブン・オカザキはあるインタビューに答えて、白人の顔をしていないアメリカ人だからこそ、被爆者たちが自分に体験を語ってくれたと話した。このことを含めて日本人である部分とアメリカ人である部分を併せ持つ中間に立つ存在として、先の戦争をある意味、客観的にとらえることができたのだろう。
  しかし、太平洋戦争中はアメリカ国内(西部)の日本人、あるいは日系人は財産を没収され収容所に入れられた。さらに、日本人であることとアメリカ人であることの狭間に置かれたがゆえに、「自分はいったい何者なのか」という自己のアイデンティティの危機を抱えることにもなった。
  時代をいまに引きつければ、これは何も日系人だけの問題ではない。「9・11」以後にアメリカで暮らすアラブ系アメリカ人は、偏見や差別のなかで、アイデンティティの問題に直面せざるをえなかった。
「自分はいったい何者なのか」、「自分はいったい何をすべきなのか」は、広く一般社会の生活のなかでも自問自答される、普遍的な難問でもある。その意味で、強制収容所への隔離といったアメリカ政府による政策によって日本人・日系人の置かれた状況は政治・社会的、かつ心の問題をいまもなおわれわれに問いかける。
  こうした状況にあってどう生きるか、あるいは生きたかは、映像作品や文学作品としていくつも紹介されてきたが、なかでも小説「No-No Boy(ノー・ノー・ボーイ)」は、作品自体の歴史を含めてそのテーマの意味を象徴的に表している点でいまも注目を集めている。今年の夏この小説の舞台となったアメリカ西海岸、シアトルでは「In Search of No-No Boy (ノー・ノー・ボーイを探して)」という、ドキュメンタリータッチの映像作品が、仮上映された。
上映後に質問に答えるフランク・アベ
  制作の中心人物である、日系アメリカ人三世のフランク・アベは長年温めていたテーマを、日系アメリカ人文学として、またアジア系アメリカ人文学の歴史的な偉作をもとに、約30分という短い時間のなかで描いてみせた。
  公共図書館での試写会的な一般公開ではあったが、地元の日系社会への関心を呼んだのか会場は満席という盛況だった。私も日本からこの会場に足を運んだのだが、観客席でみられたのは、多くは地元の日系人と思われる年配者の顔だった。戦時中に強制収容所を体験した人たちも訪れ、上映の後にはアベと観客との質疑応答や意見交換も行われた。
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“踏み絵”の質問に、「どうしたらいいのか?」
 この映画はどのようなテーマでいったい何を描いているのか。その前に、ベースとなった小説「ノー・ノー・ボーイ」について説明をしたい。作者は、日系アメリカ人二世のジョン・オカダ。彼は1923年にシアトルで生まれ、57年にこの作品を発表、そして71年に47歳で心臓発作のため亡くなった。彼が完成させた唯一の作品がこの小説だった。
「ノー・ノー・ボーイ」とは、いったい何を意味するかというと、戦時中にアメリカ政府が強制収容所内の日系人に対して行ったいくつかの質問のうち、ある二つについて「No(ノー)」と答えた者が、こう呼ばれた。
  質問は、アメリカに対する忠誠を確認するためのもので全部で33項目にわたったが、そのうち第27と第28が特に重要だった。敵性外国人として扱われた日本人に対するそれはいわば踏み絵といっていい内容であった。
  第27項は、徴兵年齢に達していた男子に向けられ「あなたはいかなる場所にあっても戦闘義務を果たすために合衆国軍隊に進んで奉仕する用意はあるか」と質し、つづく第28項では、すべての収容者に対して「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、外国や国内のいかなる攻撃からも合衆国を守り、また、日本国天皇をはじめ、いかなる外国の政府・権力・組織に対しても忠誠を示さず服従もしない、と誓えますか」が、突きつけられた。
  この二つに対して、ひとつでも「No(ノー)」という答えをしたものが、「ノー・ノー・ボーイ」という、いわば不忠誠組として扱われた。当時、アメリカにいる日本人・日系人といっても、質問に対する考え方、敷衍すれば、日米間の戦争をどうとらえて、自分はどういう対応するのかは、まさにさまざまであった。
  当時は日本から移民してきた一世とその子どもたちの二世がほとんどを占めていたなかで、民族的な意味での「日本人」が染みついている者も多くあれば、一方で、すでに「アメリカ人」として生活してきた者など、個々に置かれた状況も歴史も異なっていた。例えば、二世のなかでも「帰米」といって、アメリカの親元を離れていったん日本に帰って教育を受けてまたアメリカに戻るという経験をもつ者もいた。
シアトル市内の日系経営のスーパー「UWAJIMAYA」
自らのアイデンティティを日本人であることに置く者、また、名実ともにアメリカ人になろうとする者、そしてその間で揺れる者。問題の質問に対しては、「アメリカ市民として義務を果たして生活してきたのに、なぜその権利を剥奪して収容所に隔離するのか。さらに、権利を剥奪しておいて、今度はアメリカ人として戦えというのか」という矛盾に憤りを覚え、その結果が答えとなった例は多々あった。
「ノー・ノー・ボーイ」は、全体からみれば少数派で、さらにそのなかでもまた急進的な日本擁護論者たちもいれば、兵役忌避を目的とするものたちなどもいてひとくくりにはできない。ただ、全体としてはアメリカ政府から反抗分子とみられ、彼らだけが集められて収容されることになった。
  彼らとは反対に、アメリカ兵として志願して戦地に赴く者も当然いた。日系人の部隊としてヨーロッパ戦線でその勇敢な戦いぶりで功績を残した442部隊は有名だが、多数の死傷者を出した彼らにとっては、一般的に「ノー・ノー・ボーイ」たちは認められない、非難の対象であった。
  このように同じ日本人・日系人でも、あるいは同じ家族のなかでも世代によってはとるべき道が違ったりと、当時の日系社会のなかは混沌とした状態にあった。この辺の事情は、デイ多佳子が著した『日本の兵隊を撃つことはできない/日系人強制収容の裏面史』(芙蓉書房、2000年)に詳しい。
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出口のないトンネルを彷徨うイチロー
 小説「ノー・ノー・ボーイ」は、こうした戦中、戦後の日系人の置かれた状況を背景にして、自らノー・ノー・ボーイの道を選んだ、日系二世の青年を主人公として、彼の内面の葛藤を追っている。名前はイチロー・ヤマダ。現在、シアトルを本拠地に大活躍するメジャー・リーグ・プレイヤーのイチローと奇しくもその名前は同じだ。が、マリナーズのイチローが生き生きとした大ヒーローであるのに対して、小説のイチローは出口のないトンネルに入ってしまったような息苦しさを抱えた存在だった。
現在出版されている「No-No Boy」(英語版)
  終戦直後のシアトル。徴兵を拒否して刑務所に入っていたイチローが故郷のシアトルに帰ってきたところから話ははじまる。久しぶりに出会った同じ日系人の知り合いは、イチローがノー・ノー・ボーイだったことを知ると、軽蔑と憎悪の眼差しで毒づいた。日系であり、かつノー・ノー・ボーイであることでしばしば罵倒される彼は、「自分は尊厳も尊敬も目的も名誉もはぎとられてしまったんだ」と感じる。
  親しい友人のケンジは戦地で片足を失い、それがもとで死の恐怖と戦いながらやがて死んでゆく。日系人のエミは、農場でひとりドイツに駐留した夫の帰りを待つが、夫は実の兄が反米的になり日本へ行ってしまったことを恥じてドイツから帰ってこない。この兄は第一次大戦にアメリカ兵として従軍したことがあり、アメリカ政府が自分を収容所になど入れるわけはないと信じていたが、それが裏切られた怒りでアメリカを敢えて捨てるという悲劇的な選択をする。
  イチローが小さな食料品店を営む両親のところへ戻ると、そこには頼りなげな父親と狂信的に日本を崇める母親がいた。日本の勝利を未だ信じて疑わない母親を父親は正気に戻すことができない。それとは逆にたった一人の弟タローは、兄がノー・ノー・ボーイであることを恥じてイチローを罵る。そして軍に志願するが、それを知って母親は自害する。
  自分のとった道は間違いだったと後悔しながらも、それ以外の選択肢はなかったイチローは未来への閉塞感に包まれながらも、新たな生活を踏み出そうと仕事を探す。こうした彼を温かく受け入れようとする人たちに出会うのだが、果たしてそれに甘んじていいのか自問自答する。そのなかでかすかな希望をつかみかけた感触を得て話は終わる。

  出版された当初は、わずか1500部だけを刷り、話題を呼ぶこともなく終わった。戦争の傷跡が日系人社会のなかに深く残っているころでもあり「ノー・ノー・ボーイ」という存在は、議論のたねになりかねない神経にさわるような事柄だったのだろう。
オリジナルの「No-No Boy」(英語版)
  しかし60年代後半になってベトナム戦争の影響でアジア系アメリカ人の研究に光が当たるようになり、公民権運動の盛り上がりも背景にアメリカにおけるマイノリティーへの認識も高まった。こうした状況のなかで、アジア系アメリカ人のある若者たちが、ジョン・オカダの「ノー・ノー・ボーイ」に注目し、総合アジア系アメリカ人資料プロジェクト(CARP)という組織をつくって自主的にこの作品を再び世に出した。
  アメリカ文学といえば、白人の文学を意味するなかで、これまで埋もれていた「ノー・ノー・ボーイ」もまた偉大なアメリカ文学であるという発見が原動力となった。3000部が刷られほとんど完売、その後79年からは「University of Washington Press」が引き継いで出版、少しずつ版を重ね、一昨年その数は10万部に達するロングセラーとなった。一般読者はもとより、大学などで移民やマイノリティーを研究する上での参考図書としても広く取り上げられてきた。
「ノー・ノー・ボーイ」(日本語版)
  日本では、79年に中山容が翻訳を手がけ、「ノー・ノー・ボーイ」タイトルのまま晶文社から出版され94年までに8100部を数えた。その後品切れ状態となったが、02年に復刊されている。オリジナルには部数は遠く及ばないが息の長い作品となっている。
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