風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series 短歌でよむ日常
語りだすオブジェ 松村 由利子
06/07/31

最終回 ハイヒール・パンプス

冷蔵庫、ネクタイ、フランスパン……。日々の暮らしの中、あまりにも近くにありすぎて、ふだんは目にとめることもないもの。歌人がそんな存在に光をあてると、日常のオブジェは生き生きと語りだす。「もの」を通して情感が立ちのぼる。なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。

 高校を卒業して初めて経験したことと言えば、パーマとパンプスである。大学生になっても真っすぐな髪とスニーカーのままでよかったのに、あの時代は何となく通過儀礼のごとくパーマをかけ、かかとの高い靴を履くものだと思い込んでいた。両方とも全く似合わず、何でこんなことしなくちゃいけないんだろう、と憂鬱になった。特にパンプスは、足元が危なっかしくて、纏足を思い出した。
  ちなみに、パンプスはハイヒールの一種で、留金や紐が付いておらず甲の部分が空いているものを指す。ヒールの高さはさまざまで、就職活動や通勤に使われる日常用もあれば、おしゃれなものもある。かかとの高い女性の靴を「ハイヒール」と総称する人も多かったが、最近はパンプスという語の方が通りがよいようだ。

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PROFILE

松村 由利子

歌人。
1960年生まれ。
94年、「白木蓮の卵」で短歌研究新人賞を受賞。
98年、『薄荷色の朝に』を出版。2005年11月、第二歌集『鳥女』出版。

鳥女

雨の中ハイヒール脱いで駈けてゆこうあなた以外の場所を信じて

畑 彩子

 降りしきる雨の中、もう何もかも捨てて駈けていこうと思う。その作者の勢いは、若さそのものである。ハイヒールを脱げば、思いのままに速く走ることができる。これが、「あなた」に向けて一目散に駈けてゆく、という歌であったら、どれほど幸福な恋の歌だろう。残念ながら、目指すところは「あなた以外の場所」である。「あなた」は信じられないから。信じたかったのはやまやまなのだが、自分を受けとめてくれなかった恋人への失望、怒り、悲しみがざんざん降りの雨と重なる。
 しかし、若い作者自身は気づいていないかもしれないが、「あなた以外の場所を信じて」駈けてゆくときに、なぜハイヒールを脱ぎ捨てるのか。本当に自分が愛用している靴ならばそのまま駈けてゆけばいい。ハイヒールを履くことを暗に強いていたのは「あなた」ではなかったのか。作者は嬉々としてハイヒールを履き着飾っただろうが、それは結局、自分の好むスタイルではなかったのかもしれない。
 ハイヒールを脱ぎ捨てて本来の自分に戻ったとき、「あなた以外の場所」の広がりに気づく。男は「あなた」だけではないし、仕事も友達との付き合いも面白い。世界は冒険に満ちている。若い読者は作者の失恋に胸を痛めて読むだろうが、年齢を重ねた読者は「そうそう、ハイヒールなんて脱いじゃいなさい。あなた自身を信じてどこまでも駈けてゆきなさい」なんて、励ましたくなってしまうのである。

東京

『東京』
畑彩子著
(北冬舎)

草むらにハイヒール脱ぎ捨てられて雨水(うすい)の碧(あを)き宇宙たまれり

栗木 京子

 雨上がりの草むらに、なぜかハイヒールが片方落ちている。雨水が中に溜まって青空を映しているのが、小宇宙のようだ。本当にありそうな、しかし、作り物めいた感じもする不思議な歌である。
 道端に靴が落ちていると、本当にどきっとする。道路なら、交通事故かしら、と思うが、落ちているのが草むらの中だったりするとますます分からなくなる。小さな子どもの靴だと、おんぶされていて落っことしたのかなと、にこにこしてしまうが、大抵は少し気味悪く思いながら通り過ぎる。だから、この作者がハイヒールを見て「脱ぎ捨てられ」と断定しているのは、とても面白い。作者は私のように「あ、ここで何か性犯罪が……?」などと思わないのだ。草むらにハイヒールがあれば、それは女が自ら脱ぎ捨てたものに決まっている。女は草むらをどんどん駈けていって、どこかへ行ってしまったのだ。あるいは、天に昇っていったのかもしれない。そういう女が脱ぎ捨てたハイヒールだから、中にたまった雨水が青空を映して底知れぬ深みを湛えているのである。

綺羅/栗木京子歌集

『綺羅/栗木京子歌集』
栗木京子著
(河出書房新社)

耐えかねて夜の電車にそっと脱ぐパンプスも吾もきちきちである

松村 由利子

 新幹線に乗ると、必ずと言っていいが、出張とおぼしきスーツ姿の男性たちが靴を脱いでいる姿を見かける。悪臭を放つ御仁には遠慮してほしいが、革靴を長時間履く苦痛は自分もよく知っているから、同情しつつ見ないふりをするのが常である。実際、私も電車の中で「もうダメだ!」とパンプスを脱ぐことが何度かあった。
「通勤のときはジョギングシューズを履いて、職場に着いたらパンプスに履き替えればいいじゃない。ニューヨークあたりのワーキングウーマンはそうしてるよ」と言う人がいるが、まあ、そういう女性は日本ではほとんど見かけない。一人で変わった格好をして通勤するには度胸が要る。第一、靴を履き替えるようなロッカールームもない会社は少なくない。私の職場もそうだった。
 管理職になって慣れない仕事に押し潰されそうな日々、帰るのはいつも込み合う夜中の電車だった。一日分の汗でじっとりと湿った靴は足を締めつけ、むくんだ足はしくしくと痛い。その不快さと疲れで、一刻も早くパンプスを脱ぎたくてたまらなかった。やっとのことで空いた席に坐ると、そろそろと周りに分からぬように靴を脱いでひと息ついた。
「きちきちだ」と思った。「パンプスも私も、もうきちきちで我慢できない!」
 ヒールの高い靴を得意げに履いているように見えても、本当のところ、あんなものが好きな女はいないのではないか。我慢してパンプスを履いている毎日というのは、何か自分をだましながら生きている感じがある。
 だから、須賀敦子の『ユルスナールの靴』の冒頭にはしびれた。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで 生きてきたような気がする」--ああ、そうだ。こんな足に合わないものを履いていてはいけない。「じぶんの足にぴったりな靴」を探して、どんどん歩いて行かなければ。
 会社勤めを辞めて何が嬉しかったかというと、パンプスを履いて出かけなくてよくなったことである。毎日裸足でいられるのは、何てしあわせなんだろうといつも思う。けれども、働く女の多くは今日もパンプスを履いて出勤せざるを得ない。家で仕事をするようになった私は、少し彼女たちに申しわけなく思いながら、この歌を読み返す。
 会社員だった頃、自分で作った歌でありながら、読むたびに「ホント、きちきちなのよ」と少しすかっとしたり、「こんなにきちきちで頑張ってるんだもんね」と自分を褒める気分になったりした。パンプスを履いて働いている女たちに、この歌が応援歌として届けばいいなあ、と願っている。

『歌集 鳥女』
松村由利子著
(本阿弥書店)

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