風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series 短歌でよむ日常
語りだすオブジェ 松村 由利子
06/06/30

第23回 日傘

冷蔵庫、ネクタイ、フランスパン……。日々の暮らしの中、あまりにも近くにありすぎて、ふだんは目にとめることもないもの。歌人がそんな存在に光をあてると、日常のオブジェは生き生きと語りだす。「もの」を通して情感が立ちのぼる。なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。

 日傘をさすとき、いつもとちょっと違う心もちになる。紫外線対策とは言え、何だか気取ってかざしたくなる。男性も傘をさすし、日差しを避けて帽子もかぶるが、なぜか日傘はささない。日傘をさすのは、女性の特権の一つかもしれない。

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PROFILE

松村 由利子

歌人。
1960年生まれ。
94年、「白木蓮の卵」で短歌研究新人賞を受賞。
98年、『薄荷色の朝に』を出版。2005年11月、第二歌集『鳥女』出版。

鳥女

生き別れせし子がどこかにゐるやうに日傘をさして陸橋わたる

花山多佳子

 いつもの自分と少しだけ異なるような気分で日傘をさしていると、あれこれと夢想が広がる。レースがいっぱい付いた日傘なのだろうか。何だか貴婦人にでもなったような気分だ。そう言えば、昔「少女小説」というジャンルがあった。生き別れになった姉妹(特に双子)や母子の話がなぜか多かった。お金持ちの家に生まれたにもかかわらず、ふとした出来事によって貧しい夫婦に育てられ、長じて本当の両親にめぐり合う--といった妙な話である。私はそんなものよりも怪盗ルパンや名探偵ホームズのシリーズの方が好きだったのだが、母がなつかしがって図書館で借りてきていたのを読むものがなくて仕方なく読んだりしていた。この歌の作者もそんな空想をしたのか、ちゃんと自分の子どもがいるにもかかわらず、「どこかに生き別れになった私の子どもがいるのかもしれないわねえ」などと思いながら歩いている。陸橋という、ちょっと不思議な空間を歩いている状況もうまく作用しているだろう。ふだんと違う高さから行き交う車や人の流れを眺めていると、自分のいる世界とは別の世界があるように思える瞬間がある。しかし、大事なポイントは「日傘をさして」。日傘なしには、こんな空想は生まれなかったに違いない。

サラダ記念日

『春疾風』
花山多佳子著
(砂子屋書房)

まへをゆく日傘のをんな羨しかりあをき螢のくびすぢをして

辰巳 泰子

 日傘をさす人は、自分を大切にする人である。日傘は、紫外線を避けるには帽子よりも効果的だし、髪もくしゃくしゃにならない。おしゃれのアイテムとしても女らしさを演出できる。では日傘を積極的に使おうか、と考えると、私の場合いろいろな支障があって二の足を踏む。第一に、ジーンズを履いて日傘をさすというのが今ひとつ格好よくない。それから、日傘をさして自転車に乗るというのは、サーカスの曲芸乗りになったような気分になってしまう。日傘のためにジーンズを脱ぎ、徒歩15分かかる駅まで歩いていくというのも難儀だ。そういうわけで、私も「日傘のをんな」に羨望を抱く一人である。
  自分の前を、日傘をさした女性が歩いている。ワンピース姿でもよいが、旧仮名の雰囲気から絽の着物などを着ている女性を想像する。首筋が見えるのだから、長い髪をアップに結っているのかもしれない。その白さといったら、青みがかった蛍の光を思わせるほどだ。誠に誠に、自分にはない優美な姿が妬ましくてならない--。一首のリズムは嫋嫋として、湿った情感を醸しだしている。粘着質なまなざしが女の首筋にねっとり絡みつくようなエロティシズムがある。しかし、面白いことに、「日傘のをんな」の描写に引き込まれて読み終えると、作者自身が「日傘のをんな」であるような錯覚を抱くのだ。「をんな」を眺めているのが作者であるのは明らかなのになぜだろう。多分、「日傘」や「あをき螢のくびすぢ」に羨望を抱く作者の強烈な女性性が、「をんな」にぴたっと取りつくからではないかと思う。舞台の上で、みすぼらしい身なりの女が日傘をさした高貴な女を見て「うらやましいのう」と台詞を吐き、くるりと回転した途端、自らも日傘をさした美しい姿となって「ほほ」と妖艶に笑ってみせる。そんな妖しい魅力を感じる歌である。

世紀

『紅い花』
辰巳泰子著
(砂子屋書房)

パラソルをさして見てゐる海面の無数の擦過傷のかがやき

大村 陽子

「パラソル」というと、「日傘」よりも雰囲気がいっそう優雅になる。気持ちもゆったりしそうだ。ところが、この作者はパラソルをさして海を見ながら、その表面にひだが寄る様子を「擦過傷」のようだと感じている。それは、作者自身が無数の擦り傷を負っているからに他ならない。波のたゆたいによって、縮緬のような表面を見せている海。パラソルをさすくらいだから日差しは強く、海はきらきらと光をはね散らかしているに違いない。こうした明るい風景を見ながら、作者は自分の心に負ったいくつもの擦り傷と重ね合わせているのだろう。「無数の擦過傷」には痛々しさや無残さが漂う。しかし、それを救っているのが、「かがやき」であり「パラソル」である。傷を負ったにせよ、海は輝いている。いや、傷があるからこそ海は輝いているのだ、自分だって同じだ。凛とした表情で誇らかに海を眺めるとき、パラソルは何よりもふさわしい小道具となっている。

『砂がこぼれて』
大村陽子著
(本阿弥書店)

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