風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series 短歌でよむ日常
語りだすオブジェ 松村 由利子
06/02/28

第19回 白い紙

冷蔵庫、ネクタイ、フランスパン……。日々の暮らしの中、あまりにも近くにありすぎて、ふだんは目にとめることもないもの。歌人がそんな存在に光をあてると、日常のオブジェは生き生きと語りだす。「もの」を通して情感が立ちのぼる。なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。

 白い大きな紙。それは、何でも描ける、果てしない可能性の象徴のようだ。しかし、ちょっとでも何か描いてしまうと、もう後戻りはできない。そのことを私は、5歳の秋に学んだ。
  3歳から5歳までの2年間、父の仕事の関係で米ボストンに住んでいた。5歳になって間もなく日本に帰国し、幼稚園に入った。お絵かきの時間になり、クレヨンで楽しく絵を描いていた時だ。はっと気づいた。たくさんの子が、私の画用紙を覗き込んでいる。何だろう。何かヘンなものでも描いたかな。その時の焦りは、今もよく覚えている。自分の描いたものをしげしげと点検し、5歳の私は「やや! いかん」と思った。幼稚園児にとっては、絵も文字も同じようなものである。私はアルファベットで自分の名前を書き込んでいたのだ。
  異文化ということをその時の自分が理解していたのかどうかは分からないが、アルファベットを何とかしようと思い至ったのは確かだ。内心の動揺を悟られまいと、私はクレヨンでローマ字の上に線を描き加え、いびつな花を描いていった。「コレは花なんだから。わたしは最初から花を描こうとしてたんだから」と、口には出さないが、周囲の子どもたちに伝わるように、落ち着いているふうを装いつつどんどん花を描いていった。お絵かきの時間が終わるまで、随分と長かった。
「YURIKO MATSUMURA」に描き加える形で妙な花が並んだ絵は、小学校時代まで母が保存しており、私は何度かそれを見た。よく「子どもは真っ白な紙のようなものだ」と言うが、人生の早い段階で人はもう白紙ではいられないことを思う。真新しいタイツを椅子の釘に引っかけて破いたり、ぶらんこに乗っていて順番を待っている子にぶつかって怪我させてしまったり、幼稚園時代の私は既に「絶望」や「罪業」ということを知っていた。

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PROFILE

松村 由利子

歌人。
1960年生まれ。
94年、「白木蓮の卵」で短歌研究新人賞を受賞。
98年、『薄荷色の朝に』を出版。2005年11月、第二歌集『鳥女』出版。
新聞社勤務。

鳥女

しらかみに大き楕円を描きし子は楕円に入りてひとり遊びす

河野 裕子

 大きな模造紙が広げられているのだろうか。幼い子どもが大きな大きな円を描く様子を、母親が幸福な気分で眺めている。描いた円が花になるのか、ライオンの顔になるのか、と見守る目の前で、子どもは円の中に入り、何か遊び始める。「ああ」という、声にならぬ母親の嘆息が聞こえてきそうだ。子どもには伸びやかに育ってほしいと願うのは、多くの親の思いだろう。どんなに大きく描かれた円であっても、その中で遊ぶには狭すぎる。「その円から出てお遊びなさい」。そう言いたくなるような気持ちが、読んでいる方にも湧き上がる。
「しらかみに大き楕円を」という詠い出しは、たっぷりとしている。「楕円」という言葉で、まだ子どもがきちんと円が描けないほど幼いことが分かるのも微笑を誘う。ところが、歌に描かれた場面は「楕円に入りて」で、大きく展開する。読む者は「えっ」と意表を突かれ、最後の「ひとり遊びす」にさまざまなことを考えさせられる。非常に巧みな構成だ。
  自分が描いた円の中に入り込んでしまうことは、誰にでも時々あるだろう。多分、母親であるこの歌の作者もまた、そういう内省的なところを持っているに違いない。「しらかみ」の白さが目にしみるように、しんと静かな歌である。

『桜森』
河野裕子著
蒼土舎

白い紙こまかにこまかに刻みゐるこどもはうしろに立つ者をしらず

葛原 妙子

 この子どもは何歳くらいだろうか。ハサミを使って、ひたすら白い紙を切り刻んでいる。何かに熱中している子どもというものは、ここではないどこかと交信しているような神聖さを漂わせる。背後に誰かが立ち、自分の手元を覗き込んでいることなぞ、思いもよらない一心さで、子どもは自分の作業に没頭する。
「うしろに立つ者」は、ふつうに考えれば作者ないしは子どもの家族であろう。しかし、この歌を読むと、人ではなく、天使か神であるような、不思議な感じを受ける。「こまかにこまかに刻みゐる」というのが、大人には何の役にも立たない作業に見えることも、その感じを強める。白い紙は、動物の形にしたりお面を作ったりするために切られているのではない。「一体、何のためにこの子は、こんなに一所懸命に切り刻んでいるのかしら」。昔の人は幼い子どもについて、三歳までは神の子だとか、神様からの預かりものと言った。それは、乳児や幼児の死亡率が非常に高くて、「神にお返しする」とでも思わなければ耐えられなかった心情もあるだろう。しかし、確かにそれくらい幼い子どもには特有の清らかさが在る。作者は、子どもの聖性というものに深く心寄せているように思える。

『朱霊』
葛原妙子著
短歌新聞社

しらかみに鶴折るほどの音させて母はいませりひとりいませり

鷲尾 三枝子

 白い紙で鶴を折る。千代紙や色紙ではない。さみしい行為である。しかも、この歌では実際に鶴を折っているわけではない。隣室に年老いた母がいて、何をしているのか、時折かそけき物音をさせる。その物音が鶴を折るようだというのである。「お母さん、何してるの? お茶でも飲みませんか?」。そう声をかければいいじゃないかと思うのは、年寄りと同居していない人の発想であろう。母と娘であっても、孤独を分かち合えるものではない。また、誰の心にも、他者が立ち入ってはならない領域が存在する。作者はそのことを充分知っている。母の孤独を思いやるのみである。その控えめな姿勢には、「お茶でも飲みませんか?」と声をかけるよりも、深い愛情が感じられる。また、母の姿に自らを重ね、遠い自分の姿を見ているような感じもある。
「母はいませりひとりいませり」のリフレインは、誠にやわらかく、哀愁に満ちている。そして、「鶴折るほどの音」だけでも魅力的な喩であるのに、「しらかみに」が加わったことで歌全体の静けさが増し、「母」の孤独が侵すべからざる聖域である印象が強まった。
  白い紙。限りない可能性の象徴のようなものなのに、それを詠った歌の、何と静かで、かなしみに満ちていることだろう。

さみどりは呼ばれし

『さみどりは呼ばれし』
鷲尾三枝子著
本阿弥書店

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