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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series短歌でよむ日常
語りだすオブジェ 松村 由利子
05/12/31

第17回 ポット

冷蔵庫、ネクタイ、フランスパン……。日々の暮らしの中、あまりにも近くにありすぎて、ふだんは目にとめることもないもの。歌人がそんな存在に光をあてると、日常のオブジェは生き生きと語りだす。「もの」を通して情感が立ちのぼる。なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。

 私が子どものころは、ポットを「魔法瓶」と呼んだものだ。よく考えると、中に入れた液体が冷めないというだけのことを「魔法」と呼ぶなんて、随分とかわいいネーミングである。日常生活では、誰も「魔法」ということばを意識せず、ミシンやテレビと言うのと同じ感覚で「マホービン」と言っていたのではないか。今でも「象印マホービン」が社名変更せずにいることには何か心強さを感じるが、もうすぐ「マホービン、って何が語源なんですか」と首を傾げるような若者が入社してくるのかもしれない。
 今では保温するタイプよりも湯を沸かすタイプの方が主流なのだろう。どちらにしても、ポットの大きさ、たたずまいというのは、食卓の端の住人といった感じがする。どっしりと安定感のある胴回り、愛嬌のある形。何となく、「スター・ウォーズ」に出てくるロボット、R2D2を思わせる。

家族ああ昨日とまったく同位置にポットはありて押せば湯がでる

渡辺 松男

 人間は案外と保守的な生き物で、食卓の席順くらい毎日変えたってよさそうなものなのに、どこの家でもおおよそ決まっていて、席替えはめったに行われない。この歌は、ポットを詠っているようで家族を詠っており、「同位置」に対するやりきれなさが味わい深い。
 まず、「家族ああ」という詠い出しがいい。「ああ家族」では、「ああ無情」「ああ青春」というようにやや俗な感じになるが、「家族ああ」と三音・二音の落ち着きの悪さを選んだことで、作者の逼迫した思いが表現された。「昨日と全く同位置」にあるのは、ポットだけではない。「押せば湯が出る」ように、何か尋ねれば家族からは必ず答えが戻ってくる。
「お茶くれる?」「はぁい」
「今日、学校どうだった?」「んー、普通」
 平和な家庭の平和な風景なのである。けれども、作者は「ああ」と慨嘆する。なぜか。
 それは多分、作者が男性だからだと思う。女たちは、年年歳歳、家族やポットが定位置にあり、押せばちゃんと湯が出ることに満足している。娘が急に「今日から私はテレビの横にすわる!」と宣言したり、ポットが何かの拍子にホットココアをほとばしらせたりしては困るのである。だが、男は違う。「何で自分は来る日も来る日も同じ席にいて、ポットは従順に湯を出し続けるのだ。ポットよ、それでいいのか君は!」−−しかし、そう憤ることもなく、男は食後の茶を啜る。不幸なのではない。ただ何か不満な思いが渦巻く。やるせない。そこそこの幸福な日常に潜む渇きのような思いが、読むほどにじわじわと伝わってくる。

下敷きを重ねるように同意する ポットのお湯も沸きはじめたり

安藤 美保

 はるか昔のことになったが、下敷きをノートやプリント類と重ね、とんとんと机で揃えるときの、きっぱりとしたような快い感じを覚えている。この歌の作者は、両親と進路か何かについて話していたのだろうか。少しの意見の違いはあったけれども、大筋では意見がまとまったのだろう。「同意する」相手は、友人と取れなくもないが、「ポット」の存在で家庭と取る方が自然だと思う。少しはみ出た下敷きのような思いを、自分の中でとんとんと揃えて「じゃ、そうする」と親に告げると、ぽこぽことポットの湯も沸いた様子である。あたたかい家庭のあたたかい風景を、ポットが過不足なく演出している。「さあ、お茶にしましょうか」
 作者は大学生。登山中に滑落し、24歳で亡くなった。素直な娘さんだったであろうことは、この歌からもよく分かる。「白抜きの文字のごとあれしんしんと新緑をゆく我のこれから」と伸びやかに詠ったのに、あまりにも早い死であった。

藍色のポットもいつか目覚めたいこの世は長い遠足前夜

盛田 志保子

 ポットは孤独である。毎日、同じことを繰り返さなければならない。この歌の作者は恐らく、ポットのように、求められたことに対し素直に従う日常を重ねている。そして、そんな日常に倦み、「いつか目覚めたい」と願っているのだろう。「藍色」は憂鬱な作者の気分を表している。「藍色のポット」は作者その人なのである。
「遠足前夜」という表現は愉快だが、「この世」が全部そうだとすると、ちょっと長すぎる。大人たちは「頑張れば、いつかはいいことがあるよ」と言い聞かせるが、若者は懐疑的だ。「いいことって? いつかって?」。環境問題は深刻だし、年金制度の将来も危うい。上の世代は、若い頃に頑張れば必ず楽しい「遠足」が待っていた。でも、1977年生まれの作者をはじめ、今の20代にとって、明日は見えにくいものだ。決して来ない明るい未来を、それでも「遠足」と捉え、目覚めたいと願う心が切ない。
 目覚めれば本当に、私たちは遠足に行けるのだろうか。

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PROFILE

松村 由利子

歌人。
1960年生まれ。
94年、「白木蓮の卵」で短歌研究新人賞を受賞。
98年、『薄荷色の朝に』を出版。2005年11月、第二歌集『鳥女』出版。
新聞社勤務。

鳥女

寒気氾濫

『寒気氾濫』
渡辺松男著
本阿弥書店

水の粒子

『水の粒子』
安藤美保著
ながらみ書房

木曜日

『木曜日』
盛田志保子著
歌葉