キャラメルと言えば、山本有三である。
長い間そう思っていたのは、『波』に出てくるキャラメルが鮮烈だったからだ。小学四年生のころ、たまたま読んだ『路傍の石』と『真実一路』がとても面白く、山本有三の別の作品が読みたくなった。あるとき祖父母の家で『波』を見つけ、喜んで読み始めたのだが、途中で「何かこれ、子供向けじゃないみたい」と思ったのを憶えている。でも、結局やめられず、忘れられないキャラメルの場面と出合った。
主人公の息子である少年が、海で年上の女性からキャラメルを口移しされる。それだけなのだが、小学生の胸をどきどきさせるのには充分、刺戟的だった。まぶしい陽光の中、海水をはね散らかす女と少年、そして潮の香りとキャラメルの甘さ。何とも甘美な光景が心に残った。
ところが先日、古本ネットで探し出して『波』を再読したところ、そんなシーンはありはしなかった。キャラメルの場面は、少年と父親の会話で構成されており、女はわけの分からないことをする不愉快な存在として書かれていた。失われたキャラメルの甘美さを、私はほろ苦く味わった。 一時間たっても来ない ハイソフトキャラメル買ってあと五分待つ 俵 万智 大人はめったにキャラメルを買わない。私の経験からすると、ちょっと元気をなくした時、やさしさが欲しい時などに買ってしまうものなのだ。そんな時のためにか、キオスクには必ずキャラメルがある。この歌で「一時間たっても来ない」のは、作者が恋している相手なのだろう。でなければ、一時間も待つことはない。待ち合わせ場所は駅の改札口だろうか。「来ないなあ。一体どうしたんだろう。私のこと嫌いなのかな」というあきらめ気分、もしかすると泣き出したくなるような気分なのだが、それを慰めてくれるのがキャラメルである。
社会現象にもなった歌集『サラダ記念日』が出版された1987年ごろ、世の中には携帯電話など存在しなかった。今、恋する若者がつれない相手を待って一時間(プラス五分)も待つだろうか。ケータイで「どーしたの? (>_<)もう帰るよ!」なんて傷ついていないふりをしたメールを送り、それほど長く待たずに待ち合わせ場所を去ってしまうのではないか。
キオスクにおけるキャラメル販売量は、携帯電話が普及してから確実に落ちたと思う。 少年が半ズボンから取り出せるキャラメル何かの種子かもしれず 田中 章義 少年とキャラメル、という組み合わせは郷愁に満ちている。何とも清らかな関係がそこには在る。ポケットに大切にしまわれたキャラメルの包み紙は、少しけばだっている。それがまたいい。食べようかな、どうしようかな、と掌に転がすキャラメルは、まるで少年の遥かな夢が映し出された種子のようだ。種子を思わせる硬さをキャラメルが保っていることから、季節は秋から冬と想像される。そのあたりも含めて、雰囲気のある気持ちいい歌に仕上がっている。 赤道はしずかにほどけ甘いままなくなっていく舌のキャラメル 江戸 雪 舌に残るキャラメルの甘さは、何だか姿を消したチェシャ猫の笑いのように頼りない。短歌は意味を詠うものではないから、ことばで構築された世界をただ楽しめばよいという作品も多い。この歌も、世界の危うさを「赤道はしずかにほどけ」と表現し、自身も含めたあらゆる存在の頼りなさをキャラメルの甘さと絡めた作品と読んでいいと思う。どんなに大事にキャラメルを舌の上に転がしていても、最後にはふっとなくなる。「あっ」と思う、その瞬間の切なさと舌に残る甘さ。それは、幼年時代の記憶かもしれないし、なつかしい恋の思い出かもしれない。 キャラメルの小箱に刷られ永遠に諸手をあげて走るランナー 喜多 昭夫 「諸手をあげて走るランナー」というのは、本当ならゴールインする時の誇らしげな姿なのだろう。でも、この「キャラメルの小箱に刷られ」たランナーの、何といじましく悲しいことだろう。どうしてこの人は「永遠に」走らなければならないのか、と胸が痛くなる。
おまけ付きということで子供に絶大な人気を誇ったメーカーの製品である。赤い小箱である。今も売れているロングセラーのキャラメルなのだから、何も悲しむことはないのだが、この歌からは高度経済成長期に子供時代を過ごした世代の疲労感がひしひしと伝わってくる。諸手をあげて走るランナーは、しゃにむに働く人たちの象徴のようだ。それは作者の父親世代だろうか。既に作者自身は、永遠に諸手をあげて走ることへの疑念を抱いてしまっている。歌の中にはランナーの痛ましさについて表したことばは一つもないのに、それが伝わってくる不思議さ。誰もが知っている、おなじみのマークをじっと見据えた作者のお手柄である。 |