風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 04 語りだすオブジェ -短歌でよむ日常
松村 由利子
第11回 フランスパン

 日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。

 ハノイで食べたサンドイッチは、素晴らしく美味しかった。長らくフランス領だったベトナムでは、主食の一つとしてフランスパンがよく食べられている。屋台で売っているサンドイッチは、ちょっと小さめのフランスパンに普通のレタスやハムを挟んだものだが、ベトナムの魚醤、ニョクマムで味つけしてあり、不思議なコンビネーションが口の中に広がった。19世紀後半にはフランスの植民地となり、米ソ冷戦の狭間では激しいベトナム戦争に巻き込まれた歴史を思う度に、屈することのなかったベトナムの人たちの誇り高さに感服する。他国の文化を取り入れたフランスパンのサンドイッチは、たくましい民族性の象徴のように思えてならない。
「フランスパン」ということばには、元気に弾む感じがある。「バゲット」や「バタール」などの名称もだいぶ普及したけれど、「ン」が二つ入った「フランスパン」の響きは、今も明るくておしゃれだ。
 焼きたてのフランスパンをそのまま掴んで歩いている男がいれば、随分とかっこいいだろう。南仏の街角などに似合いそうなイメージがある。そういう効果を狙ったのかどうかは知らないが、友人(男性)が近所のパン屋でバゲットを買ったとき、店員が紙袋に詰めようとするのを制して「あ、そのままでいいですよ」と言ったことがあるそうだ。書店で「あ、カバーは要りません」と言うような感覚だったのだと思う。笑顔で「どうも!」と言われるかと思いきや、店員はまるで「フケツ~~」と言いたそうな表情で「え?」と訊き返してきたという。パリジャンよろしく意気揚々とバゲットを抱えて帰るはずの友人は、何だかしょんぼり帰途についたとのこと。

フランスパンを小粋に抱ける男などに遇はざる村に住むのどけさや

築地 正子

 この作者なら、わが友人の心意気を分かってくれるに違いない。「のどけさや」と詠っていながら、「フランスパンを小粋に抱ける男」になんぞ逆立ちしたって出会えない鄙びた村に物足りなさを感じているのだから。屈折した詠い方は、まるで負け惜しみのようだ。もし、そういう男がいたら、きっと作者は恋に落ちる。そして、腕によりをかけてポトフを煮込み、極上のワインを用意して彼を待つのだ。--そんな妄想まで抱かせる「男」である。「いい男」を演出する小道具として「フランスパン」が利いている。
 薄くスライスすると香ばしいトーストになる「イギリスパン」も美味しいけれど、「イギリスパンを抱えた男」では様にならない。外側はぱりっと香ばしく、内側はしっとりと弾力に富む。フランスパン特有のおいしさは、この二つの食感にあるといっていい。そして、歌人たちは食感にいたく詩心を刺激される。

フランスパンすべて堅しと言ふ君の歯型さやさや(はだへ)にありぬ

藤室 苑子

 惚気の歌である。この恋人は「フランスパンってどれも堅いよなあ」と文句を言うくらい軟弱なくせに、性愛の場面では俄然、野性味あふれる男となるらしい。それを散文で言うとイヤラシイが、こんな雅やかな表現で語られると、うっとりしてしまう。「さやさや」という古風な擬態語が明るい「フランスパン」と響き合うため、愛の場面を生々しく想像させたりはせず、さわやかな雰囲気を出している。このあたり、充分に計算された大変に巧みな詠みぶりといえる。愛されている自分を誇らかに述べた、大胆で眩しい一首。

フランスパンほほばりながら愛猫と憲法第九条論じあふ

荻原 裕幸

 憲法論議が再び高まっている。戦争放棄と戦力の不保持を謳った第九条をどう解釈するか、あるいはどう改正するか。そんなことを猫と話し合うはずもないのだが、作者はしれっと描いてみせる。
 この歌が収められた歌集『青年霊歌』は、1988年に出版された。前年には俵万智の『サラダ記念日』が出版され、ベストセラーとなっていた頃である。口語で軽やかに詠うライトヴァースがもてはやされた。荻原は自分の第一歌集の刊行された頃を振り返り、「ライトヴァースへの共鳴と反発」がこもごもにあったと回想している。憲法第九条という硬いものと、愛猫というやわらかなものの対比は、作者のその葛藤を表しているのだろうか。恐らくは、ライトな時代そのものへの「共鳴と反発」もあったのだろう。「フランスパン」の外皮はなかなか噛み切れず、青年は黙々と咀嚼を繰り返す。
 歌が作られてから年月は経ったが、九条を巡る状況は却ってホットになった。憲法論議における的外れな主張を聞くとき、苦々しい思いにとらわれることも少なくない。いっそ猫とでも話す方がましだ、という気にもなる。優れた歌は時代が変わっても新しい解釈が可能となり、新たな読者を得てゆく。猫と向き合う青年のもどかしさを思うとき、歯ごたえのあるフランスパンの食感が、今また新鮮なイメージを喚起し得ることに驚嘆する。

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PROFILE

松村 由利子

歌人。
1960年生まれ。
94年、「白木蓮の卵」で短歌研究新人賞を受賞。
98年、『薄荷色の朝に』を出版。
新聞社勤務。

薄荷色の朝に

みどりなりけり

『みどりなりけり』
築地正子著
砂子屋書房

まばたきのへる

『まばたきのへる』
藤室苑子著
本阿弥書店

『青年霊歌』
荻原裕幸著
書肆季節社

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