風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 04 語りだすオブジェ -短歌でよむ日常
松村 由利子
第10回 ベッド

 日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。

 時々思い出す英語の慣用句に、「ベッドのよくない側から起きてしまった(get out of bed on the wrong side)」というのがある。朝からこれといった理由もなく機嫌が悪い時などに使う。
 この慣用句には、子供のころ読んだP・L・トラヴァースという人の児童書『風にのってきたメアリー・ポピンズ』で初めて出合った。子供たちのお世話係としてバンクス家に雇われたメアリー・ポピンズは、魔法が使える不思議な女性である。やんちゃ坊主のマイケルがある日、起きたときからむしゃくしゃした気分を抱えて悪さの限りを尽くすと、彼女は「ベッドの、わるいほうのがわから起きたんですよ」と言う。マイケルは「ちがうよ」「ぼくのベッドにはないよ――壁ぎわだもん」と言い張るが、彼女は意に介さない。
 wrong side は、right side の反対語だ。rightには「正しい」と「右」の両方の意味があるから、ベッドのright sideの場合、本当の反対語はleft sideなのだけれど、それを洒落として「よくない側=wrong side」としたのが何とも可笑しい。自分ではどうしようもない、説明のつかない不機嫌というものは確かに存在する。日本にも「虫の居所が悪い」という表現がある。でも、自分の中のむしゃくしゃというよりは、他人の不機嫌を評するのに使われることが多いように思う。英語圏の人はどうか知らないが、私は気分がくさくさする時に「ああ、今朝はベッドのよくない側から起きちゃったんだから仕方ないな」と考える。すると、不機嫌の原因を自分以外のものに転嫁できて、ちょっとすっきりする。マイケルは私の中にもいて、「そんなこと言っても、あんたはベッドじゃなくて畳に布団を敷いて寝てるんじゃない」と文句をつけるが、私はメアリー・ポピンズに倣って「ふん!」と澄ましている。

ひとしきりノルウェーの樹の香りあれベッドに足を垂れて ぼくたち

加藤 治郎

 ビートルズのナンバーに「ノルウェーの森」という曲がある。村上春樹のベストセラー『ノルウェイの森』の冒頭の場面で、この曲が流れているのを覚えている人も多いかもしれない。この歌は、『ノルウェイの森』がヒットして間もない1987年に出版された歌集『サニー・サイド・アップ』に収められている。ベッドに腰かけてぶらぶらと足を揺する「ぼくたち」という男女の、何の不安もない恋の気分が気持ちよく伝わってくる。大抵のベッドは坐れば足が床についてしまうから、「足を垂れて」から私たちはゴージャスな大きなベッドを思い浮かべる。「ノルウェーの樹の香り」からは、若々しい恋の充足感、おしゃれな関係といったものが窺える。
 歌集が出て早くも20年近くたった。現在の恋人たちは、どんな気持ちでこの歌を読むだろうか。バブル期の浮かれた気分を漂わせた作品世界は、うらやましいほど明るい。相次ぐテロや戦争に誰もが閉塞した気分を味わっている今、若者の恋の歌はこんなに底抜けにはハッピーでない。真っ白なシーツに覆われた大きなベッドは、平和でしあわせな時代の象徴のように思える。

祖母はふともの食みたがりベッドより巣落ち子のやうな声にて呼ぶも

関口 ひろみ

 病院のベッドや介護用のベッドは大きい。体位交換などするのに、ある程度の大きさが必要だからである。そこに寝かされている高齢者は、ますます小さく見える。「巣落ち子」は巣から落ちたヒナ鳥のことだ。ぴいぴいと情けないような声で母鳥を求めて鳴いているのを聞くと、落ち着かない気分にさせられる。作者が自分の祖母をヒナ鳥に喩えたのは、祖母が自分に対して保護を求め声を上げているからだ。「もの食みたがり」というのは、食べることに執着する老人の特性をとらえると同時に、ヒナ鳥の喩えと呼応していて、何とも哀切でうまい。最後の「も」は詠嘆の意を表す。かつては自分をかわいがり保護してくれた祖母が、今や自分を頼ってベッドから弱々しい声でしきりに呼ぶ。それは悲しいことであるが、孫娘は健気にも母鳥のような心持ちになって、ベッド脇に急ぐのだ。

横抱きにしてベッドまで運ぶ母野菜に近き軽さなりけり

小高 賢

 自宅で高齢者を介護するのは、本当に大変なことである。作者は、妻に介護をまかせっ放しにすることなく、自らも母をベッドまで運ぶ。「横抱きにして」という表現が、そうされるほかない「母」の状態について考えさせる。一首の眼目は「野菜に近き軽さ」にある。野菜も水分を含んでいるが、人のみっしりとした重みとは異なる。レタスのような、嵩の割に軽い、頼りないような重さを、作者は感じたのかもしれない。
 この歌を読み、石川啄木の「たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず」(『一握の砂』)を思い出す人もいるだろう。有名な歌だ。悪くはない。しかし、「泣きて」や「三歩あゆまず」に作為を感じて、少々鼻白む。中学校の教科書で読んだ頃には何とも思わなかったが、啄木が大変わがままに育った人で、夜中にゆべし饅頭が食べたい、と家中の者をたたき起こし、母親に作らせたエピソードなど知ると、どうも素直に感動できない。母を背負って涙ぐんでいる自分って、いい人だよなあ、という自己愛が鼻につく。
「横抱きに」の歌は、「たはむれに」ではなく、生活の場から作られていることが何よりの強みだ。「三歩あゆまず」なんて感傷に浸る間もなく、ずんずん母を運ばなければ日常が滞ってしまう。そこに余計な飾りは要らない。ぶっきらぼうにさえ見える詠み方は、作者の性格も関係しているだろう。しかし、重い事実を詠むとき妙に修辞に凝ると、そらぞらしくなってしまう。作者はそのことをよく知っている。だからこそ、読む者は「野菜に近き軽さ」に、ぐっと胸を衝かれるのである。

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PROFILE

松村 由利子

歌人。
1960年生まれ。
94年、「白木蓮の卵」で短歌研究新人賞を受賞。
98年、『薄荷色の朝に』を出版。
新聞社勤務。

薄荷色の朝に

サニー・サイド・アップ

『サニー・サイド・アップ』
加藤治郎著
雁書館

下記の歌集などにも収められている。

イージー・パイ

『イージー・パイ』
加藤治郎著
ブックパーク

あしたひらかむ

『あしたひらかむ』
関口ひろみ著
雁書館

液状化

『液状化』
小高賢著
ながらみ書房

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