日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。
心配性の割に、物をよく落とす。なくしやすいのは、手袋やイヤリングなど対になったものだ。片方なくした時のがっかりした気持ちといったらない。いったいこれまでに、いくつの手袋を落としたことだろう。
駅や舗道に落ちている手袋を見ると、はっとする。しっかりした革の手袋だと、まるで虚空をつかむような形になっていることもあり、何か痛ましい感じがする。落とした人が探しに戻ってくるだろうか、と踏まないように気をつけて通り過ぎる。そんな人は多いらしく、子供用の小さな手袋が、クリスマスツリーの飾りのように街路樹の枝に掛けられているのを見たことがある。
しかし、自分が落とした手袋の行方について、想像を巡らせたことはなかった。葛原妙子の歌を読んだときには、本当に驚いた。
落しきし手套の片手うす暗き画廊の床に踏まれあるべし
葛原 妙子
この作者は展覧会を見に行って、手袋を落としたらしい。夢中になって絵に見入っていたのだろうか。照明がセーブされた画廊に、自分の手袋が落ちている。絵を見に来た人が、気づかずにそれを踏む。別の人が、また踏む。作者には、それが分かる。単に手袋が踏まれている光景を思い浮かべているというよりは、手袋が踏まれる度に自分の片手が痛みを感じているような、生々しい怖さがある。離れた場所にいながら、手袋は自分の分身として存在している。この作者は、落とした手袋が惜しいのではない。かつて自分の手をやわらかく包み、自分の一部として慈しんだものが踏まれている、そのこと自体が耐えがたいのだ。
「べし」の解釈で、一首の感じは少し変わる。「きっと踏まれているに違いない」という意味に取るのが最もふつうの解釈だが、「踏まれなければならない」と読んでもいい。不注意で落としてしまった手袋は、とことん踏まれるしかない。手袋は作者の誇りの象徴のようだ。「踏まれなければならない」とすると、いっそう自虐的な感じが強まる。どちらに取っても、誇り高い女性がきりりと表情を引き締めて痛みに耐えている姿が鮮やかだ。
作者は「幻視の歌人」と呼ばれた前衛歌人。見えない光景を見る達人であった。
音絶えて沫雪にぬるる春の原手袋も用もなく出でて来ぬ
稲葉 京子
雪が降るときの静けさというのは、何もかも包み込むような独特の静寂だ。しかし、沫雪は水分を多く含む。「音絶えて」と表現したことで却って、大きな雪片がほたほたと降りかかる、音にならない音が聞こえるような効果が得られた。沫雪は積もることなく、地面を黒く濡らすばかりで、春の近さを思わせる。本格的な春が待ちきれない作者は、雪の中、手袋もせずに野原に出てきた。「用もなく」と断るくらいだから、作者の家から野原まではだいぶ距離があるのだろうか。
入念に作られた上の句に対して、下の句の「手袋も用もなく」という表現は、「おや」と思うほど無作為な感じがする。四句目の字余りや、四句から五句にかけて跨るフレーズの大らかさから、指先の冷えも気にならないほど手放しに春を喜ぶ作者の嬉しさが伝わってくる。
野に捨てた黒い手袋も起きあがり指指に黄な花咲かせだす
斎藤 史
地面に落ちている黒い手袋がむっくりと起き上がり、五本の指それぞれの先から黄色い花が咲き始める。怖いような、美しいような、不思議なイメージだ。季節が春であることは「黒い手袋も」の「も」で分かる。手袋は、草木と連動して花を咲かせているのである。この手袋は農作業用の手袋だろうか。それとも、手袋の贈り主と仲違いでもして、冬の野原に捨ててしまったものだろうか。私としては後者を取りたい。春の訪れと共に、氷は溶け、花が咲き始める。ものみな芽吹く季節に作者の心は浮き浮きとする。捨ててしまった手袋のことを、何だか気の毒にも思う作者の若さが楽しい。
この作品の収められた第一歌集『魚歌』は、モダニズムの影響を受けており、色彩感覚の鮮やかな歌が多い。特に白と黄色が印象に残る。23歳から31歳までの青春期の作品を収めた歌集でありながら、いわゆる相聞歌は一首もない。しかし、手袋の指先から次々に花が咲くという鮮やかな情景を詠ったこの歌には、恋の予感のような華やぎがかすかに感じられる。
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