日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。
新生児用の紙おむつというものは、まことに小さくて、人形遊びの道具のように見える。月日が経つにつれて、そんな違和感はなくなり、他の衣服と同じように手になじむようになる。
しかし、それは毎日おむつを替える女の場合であって、男はそうは行かない。料理や洗濯を手伝いはしても、おむつを替えるところまではなかなか至らないようだ。紙おむつには左右対称にテープが留められるように、ちゃんと「クマちゃんマーク」などが付いているにもかかわらず、へんなところで斜めに留めたりするから、すぐにおむつが取れてしまったり、腹部を圧迫された赤ん坊が大泣きしたりする事態となる。
紙おむつやうやくはづしポリマーと吾子のゆまりの分子手にもつ
岩井 謙一
「ゆまり」は「尿」。紙おむつに使われている高分子ポリマーは、実にすぐれ物で、驚くほど水分を吸収する。若い父親である作者は、慣れない手つきでおむつをはずした後、その意外な重さにびっくりしている。「そうか、赤ん坊ってこんなにたくさんおしっこをするんだ」という驚きと、「そうか、高分子ポリマーってこんなに吸収するんだ」という驚きが、ほとんど等価値であることが可笑しい。布おむつも、それなりにぼってりと重くはなるのだが、驚くほどの重みではない。ふにゃふにゃの赤ん坊を扱いながら、「ポリマー」「分子」という硬い言葉をもってきたあたり、かなり巧みである。「やうやく」なんて、無器用さや奮闘ぶりを表現しているけれど、自身を見つめる視線はとても客観的で冷静だ。
とはいえ、この歌では、おむつ替えはまだ完了していない。「ポリマーの性能に感心しているうちに、また赤ちゃんがおしっこしちゃいますよ」と、読みながらはらはらしてしまうのであった。
ハンバーガー包むみたいに紙おむつ替えれば庭にこおろぎが鳴く
吉川 宏志
この歌の作者も若い父親だ。「ハンバーガー包むみたいに」は言い得て妙。頼りなく、かさっと包まれた感じが、確かによく似ている。そこには、慣れないことをする手際の悪さや紙おむつに対する新鮮な気持ちが感じられる。しかし、子どものおむつを替えることへの抵抗感はないようだ。
自然体でおむつを替えている作者であるが、それだけでは「おむつを替える理想的な父親」で終わってしまう。歌の眼目は、下句の「庭にこおろぎが鳴く」だろう。紙おむつを替え終えて、ふっと戸外でこおろぎが鳴いているのに気づく。「ああ、もう秋だ」という感慨は、「ああ、もう自分は父親になってしまったんだ」という奇妙なあきらめに通じる。青春という季節を過ぎ、激しい夏の陽射しのような恋を経て、たどり着いた季節。人生の秋、というにはまだ早すぎるが、赤ん坊のおむつを替えていると、もう自分がある地点へは戻れないこと、一種の重荷を担ってしまったことがひしひしと感じられる。多分、女性も同じような気持ちは味わうのだが、それは妊娠中や出産時であることが多く、今さらおむつを替えながらしんみりしたりはしないのだ。大体、子どもがおむつをしているくらいの時期に、そんな余裕はない。この歌の作者名が伏せられていたとしても、何となく男性ではないだろうか、と想像できると思う。
雨にぬれ夕木戸の下くぼみゆく父の遺品の紙おむつは沼
大野 道夫
紙おむつが必要なのは赤ん坊だけではない。高齢者用の製品は、何か胸を衝かれるように大きい。雨上がりの夕暮れ、木戸の下に水たまりができている。だんだん暗くなる辺りを映して、その窪みは深く深くなってゆくように見える。作者はそこへ、亡くなった父親の使い残しの紙おむつを重ねた。
紙おむつを使うのは、要介護の人だろう。その程度は分からず、作者も詳しくは語らない。しかし、「紙おむつは沼」という結句は、いろいろなことを考えさせる。作者は実際にずっしりと重くなった紙おむつを何度となく処理したのであろう。「紙おむつ」は、いつまで続くか分からない、泥沼のような介護の日々の象徴でもある。
その父は、もういなくなってしまった。作者の悲しみは、父の晩年が紙おむつを使わざるを得ない日々だったということだけではない。残された紙おむつは、それを父が使うであろうと考えた日々の長さを示している。つらく重たい日々ではあったが、まだまだ続くと思っていた父の命だった。残った紙おむつの分だけ、長く生きられたはずではなかったか、と後悔にも似た思いを抱くかもしれない。
未使用のまま残された紙おむつ、父の排泄物を吸って重くなった紙おむつ、そしてその使用済みの紙おむつのように、悲しみやつらさがずしりと溜まった介護の日々--「紙おむつ」というモチーフ が重層的に詠われた歌である。
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