日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。
子どものころ、ピアノの練習が特別いやだったという記憶はない。しかし、いい加減に弾くのを母に叱られてベランダに出されたことがあったから、それほど熱心でもなかったのだろう。
確か小学2年生か3年生だった冬のある日、私の住んでいた福岡市では珍しいほどたくさん雪が積もった。学校帰りの私は原っぱへ直行し、男の子も女の子も一緒になった雪合戦に加わった。時々陽動作戦に出るなど高度な戦略も用いつつ、夢中になって雪玉を作っては投げていた。と、原っぱの向こうから、女の人がずんずんと雪をかき分けて歩いてくる。手には、ピアノの楽譜が入った手提げ袋を持っている--私の母だ。その日は、週に1度のピアノのレッスン日だったのである。ぼんやりした子どもだったから、母に腕を引っ張られて原っぱから連れ出されるときも、「しまった!」とか「叱られるぞ」とは思わなかった。ただ「あららら……」という感じで引っぱられて行ったのを覚えている。その時の母は般若のようで、私がこれまでに見た母の顔の中で、最も怖く美しかった。
そんな具合だったから、世の少年が「ピアノを弾く少女」というものに憧憬を抱いていることなど、ちっとも知らなかった。
うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く
寺山 修司
野を駆けてきた少年は、憧れの少女の家にたどり着いたところだ。手には雲雀の死骸を握り締めている。多分いつも窓の外で、少女の弾くピアノに耳を傾けているのだろう。この歌では、ピアノの音は聞こえていない。彼女は今日いるのかしら、と少年は窓から覗く。「君」を覗くのではなく「君のピアノ」を覗くところが、何ともせつなくて巧い。優美な姿をしたピアノは、威厳があって近寄りがたい存在でもあり、少年の抱く少女のイメージと重なっている。ヨーロッパ映画の1シーンを思わせるような、物語性を含んだ情景だ。
墜落した雲雀は、少年の野性の象徴だろうか。それを「うしろ手に」握っているのは、少年が自身を少し恥じているのかもしれない。あるいは、その淡い恋がやがて天空から墜ちて潰えてしまうことを示している、と読んでもいいだろう。
寺山修司は絵画的な魅力のある短歌を作った人だが、初期にはこうしたヨーロッパ的な雰囲気を漂わせた作品が多い。短編小説のような味わいが、余韻を残す。
少女来て指さしのぶる漆黒の空切り取りしやうなピアノに
目黒 哲朗
これからピアノを弾こうとしている少女を、少年はじっと見つめる。この少年も、少女に対して憧れの気持ちを抱いているようだ。大きなグランドピアノは、少女の細い指を呑み込んでしまいそうに見える。ピアノのつやつやとした光沢や大きさは、漆黒の夜空を切り取ったようで圧倒される。
歌の構成から見ると、少女がいったん漆黒の空に指を差し延べた、その次の瞬間に、指の向かう先が空からピアノへと転ずるところがポイントだ。読む者に「漆黒の空」を見せてからピアノが現れるので、くらくらと心地よいめまいを感じる。ピアノの大きさ、風格といったものが増幅されるほど、少女の存在はますます少年から遠くなってしまうのだ。
いとけなきものの小さき掌を取りて悪にみちびくごとくピアノへ
鳴海 宥
「ピアノ・レッスン」という映画は、なかなかに怖い作品であったが、真に音楽に打ち込むことは善なのだろうか、悪なのだろうか。この歌の作者は、ピアノの先生のようだ。子どものことをわざわざ「いとけなきもの」なんて呼ぶところが怪しい。「さあ、お稽古を始めましょうね」とピアノのところまでいざなうのを、「悪にみちびくごとく」と表現したあたり、只者ではない。ありふれた事物や光景を、通常とは全く別の角度から見ること、それも短歌の面白さである。「嬉しい」「悲しい」といった感情の表出だけが歌ではない。言葉だけで演出した舞台を見せ、“お客さん”を楽しませる。この歌の作者は、そういう舞台演出を得意としている。
ほの暗い洋館の中、長い髪を垂らした女性が幼い女の子の手を引き、回廊を巡っている。ピアノのある部屋は、もうすぐだ。やがて聞こえてくる旋律は……そんな妖しい空想をした途端、レッスンをサボって遊んでいた子どものころの自分を思い出してふきだしそうになる。もしかするとこの作者も、ピアノを教えていて、言うことをきかないやんちゃな生徒に手を焼いていたのかもしれない。しずしずとピアノへ導く自分の姿を思い浮かべながら、作者自身が楽しんで作った歌であろう。
ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺
塚本 邦雄
燃えさかる炎の中に、漆黒のピアノが見える。それは何と悲しくも美しい光景だろうか。もう二度と弾かれることのない楽器の高貴な姿が、くっきりと夜に浮かび上がる。取り返しのつかない出来事、その一回限りの美しさなのか。三島由紀夫の『金閣寺』を思い出す。
「ほほゑみに肖てはるかなれ」というのが少し理解しにくいが、どうしても手の届かない存在として火事の中の「ピアノ一臺」を描きつつ、同様に手の届かない人のイメージを重ねたと取ってもいいかもしれない。グランドピアノは気品ある貴婦人を思わせるから、それも悪くない。また、「ピアノ」は芸術の象徴であり、「ほほゑみ」という決して捕らえることのできない、一瞬のきらめきのようなものだと解釈してもいい。どちらにしても、この歌の光景にはぞくぞくさせられる。
作者は、前衛短歌と呼ばれる手法を用い、短歌の新しい地平を開いた。非写実を志向し、多彩な比喩表現、ドラマ性の導入を図った作品は、独特のリズムと言葉のきらめきが特徴だ。この歌が収められているのは、「管弦楽」をもじった『感幻楽』というタイトルの第六歌集である。
私が子どものころに弾いていたピアノは、赤みを帯びた明るい茶色のアップライトだった。冬の日の夕方、鍵盤に触れると指先から冷たさがきいんと伝わってくる。爪が少しでも伸びていると、カチカチといやな音がしたから、1ミリも伸びないうちにこまめに切っていた。その習慣は今も変わらず、爪を短く切り揃えた人を見ると「この人もピアノを弾くのかなあ」と思ってしまう。
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