日常生活をとりまくさまざまなもの。家具、電気製品、食器・・・、なにげない存在を通して見た短歌の世界を歌人がつづる。
ブラウスと女は一体である。木綿、オーガンディー、シルク……素材が何であろうと、薄く柔らかな布地は第二の皮膚としてまとわりつく。
ブラウスを着ると、Tシャツを着ているときよりも、自分が女であることを強く意識するのではないか。本当に仕事のできる女は、ビジネスの場においてもてろんとした肌触りのブラウスを上手にスーツに組み合わせていたりする。しかし、能力も自信もない私は、相手に「女」を意識させないようにと意気込み、かっちりしたシャツブラウスを着ることが多かった。それはほとんど男のワイシャツと同じ仕立てのものであり、第二の皮膚というよりは鎧に近かったかもしれない。
花柄のブラウスの花寄せ集め明るき抱擁残して去りぬ
前田 康子
水玉やストライプもよいが、若い女性には花柄のブラウスがよく似合う。そして、デートに着てゆく服装としても相応しい。この歌は、恋人に抱きしめられたのが自分ではなく、自分のブラウスであったかのように表現したところが何とも初々しい。花柄の花を寄せ集めるように、ぎゅっと抱擁した恋人を、作者はうっとりと思い返している。何の不安も不信もない「明るき抱擁」であるが、次に会う約束の日までは離れていなければならないのが恋人たちなのだ。「残して去りぬ」に込められた寂しさが花柄の明るさと対照を成し、歌にしっとりとした余韻を与えている。
ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり
河野 裕子
この歌の作者も若い。自分の胸元を覗き込み、ブラウスに包まれた空間に夏の陽射しが入って明るんでいることに、限りない誇らしさと幸福感を味わっている。「けぶれる」には、「ぼおっと薄く霞んで見える」という意味と、「美しくにおやかに見える」という意味がある。若く張りつめた乳房には、自分のものでありながら、自分のものと思えぬような不思議な存在感が漂う。
「ブラウスの中まで明るき」と詠われている前提には初夏の日の明るさがあり、それはそのまま青春の明るさへとつながる。長く愛唱されている歌だ。
胸元にピンタックあるブラウスのいまも好きにて騙されやすし
栗木 京子
70年代だろうか、「乙女チック」という言葉があった。陸奥A子、太刀掛秀子といった人気漫画家の名前を出しても、もう知らない人が多いのだろう。かわいいものが大好きで夢見がちな少女性を表す表現として、なかなかぴったりの言葉だった。ともかく、細く襞を寄せたピンタックは、乙女チックな装飾そのものといってよい。
作者は既婚女性。胸元にピンタックが施されたブラウスを、若い頃から好んで着ているのだろう。少々かわいらし過ぎるかしら、と思わないこともないけれど、でもやっぱり自分はこんなブラウスが好き--という含羞が愛らしい。
ブラウスは作者自身の内なる少女性の象徴のようだ。それだけならば単なる乙女チックで終わるところだが、最後に「騙されやすし」と強い言葉で結ばれているため、読者は足元をすくわれたような驚きを感じる。一体どんなことがあったのか--と問いたいところだが、作者は静かに微笑むばかりである。心憎いほどうまい。
私をジャムにしたならどのような香りが立つかブラウスを脱ぐ
河野 小百合
果物を煮詰めていると、濃く甘い香りが立ちのぼる。自然の恵みそのものという豊潤さであり、官能的ですらある。この歌は、若い女性が誇らしげに自分を果実になぞらえたところに、健康的なエロティシズムがある。「どのような香りが立つか」という呼びかけは、挑発するような言葉だから、最後の「脱ぐ」を恋人との性愛の場面と解釈する人もいる。しかし、一人でブラウスを脱いでいるときに、その布地の繊細な感触にうっとりしながら、自らを瑞々しい果実のように思う場面と読んでもよいと思う。そうすると「ジャムになる」というのが、まだ若い作者が経験していない、ねっとりと濃い恋愛の比喩のように読めて、ますます歌が面白くなる。
どうもブラウスは、女のナルシシズムを刺戟するようだ。男がワイシャツを脱ぐときは仕事からの解放感がまさっているだろうが、女はいとおしむようにブラウスに触れる。こんな魅力的な服を着ない手はないのだが、時間の使い方の下手な人間には難題が控えている。アイロンかけである。今の私は、かっちりしたシャツブラウスさえ着ず、もっぱらアイロンをかけずに済むカットソーを愛用している。ああ……
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