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Series ノンフィクション
ある家族の肖像 渥美 京子
06/06/15

最終回 家族の絆

仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

息子の死から10年…戦い続けた母にガンの告知が

2006年春、旭川

  旭川の春は遅い。3月半ばを過ぎても、北の大地は雪におおわれている。吹雪が舞う日もあれば、雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせる日もある。夜間の冷え込みはまだ厳しい。昼間の暖かさでゆるんだ雪が夜になると再び凍り、道路はアイスバーン状となる。街を歩く人たちの足下は、冬靴やブーツで守られている。寒暖を繰り返しながら、大地に積もった雪の高さは少しずつ低くなっていき、やがて春を迎える。
  偉(いさむ)が亡くなってから、この8月でちょうど10年。子を失った母親に、10年という区切りがどれほどの意味があるのかわからないが、淳子にとっては人生の節目となる春を迎えていた。
  2006年3月末、淳子にガンが見つかった。ここ数年、疲れがたまると、口唇にヘルペスができた。これまでは、皮膚科でもらった薬を塗れば、治っていた。しかし、冬の初めに口唇にできた小さなできものは、いくら薬を変えても消えず、しだいに深くなっていく。
  皮膚科から紹介された旭川市内の総合病院で検査を受けると、悪性腫瘍であることがわかった。振り返ってみると、裁判が和解という形で終わってからの2年間、空気の抜けた風船のような心を抱え、何をやっても気力がわかない日々が続いた。偉のためにしてやれることはもう何もないのかと思うと、むなしさばかりがこみ上げる。突然、細胞がガン化したのは、免疫力が落ちたせいだと淳子は思った。
  医師からガンと告げられたとき、淳子は自分でも驚くほど冷静で、動揺はなかった。それどころか「もし、ガンが転移して、余命が長くないとわかったら、偉のもとへ予想より早くいけるんだわ」と受け止めた。天寿をまっとうして偉のもとに行けるなら、本望だった。
  ガンの摘出手術を受けることは、親しい友人はもとより、娘のまどかにも内緒にしておくつもりでいた。しかし、手術にあたっては家族の同意書がいる。まどかだけには入院の数日前に打ち明けた。よけいな心配や気遣いをさせたくないという思いから、後は誰にも言わなかった。
  そして手術は無事、成功裏に終わった。下唇を3分の1ほど切除したが、形成外科の技術は進歩しており、見た目は大きくは変わらない。肝臓にうっすら影があるが、医師は「がん細胞の転移ではないだろう」と判断している。2週間の入院を経て、5月半ば、退院した。
  ガンによって、人生観が変わったとは思わない。だが、これから先の人生を数年単位で考えるようになった気がする。残された人生の使い方に思いをはせ、その中心軸に偉を据えている淳子がいた。

  長く、短い10年だった。そして、いろいろなことが大きく変わった。妹のまどかは結婚して3人の子の母となった。まどかはこう振り返る。
「私の結婚式の3ヶ月後に兄が亡くなりました。もし、順番が逆だったら、結婚しなかったかもしれないですね。私が母を支えなくてはいけないと思い、リクルートや世間を恨みながら暮らしていたかもしれません。でも、結婚が先だったから、結果的に子どもができ、今の暮らしがある」
  長女が生まれたとき、不思議な思いに包まれた。
  大切な人を一人失い、かけがいのない存在である子どもを得る。生と死が隣り合わせにある複雑な感情のなかで、赤ちゃんの吐息に耳をそばだてたとき「この子には、お兄ちゃんの遺伝子が入っている。命がつながっている」と気づいた。
  兄を亡くした悲しみが癒えることはない。だが、夫と子どもたちと暮らす日々を全うすることで、兄の魂を引き継いでいきたいと思っている。
  その思いは親しかった友人たちとも共通する。今でも、偉の誕生日や命日には、何人かの友人からいろいろな形で優しさが届く。偉を失った悲しみが、まだ過去のものとはなっていない者もいる。偉の同級生は、まもなく40代に突入する。すでに家庭を持っている者が大半を占める。
  淳子は、偉の友だちが、それぞれ結婚して新しい家庭を持ち、子どもが生まれ、親となり、家族が増えていく報せを聞くたびにほっとするという。偉の死によって、不幸になる人がいてはたまらない。反面、変わらないのは29歳で時がとまってしまった偉だけだと思い知らされる。
  若いというのは、未来がある。悲しみを乗り越え、自分の家族とともに、未来に向かって生きていける。でも、子を亡くした親は違う。32歳だった次男を亡くしたある母は言う。
「長男は家も建て、子どもにも恵まれた。本当なら、それを喜ぶべきなのに、心のどこかで『死んだあの子は、我が子を抱くことさえないままに逝ってしまった』と涙が出る。あの子と仲の良かった従兄弟が幸せそうに生きているのを見ると、恨めしく思ってしまう。ふつうなら、よかったねと喜べることでも、そうはいかない。悲しいわね」
  子を亡くした親はそういう思いを一生引きずるのか。すべてのことに悲しみが張りつく。偉の死に涙した者は少なくないが、人の記憶のなかから、偉のことはだんだん薄れていく。この悲しみを引きずっていくのは、最後は家族、そして親である自分しかないのだと知る。

偉が行きたかったワールドカップを訪ねる

 この10年、裁判の場以外でも、ひとつひとつ偉の足跡をなぞり続けてきた。
 98年6月には、サッカーのワールドカップが開かれているフランスに行った。偉は生前、「日本が初めて出場するフランスのワールドカップに行きたい」と淳子に話していた。チケットが手に入るかもしれないと友だちが話すのを聞き、衝動的に行こうと決めた。パリに降り立ったのは6月12日、偉の誕生日にあたる。「母さん、僕の代わりに見てきてね」と言う偉の声が聞こえた気がした。
  結局のところ、パリについた時点で、旅行会社がブローカーの詐欺に合い、チケットは手に入らないとわかった。そして、会場の外で、大歓声を聞きながら、淳子は「偉がいない」寂しさをかみしめた。
  2002年の夏には、偉の友だちが住むサンフランシスコを訪ねた。偉が亡くなったのは96年8月だが、偉はその年の秋に長期勤続者が取得できるステップ休暇を取ることを計画していた。それを利用して、サンフランシスコで働く友だちに会いにいく予定だったと思われるが、実現できないままこの世を去った。その思いを背負い、淳子は夏のサンフランシスコに旅をした。
  友だちは歓迎し、偉が来たら案内する予定だったいくつかの場所に連れていってくれた。淳子は「偉が生きていたら」という思いをかみしめながら、ひとつひとつの光景を目に焼き付けた。
  サンフランシスコ滞在中のある日、偉の幻影を見た。偉は、グレーの背広をきて、友だちが以前、住んでいたアパートの前の坂道をひとり下って行く。淳子は、偉が友だちに会いにきたのだろうと思った。
  そして、偉が逝って間もない頃、不思議な夢を見たことを思い出した。上空に向かって大きなシャボン玉が5つあがっていく。「ひとつ、ふたつ、みっつ・・・」と数えると、最後の玉のなかに偉がいた。そのひとつだけが透き通っていて、中がみえる。偉は小さなお坊さんのようで、白とグレーの墨染めの法衣も来て、にこにこ微笑んでいた。やがて、その玉は斜め上へと遠ざかっていく。目覚めたときは、悲しかった。後にその光景は、狩野芳崖の描いた悲母観音の絵画のイメージに影響されていたのかと知る。
  いくつもの出会いに恵まれ、それに助けられながら、偉が生きていた証を追い求める歳月であった。そして、それは偉の死を受け止める作業でもあった。

  この春、10年ぶりにひな飾りを出した。10数年前、友人からおみやげにもらった男雛と女雛。ひな祭りになると、淳子は自分のためにそれを飾り、お祝いしていた。だが、偉が死んでから、ひな祭りも、クリスマスも、正月も、自分のための祝いごとはすべて縁がなくなっていた。ひな祭りを祝うという発想などどこからも出てこなかった。しかし、今年はなぜか「母さん、そろそろ自分のために、ひな祭りをしてもいいんじゃないか」と言っている気がした。小さなひな飾りをリビングに飾り、桃の花を生けた。そんなことができるようになるまで、10年かかった。
  遺品もかなり整理した。偉が使い残した歯磨きから、シャンプーの空き瓶、調味料に至るまで捨てられずにいたが、中身を使い切ったものは、すべて処分した。偉が高校時代に愛用していたエレキギターは、フリーペーパーに「差し上げます」と広告を出した。「必要とする人が使ってくれることで、偉が大切にしていたものが誰かの役に立つのなら」という思いを込めた。20件近い問い合わせがあったが、そのなかから、中学生の少年に手渡した。
  月日は、悲しみの質を変えていく。

行政訴訟で戦い続ける

 2006年3月、偉の死が労災にあたるか否かを再審査していた労働保険審査会は、「労災にはあたらない」とする決定を下した。労災申請は、まず労働基準監督署への申請を行い、そこで労災と認められないときは、労働保険審査会にもう一度、審査をするように請求できる。そこでも認められないと、再び同審査会に再審査請求を行うことができる。偉の死は最終段階でも、労災とは認められなかった。
  残された道は、行政の下した決定に不服があるとして、行政訴訟のみ。淳子は今、行政を相手に、裁判を起こす準備を進めている。
  それはなぜか。淳子は、リクルートを相手に裁判を起こした当初から、行政が労災と認めないときは、行政訴訟を行うことを決めていた。「労災ではない」という行政の判断が誤りだったと裁判所が認め、淳子が勝訴したとしても、得られる金銭は労災保険から給付される保険額のみ。裁判にかかるもろもろの費用を差し引けば、手元に残る額はわずかだろう。敗訴すれば、出費のみがふくらむ。
  だが、何もしなければ、「偉の名誉が回復されないままで終わってしまう」と淳子は考える。リクルートとの裁判で和解した以上、今後、リクルートの責任を問うことはできない。しかし、「偉の死は仕事が原因ではない」とした厚生労働省の判断を覆すことができれば、偉が過労死だったことが社会的に明らかになる。過労死や過労自殺が跡を断たない社会や、それに有効な手だてをしていない行政に対して一石を投じることにもつながる。だから、からだが持つ限り、声を上げ続けていこうと思っている。
  そして、「自分のやれるところまで、やってみて、からだが持たない、もうダメだと思ったら、その時にどうするかを考える。今までもそうやって生きてきたから、これから先もそれでいこうと思う」と考えている。

淳子の暮らすマンションリビング。
偉の写真が飾られている。
母と息子の絆は強かった。何も言わずとも、お互いにわかりあうものがあった。しかし、それは、母が息子を溺愛して、息子の人生にまで介入してしまうようなベトついた関係とは違う。子どもが育つことと、自分の自己実現を同一視するようなこともなかったであろう。淳子は「年をとったら、いかに息子の世話にならないで生きていけるか」を考えていた。
  淳子が、偉やまどかに事あるごとに言っていた言葉は「それぞれがそれぞれらしくあれ」。
  淳子は母の葬儀のとき、偉に「母さんが死んでも、お葬式もお墓もいらない。骨は川に流してくれていい。そういうことにわずらわされないで、おまえは好きに生きなさい。せめて、母さんがしてあげられることは、それくらいしかない。そして、『呑気な母さんだったな』と笑いながら見送ってほしい」と話した。偉は黙って聞いていたという話からも、親子の関係性がどうであったかが伝わってくる。
  淳子の長年の友人で、偉のこともよく知っている古賀キヌ子によれば、「淳子さんと偉さんは性格が似ていました。偉さんはお母さん思い。淳子さんも偉さんをかわいがっていました。映画や本の感想を話し合ったり、真剣に議論しあったり・・・。男の子が母親とあんなに議論するなんて、ふつうはないでしょう。淳子さんは、偉さんがやりたいと思うことを、自由にやらせました。なかなかできることではない。ふつうの母と息子の関係とは違う、どこかつきぬけたところがありました」という。
  そして、偉は29歳で死んだ。生きていれば、結婚して家庭を作り、子どもができ、自らの手で家族の絆を作っていったであろう。我が子を育てる喜びをかみしめ、人生の味わいを深めていくこともできたはずだ。だが、その前に命は断たれた。母の思いは、根こそぎもぎとられた。

「ペイフォワード」というアメリカ映画がある。アルコールを断つことのできない母と二人暮らしの少年は、中学の社会科教師から、「世の中を変える方法について」考える宿題を出される。少年は、「1人が3人を幸せにする。3人はそれぞれが3人を幸せにする。それをつないでいけば、世界中の人が幸せになる」ことを思いつく。そして、まず自分が3人の人を幸せにするために行動する。やがて、母は立ち直り、幸せの兆しが見えたところで、少年は死んでしまう。そして、ラストシーン。悲嘆にくれる母の前に、少年のおかげで幸せをつかんだ人びとが集った。
  おそらく、多くの人はこんな感想を抱くだろう。
〈少年からもらった数々の幸せや優しさを、これからは自分が人に渡していこう。手渡された人が、また他の誰かに渡す。そうやってつないでいけば、少年の死は無駄ではない。彼が生きていた証になる〉
  この映画を見た淳子は、身につまされ、少年の死に偉の姿がかぶってみえたという。だが、「幸せを手渡そう」「人の役に立ちたい」という発想に共感はしても、それを行動に移そうとまでは思えなかった。「息子を失った親」と「そうでない者」の間には、決定的な隔たりがある。時間が経てば経つほど、息子を亡くした悲しみは、「個人的な悲しみ」へと深化していく。

「母さん、ありがとう」

 子どもを亡くした親の気持ちは、経験したものにしかわからない。「もし、自分がその立場だったら」と想像しようとしても思考回路がストップをかけようとする。そんなことは想像すらしたくないからだ。だが、同じ痛みを抱くことはできずとも、そこから学ぶものは数限りなくある。子どもがいる人は、遠きなつかしき日を振り返ってみてほしい。
  赤ちゃんだった頃の愛らしいしぐさ、初めて歩いた日のこと、自分を見つめるクリクリとした目、人懐っこい笑顔。やがて、成長するにつれて、行動は広がり、友だちができ、世界が広がっていく。生きている喜びをからだ全体に漂わせ、そこから生命の泉があふれだしてくるかのごとく、きらめく命の塊。
  子どもの成長を通し、親もまた人生を生き直すチャンスを得て、
「おまえがいたから、今の私がいる。おまえのお陰で、生きる喜びや人生の意味を知ったのだ」
  という思いがあふれたのではないか。
  死ぬ間際に「もっと仕事をすればよかった」と悔やむ人はいない。「もっと、家族と過ごす時間を大切にすればよかった」と後悔するという。
  人はふだん、ほんとうに大切なものはそれほど多くはない、ということに気がつかない。幸せは身近なところにある。だが、幸せは空から降ってくるわけではない。自分が幸せになりたいと思ったら、愛する人が幸せであることが必要なのだ。そのために、互いが歩み取り、寄り添い、手を貸し合う。その過程のなかで、人は変わることができる。人を変えることができる。その源泉は家族の営みの中にある。

 ひとつ、心に引っかかっていることがある。偉は倒れてから、一言も言葉を発しないまま旅立ってしまった。伝えたい思いはたくさんあったはずだ。それは何だろうと考え続け、ふっと幼い子が病気で横たわっている場面が頭をよぎった。
  それは、熱を出して寝込んだ幼い子どもの姿だった。冷たいタオルを額にあて、からだをさすり、介抱する親に対し、幼い子は自分の苦しさも忘れて母に感謝の言葉を告げる。
「僕のために寝ないで看病してくれるんだね」と全身で受け止める。「ママ、疲れたでしょう。大丈夫」と気遣いを見せる。
  愛を受け止める力は、幼な子ほど強い。そして、自らの愛を、存在まるごとかけて相手にぶつけてくる。愛には形がない。しかし、心はつながる。
  その光景を心に思い浮かべたとき、偉が最後に言いたかった思いのひとつが伝わってくる気がした。
  人は、たとえ意識がもうろうとして、言葉を発することができなくとも、亡くなる瞬間まで回りの話し声は聞こえているという。倒れてから、ずっと見守り続けてくれた母に、苦労して自分を育ててくれた母に一言、こう言いたかったはずだ。
「母さん、ありがとう」

(敬称略、おわり)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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