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Seriesノンフィクション
ある家族の肖像 渥美 京子
05/09/15

第13回 二重に傷つけられた心

仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

「御巣鷹山」遺族と重なり合う思い

 石井偉(いさむ)の元上司に対する証人尋問が終わり、法廷を後にした石井淳子は、こうもらした。
「ここまで生きてくる間にけっこういろいろなことがあって、他人より多少動じなくなっているはずの者でも、裁判を続けるというのは相当にしんどい。これが、それまで穏やかに生きてきた女性が夫や子どもを亡くして、さらに裁判を続けるというのであれば、どれほど大変なことだろう」
 顔には疲労の色がにじみ出ていた。
 個人が裁判をするのは、精神的にも、肉体的にも負担が大きい。さらに、お金もかかる。
 淳子は証人尋問に先立つ10回にわたるラウンドテーブル方式での話し合い(裁判官と原告、被告がひとつの丸テーブルを囲んで行う協議)はすべて出席し、それ以外にも弁護士との打ち合わせのために、幾度となく上京している。東京−旭川間の飛行機代や宿泊代、雑費などを合わせると1回あたり10万円近い出費になる。加えて、裁判所に提出する資料のコピー代や弁護士の交通費などもかさむ。母子家庭でつつましく暮らし、2人の子どもを大学に進学させた淳子にさほどの貯えがあるとは思えない。

 こうしたもろもろのことをある程度、覚悟した上で、淳子はあえて裁判という道を選んだ。裁判に至らざるを得なかった心の軌跡を振り返ると、一冊の本にたどりつく。
   偉が亡くなって間もない頃、旭川に住む知人が自宅を訪れた。その知人は精神科医の野田正彰氏が書いた『喪の途上にて/大事故遺族の悲哀の研究』(岩波書店)を淳子に渡し、
「今でなくてもいい。いつか落ち着いたら、この本を読んでみてください。きっと、何かお役にたつはずだから」
 と置いていったという。そして、淳子は
「この本を読んで立ち直るきっかけを与えられた」
 と語ったことがある。
 同書は、1985年に御巣鷹山に墜落し、520人の犠牲者を出した日航ジャンボ機事故で、家族を失った遺族の心の軌跡を綴っている。事故を通して生きる意味を再発見していった人々の話が胸をうつ。このなかに、まるで淳子の気持ちを代弁してくれるかのような文章があった。

「事故死は悲惨であるが、その悲惨をもう一度汚すのもまた人間であり、社会システムである。そして、もう一度生きてみよう、社会には意味があると思わせるのも、また人間である」

 愛する者の死に直面して、悲しまない者はいない。しかし、病に倒れた肉親に「できるだけのことをした」と思えるなかで迎える死と、予期しない形で突然、訪れた死とでは、残された者が受ける悲しみの度合いは違う。
 精神的ショックに打ちのめされながら、「そんなはずがない」と死を受容することに抵抗し、一言も発せず旅立った者に「なぜ、死んだのか」と問いかける日々…。やがて、自分が生き残っていることへの罪悪感を抱き、自らが生きる意味を喪失する。心に刺さった棘は容赦なくくい込み続け、試練の時が続く。
 そのような状況下におかれた遺族にとって、責任を負うべき立場の人間の発言や姿勢は大きな影響を与える。野田氏によれば、日航ジャンボ機の墜落後、喪の途上にある遺族を苦しめたのは、責任逃れに終始する会社の対応だったというが、それと同じように息子の死という悲惨な事態に直面している淳子を、さらに傷つけたものがある。ゆえに淳子は裁判に踏み切らざるを得なかった。死の悲惨さを、さらに汚したものは何であるのか。個人なのか、それとも社会システムなのか。

対立する原告に電話をしてくるとは…

 2001年6月14日、東京地裁において、会社側証人の元上司Tに対する証人尋問が開かれることになった。Tはすでにリクルートを退社しているが、偉が亡くなった当時は求人情報誌『週刊B-ing』の編集長を勤めており、偉の死の4ヵ月前まで直属の上司であった。
 Tは1988年のリクルート事件当時、広報課長も勤めた人物で、上層部の信頼は厚く、博識に加えて温厚な人柄で部下からも慕われる存在だったという。偉とは上司と部下という関係を超えて、読書や映画など趣味を通じた交流があり、告別式の弔辞では、偉に対する熱い思いに満ちた惜別の言葉を送っている。
 それゆえに、淳子や原告側弁護団は裁判が始まる以前から、Tに対して偉の労働実態について話を聞かせてほしいと申し入れをしていた。しかし、Tは「どちら側の立場にも立ちたくない」と拒否し続けた。が、蓋をあけてみれば、Tは会社側の証人を引き受けていた。
 さらに淳子を混乱させたのは、口頭弁論の2日前、Tが淳子の自宅に電話をかけてきたことだった。Tはこう話したという。
「法廷では自分の気持ちはゆっくりとお話ができないと思いますが、できれば今まで通り、(淳子と)話ができる関係でいたい。裁判によって、白か黒かデジタル式に決着がつくのはつらい。だから、最後の思いを陳述書に書きました」
 被告側に有利な証言をするために人選された被告側証人が、その対立相手である原告にこのような心情を吐露するのはきわめて異例である。原告側弁護士の玉木一成氏でさえ、「こんなことは聞いたこともない。いったい、どういうことか」と言った。結局、会社側の立場で証言することにしたTには、どこかうしろめたい気持ちがあったのではないだろうか。
 そのことの判断はさておき、Tが思いを書いたという陳述書が興味深い。そこには、偉が最期を迎えた時の心情と今の心境が綴られており、当時、悲しみのどん底にいた淳子との微妙なすれ違いが垣間見える。偉の臨終後の場面と併せて再現してみたい。

霊安室の入り口までで帰って行った上司たち

 偉が午前2時に息を引き取った後、妹のまどかは淳子に代わって上司TとMの2人に電話で臨終を知らせた。Tはその時の思いを陳述書にこう綴る。

〈深い悲しみと脱力感に襲われ、(会社から)自宅までの30分ほどの道のりをただただ歩いて帰りました。家に帰ってからも、風呂に入る気力もなく、眠ることもできず、ぼんやりと朝になるのを待っていました(中略)私は、お悔やみの言葉以外に、何も言葉にならず、『お母さんの側にいて力になってあげてください』というようなことくらいしか声を掛けることができなかったようにそのときのことを思い返します〉

 ふつう、かわいがっていた部下が不慮の死をとげた時、上司は何をおいてでもかけつけるものだ。淳子の記憶によれば、真っ先にかけつけたのは偉の先輩で、ジャーナリストの川村清明であり、Tをはじめ会社の責任ある立場の者が顔を見せたときには、陽ものぼりきり、病院の外来診察が始まった後だったという。しかも、Tとさらにその上の課長クラスとおぼしき上司2人は、霊安室の入口に顔を出し、短いあいさつを済ませるとすぐに帰っていった。その間、淳子たち遺族は霊安室にいたが、悲しみに浸る間もなく、病院からは
「ご遺体はいつお引き取りになりますか」
 と聞かれ、右も左もわからぬ東京で、何をどうしたらいいか困惑していた。
 Tは陳述書の後半で、
〈すぐに遺族の元にかけつけ、できる限りのことをすべきだった。そうしなかったことが、心のすれ違いを生み、裁判という道を選ばせてしまった〉
 と述べるが、淳子に言わせると
「それが原因のすべてで裁判という形をとることになったと言わんばかりのこの陳述書は、問題の争点をぼかし、論点をすりかえている。もし、意図的にそうしているなら、やり方が汚い」
 となる。
 予期せぬ死に遭遇し、その死を受容することさえできない状況にいる遺族にまず必要なことは、悲しみと向き合う時間の確保であるといわれる。感情のままに、泣き、叫び、涙を流すことを経ずして、次の一歩は開けない。だから、近所の住民や会社の人間など、第三者が通夜や告別式の段取りをとり行い、遺族は遺体の前に座って、ただひたすら悲しみと向き合えるように配慮するのである。
 日本の労務慣行においても、在職中の社員が亡くなった場合は、すぐに会社の者が遺族のもとにかけつけ、悲しみを受け止めるとともに、通夜や告別式の手伝いを分担するのが習いになっている。
 と考えるならば、Tや前回、証言台に立った上司Mがすぐにかけつけ、自分より苦しんでいる家族の気持ちを受け止め、会社に応援を求めるのが、本来なすべき役割だったのではないか。Tの陳述書からは、「出発点」における、会社側の対応の遅れという「誤り」が見えてくる。
 会社の人間が組織的に動きだしたのは、淳子の妹が、通夜や告別式の段取りを淳子が一人で切り盛りしているのを見るに見かねて
「少し手伝ってもらえませんか」
 と言ってからのこと。一連の対応のなかで淳子の心に焼き付いたのは、総務課の人間が一度だけほんのちょっと顔を出して
「なんせ、うちは若い会社ですから」
 と言い残し、後は若い者にお任せというような態度で帰っていった姿だったという。

 対応のまずさはその後も続く。告別式から中一日おいた2日目、淳子は会社に来るように呼ばれた。役員も交えた席で、型どおりの弔問のあいさつが終わると、あとは事務的な話が大半だった。社員証や保険証のことに始まり、社用クレジットカードの返還を求められ、さらに会社が偉にかけていた団体生命保険の支払いを告げられる。まだ、死の現実さえ受け入れることができない淳子には、「あの子の命をお金に変えることなんかできない」という思いがこみあげる。と同時に、「会社としては事務手続きやらお金の清算をすませて、早くすっきりしたいということなのか」という疑念の芽が頭をもたげた。

死んでしまえば関係ないのか?

 その疑念がふくらみ始めたのは、偉の荷物を整理して旭川に送るため、独身寮を訪れたときだった。いったん旭川に戻った淳子は、9月下旬、再び上京した。引き払う日を告げるため、会社の担当者だと教えられたところへ電話をすると、
「わかりました。担当の者は会議中なので伝えます」
 と言ったきり。あとは一切、何の連絡もない。「お困りのことがあれば手伝います」という言葉などもちろん返ってこない。
 まどかと二人で偉の遺品を片付けると、段ボール30個分になった。そこから先が大変だった。電気、ガス、水道に始まり、NTTや携帯電話の解約手続きのために、地図をたよりに区役所や電話局などを探し歩いた。旭川であれば、市役所もNTTもその他の行政窓口もそう離れていない、わかりやすいところにある。しかし、大都会ではそれぞれ点在しており、別々の交通機関を使って出向かなければならず、また駅からも遠かったりして、困惑することは少なくなかった。
 疲労感を抱えて独身寮に戻り、さて段ボールを発送しようとして、運送会社を探す方法がないことに気づく。手元に電話帳はない。思い悩んで、上司Mに電話をかけ、
「会社で使っている運送会社があれば、ご紹介いただけませんか」
 と尋ねる。しかし、Mはわからないとあいまいな返事。
 淳子は思った。
「リクルートという会社は、死んでしまった人間とはもう関係ないという態度をとるのだ。こんな扱いを受けるのだ」
 偉がリクルートに内定した時、わざわざ東京に招待してくれ、丁寧な説明会を開き、社内を案内してくれた時に見せた会社の表情と、29歳で亡くなった社員を見送る時の表情の落差。それは、喪の途上にある淳子をいたく傷つけた。会社の者に他意はなかったかもしれないが、淳子にとっては「死んだらそれでおしまい」と突き放されたように思えたのであろう。それは、死んだ息子と共に淳子自らをも汚されたことに等しかった。

 そこから裁判に至るまでの話はすでに書いた通りである。
 身近な者の死は、生き残った者に生きる意味を問いかける。淳子を裁判に向かわせたものは、最初は怒りだったかもしれない。だが、偉を愛し、その死を心から悼む多くの者たちと出会うなかで、淳子は変わっていく。偉のネットワークを一つ一つ、つないでいくなか「あの子はほんとうに素敵な人たちに囲まれて生きてきた。これは偉が私に残してくれた財産なのだ」と気づき、裁判にたどりつく。裁判を行うことは、未来を断ち切られた息子の死に、社会的意味を見いだす作業であり、それは自らが生きていく意味を探す旅でもあった。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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