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SERIES 03 ある家族の肖像 -息子を失った母が求めたもの
渥美 京子
第11回 第一回口頭弁論

 仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

 激務の最中に石井偉(いさむ)は若くして亡くなった。その真相を知ろうと動き出した母親の淳子は、株式会社リクルート社に損害賠償を求める裁判を起こした。

 1999年7月29日午後1時30分から、東京地方裁判所の631号法廷において、民事27部(飯村敏明裁判長)が担当する「リクルート過労死事件」の第一回口頭弁論が開かれた。
 傍聴席には、偉や淳子の友人・知人と被告であるリクルート社の社員合わせて15人ほどが座っている。労働組合などの支援団体による「動員」はなく、一人ひとりが故人や淳子に心を重ね、それぞれの思いを抱き、傍聴に来ていた。法廷独特の緊張感が漂う中、グレーがかった青のブラウスとスカートに、銀色のバレッタで髪を束ねた淳子は、足を運んでくれた友人たちに頭を下げて感謝の気持ちを伝えた後、3人の原告側弁護団と並んで原告席についた。

月100時間を超える残業と重い責務

 まず初めに、原告の代理人である小池純一弁護士が次のような意見陳述を行った。これは、「証拠によって証明しようとするのは、以下のとおりである」と立証方針を示すものである。

〈一 石井偉の経歴〉

 偉は92年3月に北海道大学卒業後、同年4月に被告会社に入社した。入社後、約3ヵ月間の研修を経て、週刊求人情報誌「B-ing」編集部に配属され、その後、亡くなった年である96年4月からは「デジタルB-ing」編集部署へ異動となった。異動後約5ヵ月して、偉は、くも膜下出血発症により同年8月29日に死亡した。

〈二 「B-ing」編集部での業務の過重性〉

1 偉は「B-ing」配属当初から継続的に長時間かつ深夜にわたる過重労働に従事していた。その労働時間は年間2,800時間に近いものと推定され、うち所定外労働時間は約1,000時間にも達する。
2 また、同部署の貴重な男子正社員として重い責任のもとで編集業務を行う以外にも本来営業に属するような様々な業務を行っており、業務は質的にも過重であった。

〈三 「デジタルB-ing」編集部署での業務の過重性〉

1 同部署は新しい部署であり、システムも確立していなかったため、週1回の画面更新のために、通常は深夜、時には明け方にまで及ぶ勤務を余儀なくされていた。
 同年4月以降の労働時間は毎月200時間を超え、特に画面公開が始まった6月以降は年換算で3,000時間あるいはそれ以上に達するような極めて過重な労働に従事していた。
 6月以降、所定外労働時間も月約100時間、深夜労働時間も月50時間を超えている。深夜あるいは明け方まで勤務した後、満足に睡眠を取る間もなく再び勤務を開始するという、人間の生体リズムに反する不規則勤務形態も多く見られる。
2 偉は、被告会社内でも画期的なインターネットホームページ作成更新にかかる多くの業務を、これまで全く経験がなかったにもかかわらず一人で行っていた。しかも、被告会社からヒット数や顧客獲得数を厳しく求められており、同業務の心理的負荷も計り知れないものであった。

〈四 業務と死亡との因果関係〉

 偉は入社時の健康診断ではほとんど異常は見られなかったにもかかわらず、かかる入社以来の過重業務により、血圧、及び血中脂質値に異常が見られるようになった。そして、更に引き続いた過重業務により、ついにくも膜下出血を発症し、死亡するに至った。偉の死亡と過重業務との因果関係は明らかである。

〈五 被告会社の責任〉

 被告会社としては、その雇用する従業員に対する安全配慮義務を負うものであるが、偉の健康状態に配慮して労働軽減等の適切な措置をとるどころか、かえって「デジタルB-ing」編集部署でのより長時間過密労働に従事させた結果、偉を死に至らしめた。
 被告会社の安全配慮義務は明白であり、その責任は重大である。

悲しみをこらえた母の冒頭陳述

 続いて、淳子が意見陳述を行う。ゆっくりと立ち上がり、用意した文章を手に、
「石井偉の母であります」
 と切り出した淳子の声は、いつもの明るいトーンとは異なり、重く響くものがあった。

「あの日、救急車で息子が運ばれたという第一報を受けました時、真っ先に私の胸の中に溢れてきました言葉は“過労”というこの一言でした。
 しかも「くも膜下出血」という病名を聞きまして、これは容易ならざる事態であることも直感いたしました。とうとう恐れていた事が起きてしまった。ついに息子はオーバーヒートしてしまった、という気持ちでいっぱいでした。
 と申しますのは、偉が年に2、3回の帰省の折に話してくれる言葉のはしばしから、どれほどハードな仕事に就いているかは、伺い知ることができました。
 ある時など、旭川に帰ってきました折でしたが、夜中の12時過ぎに会社からの電話で起こされた事もありました。その時、息子はこう申しました。
『ごめんね。起こしてしまって。リクルートでは夜中の12時は、まだ夕方感覚なんだ』と。
 また、用事があって息子の部屋に電話しましても、夜在室している事はまずなく、いつも留守番電話が応対するばかりでした。

 亡くなる1ヵ月前の7月、札幌への出張の際などは、朝の6時まで会社で仕事をしていて、その足でそのまま空港に赴き、その日の午後2時半には、もう札幌で取材の仕事をしている事もわかりましたが、親の私としては何もそこまでする必要はなかったのでは、と今となっては非常にせつなく感じます。
 偉は責任感も強く、こうと自分で決めたことや頼りにされたことは、苦しくとも精一杯の努力をして成し遂げようとする子供でした」

傍聴者の胸をうつ母の思い

 淳子は、用意した文面にはほとんど目をやらず、感情を押し殺し、きわめて冷静に、とつとつと語り続ける。偉との会話を通して母が感じた印象を述べた後で、提訴に踏みきった心情を述べた。

「デジタルビーイングへの異動も、あの子の編集センスをかわれてのことと教えられましたが、それであればなおさらのこと、まるっきり畑違いの分野であっても、兼務という忙しさの中で出来る限りがんばったはずです。
 しかし、会社からの回答書は、まるでそもそも偉が無能でだらしがないから、ただ、だらだらと会社に居残っているだけだ、と言わんばかりのものでした。
 この3年近くの日々を、毎日毎日、私は何故あの子が29歳の若さで死んでいかねばならなかったのか、何が原因なのか、どんな働き方をしたのか、どのように働かされてきたのか、その事を知りたいと思い続けてまいりました。
 今、あの子は自分の働き方について、一言の抗弁も異議申立ても出来ません。今となりましては、私があの子にしてやれるせめてもの、たった一つの事は事実を調べる事、それだけになってしまいました。
 私どもは何も事を荒立てたくて、提訴という形を取ったわけではありません。会社からの十分な協力がない中で、私どもで考えられる、出来る限りの方法で息子の勤務状況を調べてまいりました。そして少しずつ事情がわかってくるにつけて、ますます、やっぱりあの子は“過労”が原因で亡くなったのだと考えるようになってまいりました。
 私がこのように、偉の死は、“過労死”だったと考えるこの確信について、公平な立場から、全般的に調べていただいた上、公正な判断をしていただきたく、切にお願い申し上げる次第です」

 胸にこみ上げる感情をこらえ、ひとつひとつ言葉をかみしめるように語る母の姿は、傍聴者の心を揺さぶるものがあった。

被告側は「提訴は不当」と異例の主張

偉の墓地から
大雪山をのぞむ

 原告側の意見陳述が終わると、裁判長は被告に答弁を求めた。リクルート側の代理人・飯塚卓也弁護士は「本件提訴は誠に残念であり、不当である」と切り出した。

「過重業務で亡くなったという主張は、事実と異なり、事実誤認である。死亡の原因となるほどの過重業務は存在しない。(偉は)リクルートの仲間に囲まれ、プライベートな趣味も楽しみ、生き生きと働いていた。にもかかわらず提訴とは不当である」

 この答弁は、原告側弁護団を驚かせた。一般に民事訴訟の第一回口頭弁論においては、訴状に対する「認否」が行われる。認否とは、訴状に書かれているそれぞれの箇所について、「この部分は認める」、「この点は争う」「これについては不知(知らない)」などと答弁することをいう。双方に争いのない事実関係を確認することで、争点がどこにあるのかを整理していくためでもある。
 これらの作業を経て、争点に対して、証拠や証人による陳述や尋問が行われ、それぞれの主張を立証していくのが通常の流れである。
 ところが、リクルートは第一回口頭弁論までに「認否」を行わないばかりか、「われわれは原告らに誠実に対応してきたのに、突然、裁判を提起したのは不当である」と主張したのである。
 後に小池弁護士は「あの時は、おもわずカッとして頭に血がのぼりました」と述懐するが、原告側は何の前触れもなく提訴したわけではない。何度も書類のやりとりを行い、話し合いをし、労災申請に必要な労働実態を示す資料の開示を求めてもいる。しかし、出された資料はわずかで協力的な態度は得られなかったという。また、損害賠償責任を求めても、リクルート側は「その責任はない」と主張した。だから、訴訟という形で裁判所の判断を求める道を選ばざるを得なかったのである。
 労災問題に詳しい全国安全センター・事務局長の古谷杉郎によると、「リクルート側の対応は、内容を取り違えた異例の答弁だった」といえる。

 もっとも淳子は気持ちの踏ん切りがついたという。閉廷後、淳子はこう語った。

「提訴はぎりぎりまで悩みました。息子がリクルートで築いた人間関係を壊すのではないかと。それに、お金をもらっても何にもならない。あの子が帰ってくるわけじゃない、心の傷が癒されるわけじゃない。
 弁護士に相談しただけで、リクルートの方から中傷を受けたくらいだから、裁判をすることでもっと傷つくかもしれないとも思いました。でも、考えてみれば、息子を亡くしたこと以上の徹底的な喪失感はありません」

「生き生きと働いていた。だから提訴は不当」という言葉はあまりにも無神経といわざるを得ない。身体の不調を抱えながら、愚痴もこぼさず、目の前に山積みの仕事をこなさざるを得なかった状況に思いをはせることもなく、組織を守るための弁明。それが亡くなった人間と、遺族を前にして向ける言葉だろうか。淳子は続けた。

「あの言葉を聞いて、リクルートという会社の本質がはっきりとわかりました。裁判を通して、29歳で死んでいった息子のことを多くの方に知ってもらい、若い方たちが過労で倒れるような状態を少しでも改善することができれば、あの子が生きた意味があるのではないかと思いました」

 リクルート側による「認否」は次回に持ち越され、かくして法廷を舞台とした、長い闘いが始まった。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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