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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 03 ある家族の肖像 -息子を失った母が求めたもの
渥美 京子
第5回 母の青春と新たな生活

 仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

夢はなく、生きることの切なさに惹かれて

 10月半ば、冬の使者といわれる雪虫が旭川市内でも飛び始めた。雪虫は初雪が降るころ、風が吹かない暖かい日に現れる羽虫。薄い羽の下に白い綿毛のようなものをくっつけており、その飛ぶ姿は白い雪が舞っているかのようだ。
「雪虫が飛ぶと、まもなく雪の季節がくる。昔、母がよくそう言っていたの。偉(いさむ)とも同じような会話をしたことがあったわ」
 石井淳子は久しぶりに偉が小さかった頃のアルバムを開けた。これまでは写真をみると涙がこみあげたが、かつてのようには泣かなくなった。過去を振り返りながら、ふと気づくことがあった。夫と別れ、偉とまどかと3人で暮らし始めてからは本当にのびやかで、楽しい日々だった。それ以前のことを思い出すことはあまりなかった、と。
「たぶん無意識に忘れたい、忘れようと思ってきたのでしょうね。つらいこと、嫌な思い出がセットになって蘇るから」
 淳子はしばらく沈黙した後、封印していた記憶を青春時代からたどり始めた。

 10代半ばから後半、思春期の淳子を支配していたのは厭世観だった。
「大人って、あてにならないんだ」
 と思ったのは中学生の時。酒に酔った義父が暴れ出し、手がつけられなくなった。困った淳子は近所の大人に助けを求めたが、「どうにもしてやれない」と言われただけだった。その前後から、大人への不信感が芽生えていたのだろう。
 淳子が小さい頃にはそれなりにかわいがってくれた義父は、酒に酔ってはしょっちゅう「お前は俺の子じゃない。だから俺を毒殺しようとしているんだろ」と言葉の暴力をふるった。学校から帰ると、親が作った借金の返済を待ってもらうため「もうしばらく待ってください」と頭を下げに行かされる。
 貧しい中でも母は晩ご飯をしっかり作ってくれた。それなのに食べ始めると、暴力が吹き荒れた。食事もろくにとれない夜は、眠れないままに、
「地獄とはあの世にあるのじゃなくて、この世にあるんだ」
 と考えた。
 やがて淳子は、世の中に対しても、人生に対しても否定的になっていく。母も義父に殴られ、ひどい目にあってきた。にもかかわらず、義父が死んだとき、遺体の前で心からの涙を流した。その姿を見て、高校生の淳子は「なんで、あんな男のために泣くわけ?」と子どもである自分にはわからない不思議な母の心の動きをみていた。
 心が落ち着く場所は図書館だけ。淳子はアルバイトがないときは、本を読んで過ごした。大学に行きたかった。勉強がしたかった。だが、義父も他界し、一家の柱として母からも頼られている中では、言い出すこともできなかった。高校卒業を間近に控えたある日、アルバイト代をこつこつと貯金したお金で、勉強机を買った。せめてもの意地だった。

 淳子の10代後半、時代は大きく揺れていた。1959年に三井炭坑における炭坑夫の一方的大量解雇を発端として起きた三井三池闘争をはじめ、労働争議が各地で盛り上がっていく。国会議事堂周辺は「安保粉砕」を叫ぶデモ隊に囲まれ、60年にはデモに参加していた東大生の樺美智子さんが機動隊の衝突で死亡した。海外では各地で反植民地闘争が勃発。米ソ冷戦下、互いの覇権争いは激しさを増し、アメリカは北ベトナムへの攻撃を続けた。
 北海道電力に就職して2年目の63年、淳子は20歳を迎えた。この年の大ヒット曲は梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」。東京オリンピックを翌年に控え、日本は高度経済成長街道をまっしぐらに進み、多くの日本人は明るい未来を信じて邁進していた。
「その頃に描いていた夢? 特になかったわね。小さな頃から将来の夢というものを持ったことがないの。ものわかりがいい子どもで、それは決していいことじゃなくて、ただ、あきらめがよすぎたってことなんですよ」
 夢のない少女時代を過ごし、20歳を過ぎた淳子の心をとらえたのは文学者・高橋和巳だった。
「安いお給料の中から、毎週『朝日ジャーナル』を買うのがとっておきの楽しみだったの。そこで、『邪宗門』と出会い、強い印象を受けたんです」
 当時の『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)は、時代の空気を反映する週刊誌として、社会的問題に関心を持つ若者から大人まで幅広い読者層に支持されていた。すでに『悲の器』などを発表し、鋭い戦後批判などで注目を集めていた高橋和巳は65年から、『朝日ジャーナル』に『邪宗門』の連載を開始した。『邪宗門』はありうべき世を求めて権力と対峙した新興宗教団体「ひのもと救霊会」の誕生から壊滅に至までの歴史と、夢幻の花をこの世に求めて苦闘した人々を描いた壮大な叙事詩である。
「私は小さい時から、早すぎる感じで見なくてもいいものを見てしまったからか、生きること自体が重い、苦しいと思っていたの。高橋和巳が描く、生きることのせつなさに惹かれたんだと思う。テレビでは機動隊の放水や催涙ガスを浴びるデモ隊の姿が流れてくる。高橋和巳はそれを『機動隊に踏みつぶされて死んだ人間が最後に見た光景は靴底だ』と表現した。そういう暗さに共感したの。好きな作家を一人だけ選べといわれたら、高橋和巳でしょうね」

結婚と出産で幸せは訪れたが……

偉、1歳2ヵ月

 だが、結婚と偉の誕生を機に淳子は変わった。今の性格がそうであるように、朗らかで社交的で、どちらかというと楽天的な性格が頭をもたげた。
「考えてみると、小さい時は明るく活発な子どもだったのね。つらいことが多いなかで、一時的に厭世的になったけれど、偉が生まれて、もともと持って生まれた性格が出てきたんだと思う。それに、赤ん坊がいるのに、厭世的なことは言っていられないから(笑)」
 北海道電力に勤める夫の宏は転勤族だった。結婚後、最初に住んだ土地は北海道上富良野。今でこそラベンダーで知られる観光地だが、当時は自衛隊の駐屯地がある他は図書館もなければ映画館もない寂しい農村地帯だったという。
 宏は職場が近いため12時になると昼食を食べに家に戻る。友だちもない見知らぬ土地での日々は、歩いて10分のところにある農協に買い物に行く他、赤ん坊の世話と1日3度の食事のしたくで過ぎていったが心安らぐ毎日だった。そして、偉が1歳半のときに、妹のまどかが生まれる。
「偉はまだ私に甘えたい盛りなのに、かまってやれない。まどかにおっぱいをあげていると、2歳にもならないうちから近所のおうちに一人で遊びに出かけていくような人なつっこい子だったの」
 こんなエピソードがある。ある日、偉がいつも遊びに行っていた近所の家から帰ると「犬にかまれた」と手を差し出した。みると指先に血がにじんでいる。その家ではダックスフンドを飼っていた。
「おとなしい犬なのに、どうしたんだろう」
 と淳子が帰宅した宏に言うと、
「わかった。きっと犬にあっかんべーをしたのさ」
 と宏は答え、二人は「それに違いない」と大笑いした。
 偉は自分の顔ではなく、淳子や宏の目の下に指をあて、「あっかんべー」をして遊んでいた。同じことをダックスフンドにしたに違いなかった。
「小さいときから行動力があって、いつの間にか一人で外に出かけていくの。迷子になったのかと心配して青くなって探すと、たった1回連れて行ったことのあるずいぶんと離れたおうちで遊んでいたなんてこともあったわね」
 偉が3歳になる少し前、偉とまどかを連れて近くのラーメン屋で外食をした。
「ちょうど畳替えで職人さんが入り、食事を作れなかったの。うどんのつゆにラーメンを入れたような味でおいしくないのに、偉は『おいしい、おいしい』とたべてね。コップに注いでもらった水も全部飲み干し『よかったねえ、ママ。お水も売ってて』とにっこり笑ったの。すべてを喜ぶ、明るい子だったわね」
 近所に小さい子どもがいなかったこともあり、淳子は偉とまどかを連れて、外で遊んだ。今のように整備された公園があるわけではなく、むき出しの大自然が格好の遊び相手だった。虫を見たり、草花をとったり、大地を転げ回るように遊んだ。雪の季節になると、雪だるまや雪で滑り台を作り、そり遊びをした。

「僕がお母さんを守るからね」

偉、5歳、まどか、3歳 増毛にて

 偉が3歳のとき、札幌から車で2時間ほど北上した漁師町の留萌支庁・増毛(ましけ)町に転勤となる。留萌本線の終着駅で、高倉健主演でヒットした映画「駅/STATION」のメインとなるロケが行われた場所だ。
 増毛時代の印象に残ることといって真っ先に思い浮かぶのが、引っ越しの苦労だという。宏は仕事が忙しく、荷造りや片付けを手伝ってくれない。それに加え、古い漁師町である増毛には会社の借り上げ社宅やアパートがなく、家族4人が住むための住宅探しに苦労した。とりあえず、下請業者が自社の社員用に建てていた住宅に「見つかるまで」という条件で入居した。結局、3年間で3回も引っ越しをした。
「最初の家は使い勝手がよかったけれど、あとの2軒は古くて、汚くて、押し入れをあけると板の割れ目から外が見えるようなこともあったわ。2軒目の家は、トイレがなくて、隣の家の使っていないトイレを借りたの。遠くて、暗くて、汚くて・・・。大人でも嫌だった。まどかがトイレに行くときはついていってやったけれど、偉は一人で行っていたから大丈夫だと思っていたら、ふっと気づくと1週間もお通じがなかったの・・・。家には恵まれなかったわね」
 だが、古い家の中で子どもたちはのびのびと育っていった。宏は趣味の釣り道具をペンチやカナズチを持ち出して、修理をしていたことがあった。それをみた偉もあちこちにカナヅチで釘を打って遊んだ。古い家なので、汚したり、傷つけたりしても気にならない。いたずら盛りの偉に、「あれしちゃいけない、これしちゃいけない」と言うこともなく、大らかに暮らした。
 偉は年長から、まどかは年中から幼稚園に通い始め、友だちもできた。偉はますます活発になり、小学生たちに混じって遊んだ。
「家の近くには用水路もあり、後で思うとよく事故に遭わなかったと思う」
 ある日、偉が珍しく泣いて帰ってきたことがある。わけを聞くと、
「いじめられて、たたかれた」
 という。相手は大勢で小学生も混じっていた。淳子はとっさに言った。
「一発ずつ、たたき返してきなさい」
「だって、相手がいっぱいいるんだもん」
「だから、卑怯なのよ。大勢でいじめるなんて許せない。お母さんが許可するからたたき返してきなさい」
 偉はしょんぼりしながら、家を出て行った。
「しばらくしたら、にっこにっこして帰ってきたの。どうだった?と聞いたら、『みんな、もう、いなかった』って(笑)。あの時は大笑い。めそめそ泣いている子になったらいけないと思って背中を押したんだけれど、子どもは子どもの世界の中で成長するんですね」

偉、6歳のお正月 増毛にて

 増毛時代はそれでも楽しい思い出が浮かんでくる。だが、偉が小学校1年生の8月、宏はオホーツク海沿いの港町である網走支庁・紋別に転勤となると、さらにアルコールの量が急に増え、淳子の心に射す影は暗さを増していった。
 土曜日の昼に会社から帰ってくると、酒を飲み始め、日曜日も飲み続ける。月曜日は二日酔いで出社できないことも少なくない。淳子や偉を怒鳴りつけ、手をあげる。紋別でも5年間に3回、引っ越しをしているが、宏は日常の家事はもちろん、引っ越しの手伝いさえしなかった。精神的に荒れていくのが手にとるようにわかった。
 淳子は二人の子どもが小学生になったのを機に、外に働きに出たいと思ったが、宏は決して許さなかった。小学校のPTAの役員を引き受けされられ、夜の時間帯に会議があると、帰宅すると同時に怒鳴りつけられた。こうした日々の中で、まどかは3年生の時に身体に変調をきたし、ストレスから不整脈が出るようになった。
 淳子は子どもたちの前では明るくふるまいながらも、内面は悶々としていた。
「子どもたちのことも心配だったけれど、私自身もあせりがあったと思う。もうすぐ30歳、このまま一生、1日3回の食事を作り、夫につかえて年をとって終わるのか、と。このままで終わるのは嫌だ、でも何がしたいのかと問われると答えがでなくて・・・」
 たったひとつの楽しみは、夫と子どもたちが出かけた後で本を読むことだった。書物の世界に没頭することで精神的な飢えをしのいでいた。
 ある日、図書館の掲示板で読書会の案内を見かけ、参加することにした。そこで、一生の友となる古賀キヌ子と出会う。6歳年上の古賀は、淳子との出会いをこう語る。
「知的な方だなというのが第一印象。凛とした透明感があり、毅然としている。それでいて、偉ぶるところがない。言葉の使い方が素晴らしく、文学を通しての表現者の才能に長けていた。こういう人と友だちになりたいな、と思いました」
 二人を結びつけたのは高橋和巳だった。古賀は『わが解体』など評論作品を中心に読んでいた。
「私は高橋和巳の誠実さに感動したの。ちょうど東大の安田講堂事件のあった頃で、紋別という文化不毛の田舎町では高橋和巳の名前を知っている人は少なかったから、出会うべくして友に出会ったという感じ。あの時代特有の悩みを共通しあいました」
 古賀にも同じ小学校に通う娘がいたこともあり、家族ぐるみのつきあいが始まった。淳子は自分が抱えているつらさを直接的に話すことはしなかったが、家に出入りする中で古賀は淳子の抱える悲しみに共感していく。
「紋別はつらい時代だったろうと思う。お宅に行くと、ご主人が横になってお酒を飲んでいる。怒鳴り声が響いている。淳子さんは才能のある強い女性。その彼女が耐えるしかなかった。自分を殺さないと家庭がなりたたないと思っていたのでしょう。子どもたちのために、家庭の中を少しでもいい雰囲気にしようと努めていた。彼女はできうる限りの最大限のことをしたと思います」
 古賀は偉のこともよく知っている。小学1年生から6年生までの偉の成長ぶりを間近に見てきた。
「お兄ちゃん(偉)は、いつ勉強しているのかと思うほどよく遊んでいたけれど、とても利発で強い子だった。あのお父さんを抱えて、どうしてこの明るさがあるんだろうと最初は不思議でした。ぐれることもなく、父親に反発していくこともなかった。やはり、それは淳子さんの力ですね。彼女はユーモアあふれる人で、絶妙のタイミングで人を楽しませる言葉をポーンと出してくる。子どもたちのために楽しそうにおやつを作ったり、食事を用意したり・・・。‘貧すれば鈍す’というけれど、‘貧しても鈍するな、貧しくても恥ではない’を地でいっていた」
 その頃、偉がどのような気持ちで暮らしていたか、今となっては確かめようもないが、古賀は偉がよくこうつぶやいていたのを覚えている。
「僕がお母さんを守るからね」

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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