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[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
SERIES 03 ある家族の肖像 -息子を失った母が求めたもの
渥美 京子
第4回 母の生い立ち

 仕事熱心な若者が、ある日突然この世を去った。最愛の息子を亡くした母は、なぜ息子は命を落とさなければならなかったのかと問い、裁判をはじめる。互いを思いやる家族の絆は、彼の死によって途切れてしまうのか。

作家の娘に生まれて

 石井淳子は戦争の色濃い1943年7月、旭川市で生まれた。
 母は、『礼文の落日』(地人社)、『分教場の娘』(北海道文学選集)などの作品がある作家の戸沢みどり。父は北海道では名が知られた詩人かつ郷土史研究家の更科源蔵(さらしな・げんぞう)。
 父の更科は先妻が肺炎で急逝した後に文学の集まりで母、戸沢と知り合い、互いに惹かれて淳子を授かった。しかし、淳子が生まれる前に関係は破綻し、両親は別居していた。
「二人の娘を残して妻に先立たれた更科は、子どもたちの面倒をみてくれる人を求めていたのだと思います。下の子はまだ赤ん坊でした。更科は母だったら、文学的素養もあり理解してくれるだろうと思ったのでしょう。でも、結局、うまくいかなかったようです。母とすったもんだを繰り返し、正式な結婚もしないうちに別れ話がでました」
 母が淳子を生むことを決めたとき、親戚縁者からは「生まれたら誰かにくれてやれ」とか「親子して首から袋下げるつもりか」と猛反対された。「首から袋」とは物乞いをして生きる「乞食」のことをさす。だが、母は「自分ひとりで育てる」と言って淳子を生んだ。
 母は認知を求め、更科はそれを拒んだ。しかし、生まれた淳子をみて、「自分にそっくり」と認めざるをえず、更科籍に入れた。強い天然パーマがかかった淳子の髪は、更科ゆずりのものだ。
 しかし、認知はしたものの、経済的な援助はほとんどなかった。淳子は父と一緒に暮らしたのは中学1年のときのほんの9ヶ月程度。更科は数年後に別の女性と結婚し、二人の息子をもうけている。

 淳子が2歳の時、母は別の男性と結婚し、義父と三人で暮らすことになる。義父は東京で大蔵省に勤務していたが、上役と関係が悪くなって退職し、流れ流れて北海道にたどりつき、飯場(建設現場)で帳簿の仕事を引き受けていた。
 淳子が3歳で妹が生まれ、その2年後に弟も生まれたが、父親が違うということを意識することもなく、分け隔てなく一緒に育った。経済的には貧しかったが、クリスマスの朝は枕元にプレゼントがおかれ、食べるものが十分ないのにケーキを用意して祝ってくれたことなど、幼き日の思い出は心暖まる暮らしとして記憶されている。
 だが、義父はしだいに酒に溺れるようになり、収入のほとんどは酒代に回っていく。貧しさが厳しさを増していくに連れ、夫婦喧嘩は絶え間ないものとなり、義父は酔っては母に手をあげた。
 中学2年生の3月、事件が起こった。学校から帰ると母が青い顔をして布団に寝ている。義父に殴られてけがをしたため、病院で手当を受けてきたという。詳しいいきさつは知らされなかったが、警察沙汰になったこともあり、義父はそれっきり家には戻らなかった。
「私の戸籍上の父は更科だけれど、父と呼べる存在は義理の父ですね。幼い頃はほんとうにかわいがってくれました。義父は家を出た後、私が高校1年の春、飯場で働いているときに脳溢血で倒れて亡くなりました」
 それから、母は病気がちになり、一家は生活保護を受けながら暮らしをしのいだ。淳子は週末や夏休みはアルバイトをして、給料はすべて家に入れた。
「おしゃれをしたい年頃になっても、自分のためにはほとんど使わなかったわね。母がかわいそうだったから、アルバイト代を家に入れるのが当たり前と思っていたの」
 高校進学はあきらめていた。しかし、中学の教師が「奨学金制度があるから授業料は心配いらない」と進学を進め、母も「親の学歴より、ひとつの上の学校にいかせるのが親の務め」と賛成したこともあり、旭川北高校に入学できた。
 今でも忘れられないことがある。4月に高校に入学したが、手続きをしてから実際に奨学金が出るのは6月以降。このため4月、5月の授業料が払えない。しょっちゅう事務室から呼び出しがかかり、校内放送でも呼び出された。
「あれはつらかった。妹だけにはこんな思いをさせまいと思いました」
 夏と冬の休み、そして3年生になってからは放課後もアルバイトをして生活費を稼いだ。修学旅行はあきらめた。修学旅行のために積み立てはしていたが、旅費以外にかかる費用を出す余裕はない。積立金は弟のスキー板を買うために回した。

結婚、そして偉の誕生

 高校卒業後は北海道電力に就職する。そこで、同僚で1歳下の石井宏と出会い1966年、23歳で結婚する。労働運動が盛んな時代、進歩的思想の持ち主で、口数は少ないが細やかな神経の持ち主だった宏と気があった。食べていくだけで精一杯の暮らしから、豊かではなくとも夫のお給料で暮らしていける新婚生活は平穏で幸福な日々だった。翌年6月、偉(いさむ)が生まれる。
「あの日は青空が広がる晴天でした。朝、あれっという感じで産気づき、夕方、偉が生まれたの」

 当時のアルバムには、赤ん坊を抱く淳子の写真や偉の成長ぶりを追うスナップがたくさん貼られている。カメラが好きだった夫が撮ったものだ。写真の横には「偉ちゃん」で始まる成長記録のメモがそえられ、幸せに満ちた様子が伝わってくる。そして、翌年12月、まどかが生まれる。女の子の誕生を淳子は喜んだ。
 だが、穏やかな家庭生活は長くは続かなかった。二人の子どもが生まれて、そう年数がたたないうちから、夫は酒の量が増え、酔っては怒鳴り、しだいに気むつかしくなっていく。それは会社の業務の効率化が図られる中で、仕事が変わり、人間関係がギスギスしていくのと機を一にしていた。口数が少なく、人前で自己主張をしない夫は、仕事や人間関係でのストレスを家でぶつけるようになった。20代前半で二人の子の父となったことも、プレッシャーだったのかもしれない。
 偉が小学1年生の冬のことだ。淳子は子どもたちを夫に頼み、夫の職場の妻たちが主催する送別会に出かけた。子どもが生まれてから初めての夜の外出だった。早めに帰るつもりが、上司の妻がいることもあり席を立ちにくく、帰宅が深夜になった。玄関を開けると、夫が仁王立ちになって待っていた。アルコールの臭いが漂う。いきなり、淳子の髪をつかみ「何時だと思っているんだ。出て行け」と怒鳴った。言いわけをしようものなら、つきとばされて、怪我をさせられかねない剣幕だった。身の危険を感じた淳子は、
「わかりました。出て行きます。子どもたちは連れていきますから」
 と返した。夫は吐き捨てるように言った。
「わかった、勝手にすれ」
 淳子は偉に「寝ているところごめんね、起きてくれるかい」と声をかけた。偉はすぐ飛び起きた。しだいに気むつかしくなっていく父を目にしていただけに、ただごとではないことが起きたと察したのだろう、無言で母の言葉に従った。しかし、まどかはいくらゆさぶっても起きない。まどかを背負い、偉と並んで歩いた。泊めてくれそうな友だちの家に向かい、街灯も消えかかった暗い夜道を三人で歩いた切なさは、30年たった今も忘れられないと言う。
「自分が育った家庭環境が複雑で、この複雑さは必ずしもマイナスだけではないけれど、やはりつらすぎる要因の方が強いなと思ったので、自分が結婚したら夫婦がそろっている中で子どもを育てたいとずっと思ってきたのね。でも、偉とまどかが小学校に上がる前後から、“ひょっとしたらこの人とはうまくいかないかもしれない”という違和感をずっと持ち続けていました」
 それが決定的になったのは、偉が小学校4年生、まどかが3年生のときだ。週末になると朝から酒を飲む夫は、寝転んでテレビを見ながら、偉に「あれをしろ、これをしろ」と命令した。偉が聞き取れずに聞き返すと、怒鳴られる。いきなりビンタが飛ぶことも珍しくなかった。淳子には偉が、まるで軍隊で上官に使える二等兵のように見え、不憫で仕方なかった。当時のことをまどかはこう振り返る。
「父が家にいる土曜日と日曜日が大嫌いでした。ふだんは帰りが遅いので顔を合わせることがないのですが、土曜は半ドンで昼に仕事から帰ってくる。すると、母や兄に怒鳴り散らすのです。私には優しかったのですが、兄にはきつく当たっていました。昼間から酒を飲み、急に怒りだしたかと思うと、怒鳴り声が家中に響く。私と兄はいつもびくびくしていました。夜、布団の中で泣きながら寝て、朝になると目がはれていることもよくありました。目がはれていると学校に行って恥ずかしいから“寝ないで起きていよう”と思ったこともあります」
 そうした暮らしの中で、ある日、まどかが身体に変調をきたした。病院に行くと、不整脈がでていることがわかり、診察の結果、父親に対する心理的プレッシャーから心身症になりかけていると言われた。このままいくと、子どもたちに決定的に精神的な傷を与えるかもしれないと懸念した。しかし、専業主婦だった淳子は、経済的なことを考え、離婚には踏み切ることができなかった。そんな悶々とした暮らしに終止符を打ったのは偉とまどかだった。
 偉が中学1年生、まどかが6年生のある日、こう切り出した。
「6畳一間でいいから、お母さんと三人で暮らしたい」
 夫は体調を壊して入院中だった。淳子は一拍おいて言った。
「ほんとに、それでいいのかい」
 現実生活のしんどさというのは、子どもが考えるほどには単純ではないことを骨身にしみて知っている。高卒で、結婚後は専業主婦をやってきた手に職もない女がひとりで二人の子どもを食べさせて学校にもやっていけるのか、自分を使ってくれるところがあるのか。飢え死にすることはないかもしれないが、学校にも満足にいかせてやれないのでは別の意味で悲惨だろう、とも思った。
 約10日間、夜もほとんど眠れず、夜があけきるまで悶々と考えた。夫婦の間はもはや話し合いどころか、喧嘩もできないほど冷えきっていた。夫婦で乗り切れるなら貧しさは苦にはならない。しかし、夫は自分に憎悪を抱いていると感じた。その頃、まどかは落ち着いていた心身症の前兆が見え始めていた。偉は中1になり、だんだんと体格が父親に追いついてきている。母親思いで、性格もはっきりしているだけに、このままいけば何かのきっかけで男同士の喧嘩となるかもしれない。どちらかが怪我でもしたら、取り返しがつかない。
 子どもたちがそこまで言うのだ。職業さえ選ばなければ何とかやっていけるだろう、掃除のおばさんや皿洗いでも何でもやればいいのだ、と踏ん切りをつけることにした。
 心を決めた後は職探しに奔走した。長続きができる仕事で、できれば労働組合があればいい。子どもたちの心が伸びやかに生きられる生活をしよう、と考えた。法律書を出している第一法規の加除業務職の募集を見つけ、就職が決まった。加除の仕事というのは、法律が改正されると顧客のところに行き、新しい条文をバインダー式になっている法律書に差し込み、古い条文と入れ替える仕事である。あとは夫と話し合うだけだ。
 夫の退院の日、病院に迎えに行くと「なんで来たのか」と機嫌を損ねると予測できたので、好物を作り家で待っていた。しかし、夜中すぎまで帰ってこない。話し合いすらできないと諦め翌朝、夫が寝ている間に、荷物をまとめて家を出ることにした。子どもたちには「お母さんはこの家を出る。しばらくはおばあちゃんの家にいる。2、3日考えて、お母さんと暮らしたかったらおいで。お父さんがよければそれでもかまわないから」と告げた。2日目に、偉とまどかが来た。
「お母さんはがんばる。でも、働きに出る以上はおまえたちも寂しい思いをするかもしれない。それで、いいのかい?」
 二人は言った。
「いい」

育てさせてくれてありがとう

 6畳一間よりは広かったが、冬は蛇口から流れ出た水が凍るほど老朽化した木造アパートを借り、新生活が始まった。
 親子三人の暮らしは何もかも新鮮だった。数組の着替えと学用品をそれぞれのカバンに詰め込んだだけで、着のみ着のままで家を飛び出ているから、家具も食器もない。
「夫は私が子どもたちと休日に外出するのを嫌がりました。家に帰ると機嫌が悪く、いつも怒鳴り声が飛んでくるから、買い物に行ってもそそくさと帰っていたの。でも、三人になったら、気兼ねなく外出できる。心から深呼吸できる。そんな感じでした」
 最初の休日、湯のみ茶碗とお茶碗を買いに出かけた。
「お茶碗は100円均一の安いのにするけど、湯のみは好きなのをひとつずつ買おうって言ったの。倹約ばっかりじゃ寂しいから。偉とまどかとあれこれとゆっくり選んで、家に帰ってお茶を入れて飲んだの。そんなことすらも、幸せに感じたんですよ。すごく貧しかったけれど、そのことすら笑いにしてたわね。別れたことで、子どもたちは自由にのびのびと育つことができたと思っています」
 加除の仕事先は役所、会社、弁護士や社会保険労務士の事務所である。旭川市半分と上川支庁管内の南が受け持ち地区になっていたが、時に臨時の出張で利尻・礼文から釧路支庁までと仕事の範囲は広かった。自家用車はないので、電車とバスを使っての移動となる。子どもたちの学費をためるため、5円、10円のお金も節約しようとできるだけ歩いた。
 遠方に出かけるときは、泊まりがけの出張となる。まだ中1の偉と小6のまどかを残してでかけるときは、二人でぽつんとごはんを食べている姿を思っては後ろ髪を引かれた。一方、偉とまどかは「自分たちでできることはしよう」と決めていた。衣類の洗濯もアイロンがけも自分たちでやった。子どもには手をかけなかった。かけてやる時間がなかった。親が育ち、子も育つ。それぞれが自立していくしかないのだと自らに言い聞かせた。
 当時を振り返り、淳子は言う。
「私がもし倒れたときのことを考えると、偉も、まどかも、心身ともに自立してもらうしかなかったから。でも、いろんなことで我慢させてきたから、その上、家事を義務にしたらかわいそうだと思って、それぞれできる人がしようって決めていたの。だから、私がいくら給料をもらっていて、貯金がいくらあるかなど我が家の経済状態はすべて話していました。三人で対等に生きてきたと思う。偉とまどかは、厳しい状況で育ったのに、二人ともぐれることもなく、曲がることもなく、真っすぐな心をもって育ってくれた。私は子どもたちのおかげでどんなに幸せだったことか。あなたたちを育てさせてくれてありがとう、いい人生を送らせてくれてありがとう。そう思っていたの。偉が逝くあの日までは・・・・」
 遠き日々をなつかしく語る淳子の目が、最後の言葉のところでうるんだ。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

渥美 京子

1958年静岡県生まれ。電子部品メーカー勤務ののち労働問題の専門出版社で編集記者を経て91年からフリー。社会問題・老人介護・医療・食など幅広い分野でルポを発表。2003年、血友病をかかえながら、パン業界に革命を起こした銀嶺食品・大橋雄二氏を描いた『パンを耕した男』(コモンズ刊)を出版。共著に『大失業時代』(集英社文庫、1994年)、『看護婦の世界』(宝島文庫、1999年)、『介護のしごと』(旬報社、2000年)など。

世界はいまどう動いているか

『パンを耕した男』
(コモンズ)

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