これまでさまざまな媒体で書評を書いてきた私がいうのもなんなのだが、私は書評はほとんど読まない。読む本がなくなったら本屋に行って読みたいと思う本を選ぶ。本屋に行くのは大好きだし、幸せを感じる時間でもある。でも、あれを立ち読みしこれも立ち読みし、ということを繰り返して、気がついたら3時間も経っていた、というようなことはない。そのお陰で、随分腹を立てたり、がっかりしたり、お金を溝に捨てるようなことになってしまって嘆いたりということを何度も経験したが、読みたいと思った本は、ほとんどページをめくることもなく、さっさと買ってしまう。
読みたいという衝動にスイッチを入れるのは、もちろん、本のタイトルである。だから、きっと、本の編集者というのは、本のタイトルを決めるのに眠れぬ日々を過ごしているのだろうと、想像する。私のように乱暴な本の買い方をする馬鹿が、どのくらいの割合でいるのか想像もつかないが、そうした人が多ければ多いほど、中身は同じでもタイトルによって本の売れ行きは大きく違ってくるはずだからだ。新書に限ったことではないけれど。
近年の大ヒットはなんといっても『バカの壁』(養老孟司著、新潮新書)であろう。あのタイトルでなかったら、あんなに馬鹿ほど売れはしなかっただろう(内容はたいしたことはない、と言っているのではありません)。随分前に大ヒットした永六輔の『大往生』(岩波新書)もやはり、タイトルが魅力的だった(中身もです)。
最近私が、タイトルを見てこの本を読みたいと思った本の筆頭は『戦争倫理学』(加藤尚武著、ちくま新書)である。読んで字の如く、戦争の倫理(ルールと言い換えてもおなじことです)について考えた本だが、戦争と倫理という、二つの言葉のミスマッチが、私の興味をそそった。
戦争と倫理というのは、もっともかけ離れたもので、だいたい、ひとたび戦争がおっぱじまってしまったら、倫理なんかふっとんでしまうのではないのか、と思うし、実際にそうだ。国連が機能しようがしまいが、国際法があろうがなかろうが、学者やジャーナリズムが批判しようがしまいが、世界は一番強いもののやりたい放題なのだ、ということを、私たちは、9・11以降、いやというほど見せつけられてきた。そんな時代状況の中で、「戦争倫理学」などという“虚妄”を、加藤尚武は一体どのような言葉で語るのだろうか。それは、私たちに、何か希望を与えてくれるような倫理学なのであろうか、という辺りが、『戦争倫理学』を手に取った私の関心だった。
結論を先に記せば、『戦争倫理学』は、読者に希望を与えてくれるような本ではない。そもそも、超大国やそれに次ぐ国々の政治家たちが、まともとは思われない論理で、正義の名の元に暴力の限りを尽くしている世界にあって、他の誰かに希望を与えてもらえる、などということを期待することが愚かなのである。希望とは、自らの意志と努力によって掴み取るべきものであり、『戦争倫理学』は、この時代状況の中で希望を見出すための、思考の材料を提供している。それらは、連続テロに対するアメリカの報復戦争の不当性、グローティウスの戦争論(注1)、ロールズの原爆投下批判(注2)、カントの「永久平和論」(注3)、東京裁判、不戦条約、集団自衛権、日本国憲法第9条などについての考察である。それらを手掛かりに、戦争に関する重要な論点を整理したうえで、戦争抑止の道を探るのが『戦争倫理学』の試みである。
『戦争倫理学』もそうだが、新書のタイトルには、「仏教入門」とか「経済学とは何か」とか、あまり工夫の見られない直球のタイトルが多い。私はそれがよいのではないかと思う。『バカの壁』や『大往生』は例外なのであって、買う側からすると、新書のタイトルは、それがどんな本なのか明確に示しているものが、好ましい。そういうタイトルは刺激的ではないけれど、自分が読みたい本なのかどうなのか、よくわかる。売る側からしても、大ヒットは望めないけれど、過剰な立ち読みの防止の効果はあるのではなかろうか(立ち読みが悪いというわけではないですけど)。
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