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Series 世界
人間を傷つけるな! 土井 香苗
10/01/31

第10回 エリトリア人弁護士から見た“世界最悪”の独裁政権国家

戦争や虐殺など世界各地で今日もなおつづく人権蹂躙の実情に対して監視の目を光らせる国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)。2009年春開設したHRW東京オフィスの土井香苗ディレクターが問題の実態を語る。

北朝鮮よりも“人権”のない国?
土井さんは、大学4年生だった1997年からの1年間、アフリカの小国・エリトリアで刑法作りを手伝うボランティアをされていたと聞きました。エリトリアについては、日本ではほとんど報道されませんし、名前すら滅多に聞かない国ですが、実は大変、深刻な人権問題を抱えている国です。具体的にどのような人権侵害があるのでしょうか。
土井
 現在、エリトリア(外務省作成のエリトリア概要はこちら)は、世界最悪の独裁国家のひとつです。今年(2010年)、HRWが発表した世界人権年鑑によれば、エリトリアは、人権侵害のオンパレードです。政権批判は絶対に許されず、多くの政治囚が無期限に拘束され続けているほか、恣意的拘禁、拷問、超法規的処刑、強制労働などが横行しており、自由な報道は一切存在を許されていません。「国境なき記者団」が発表した最新(2009年)の世界報道の自由ランキングでも、エリトリアは、世界で最下位。下から2番が、北朝鮮でした。(2007年度版の日本語版はこちら
エリトリアがこのような独裁政権下になったのには、どのような背景があるのですか。エリトリアの歴史を簡単に踏まえて、説明して下さい。
土井
 エリトリアは1890年、イタリアの植民地になりました。第二次世界大戦でイタリアが敗戦国となると、英国の保護領となりましたが、1952年までに隣国エチオピアと連邦国家を形成します。ところが1962年、アフリカの植民地が次々と独立していくなかで、エチオピアはその流れに逆行するように、エリトリアを併合してしまったのです。エチオピア軍はエリトリアの議会を武力で鎮圧し、人々を厳しく弾圧しました。そこでエリトリアでは、独立を目指した武力闘争が起きます。独立戦争はじつに30年の長きにわたりました。この間に、首都アスマラにあったアスマラ大学も閉鎖されてしまいました。
 30年の独立戦争を経て1991年5月、とうとう、エリトリア人民解放戦線(EPLF)という組織が、エリトリア地域を実効支配するにいたり臨時政府を樹立しました。そして、1993年4月、国連の監視の下、エリトリア地域の分離・独立を問う住民投票が実施され、圧倒的多数が独立を支持しました。そして、同年5月24日、エリトリアはついに正式にエチオピアから独立したのです。
 しかしつかの間の平和のあと、1998年5月~2000年6月に、エチオピアとの国境をめぐる紛争が起こります。このエリトリア・エチオピアの国境紛争でイサイアス大統領は、エチオピアに攻めこまれ、軍事的には失敗します。彼の政策を批判し、民主的改革を求めた11名の政府要人を2001年9月に逮捕したのです。11人の中には、Haile Woldetensae(元外務大臣)、Petros Solomon(元外務大臣)、Mahmoud Ahmed Sheriffo(元副首相)なども含まれていました。これを機に、イサイアス大統領は、極めて独裁的になり、すべての民間メディアを閉鎖し、民主的改革を求めるあらゆるジャーナリストや批判者はもちろん、他国に逃れようとした人々などを容赦なく恣意的に逮捕し(場合によっては即殺害し)、裁判にもかけずに悲惨な環境の刑務所に期限なしに拘禁するようになりました。今でも、何千人、何万人もの人びとが、恣意的に拘束され、刑務所はもちろん、秘密拘禁施設などにも拘束されていると見られています。エチオピアとの紛争により延期されていた新憲法に基づく国政選挙は、2001年12月に行われる予定だったのですが、無期限の延期とされてしまいました。イサイアス大統領率いる現政権は、アフリカの北朝鮮とでもいうべき独裁政権となってしまいました。
奨学金が取り消され苦学の末、移民弁護士に
土井さんは今年(2010年)1月、米国のワシントンDCを訪問した際に、エリトリア時代のご友人にお会いになったそうですね。
土井
 はい、エリトリアでとても仲良くしていた友人と、約10年ぶりに会うことができました。この10年間、お互いに連絡先が分からなくなっていたのですが、数ヵ月前、彼が私のメールアドレスをインターネットでたまたま見つけたらしく、メールで連絡をしてきてくれたのです。それには、彼はワシントンDCで移民弁護士をしている、と書いてありました。連絡がきてとてもうれしかったのですが、彼がいま、エリトリアではなくアメリカにいたので、びっくりしました。彼との再会はとても楽しみでしたが、実は一方で、不安もあったのです。彼が、現エリトリア政権に対して、体制派なのか、反体制なのか。批判はしないまでも、距離を置いているのか。どういう立場なのかが、わからなかったからです。彼からいろいろとエリトリアの現状を聞きましたが、“人権”がほとんどないような状態で、一般市民は独裁政権下でたいへんな苦労をしていることが分かりました。
彼はどうしてエリトリアを出て、アメリカにいたのですか。何か国内にはいられない事情があったのですか。
土井
 彼のお姉さんはいまだにエリトリアにいると言っていましたので、彼女の身の安全を考えて、念のためにペトロスという名前にしておきましょう。
 1997年、私が大学4年生のとき、エリトリアの首都アスマラでボランティアをしていた際に、アスマラ大学法学部の最終学年(5年生)の約30人と、とても親しくなりました。そのひとりがペトロスでした。
 エリトリアは1993年に独立したのですが、独立戦争のあいだ閉鎖されていたアスマラ大学が、独立を機に再開されました。そして、私が1997年にアスマラに行ったとき、ちょうどアスマラ大学法学部(5年制)の第一期生たちが、最終学年=5年生になって卒業を目前にしていたのです。
 私も法学部4年生だったこともあり、アスマラ大学5年生たちとはとても気が合いました。ペトロスは、私のような外国人とも積極的に話をしてくれるフレンドリーな性格で、しかもアスマラ大学法学部を首席で卒業するほど、成績がとてもよかったのです。
実施にお会いになって、彼のポジションはわかりましたか。
土井
 卒業した後、優秀だった彼は、大学に残るように要請され、講師をやっていたそうです。その後、アメリカ政府とエリトリア政府の間の合意に基づく留学生に選ばれて、ワシントンDCにある大学のロースクールに留学したのだそうです。彼がアメリカで法学を学んでいる間に、エリトリアの分岐点、イサイアス大統領が政府要人ら11人を逮捕した2001年9月を迎えました。
ペトロスさんも、イサイアス大統領に反対して民主的改革を求める側にたったということですか。
土井
 アメリカにいたペトロスは、民主的改革を求める集会に参加したらしいのです。そのことが、エリトリア政府の逆鱗にふれ、奨学金をすべて取り消されてしまったそうです。通常、出身国政府から奨学金を取り消された場合、大学は学生を退学させるらしいのですが、ペトロスの立場に理解を示してくれた大学は、彼を退学にせず、学業を続けさせてくれました。ただ、奨学金がなくなり、彼は、夜中に低賃金のアルバイトをしてなんとか生活費をひねり出していました。アメリカで難民認定申請を行い、これが認められて、今は晴れて、アメリカで滞在する資格をえています。
 今のエリトリアの状況からすると、ペトロスが帰国すれば、まちがいなく逮捕されてしまうでしょう。彼も「母親がエリトリアで亡くなったときにも立ち会えなかった。母国に帰ることができず、外国で亡命生活を送るというのは、何より、親の死に目に会えないのが一番つらかった」と語っていました。そして「いつか、エリトリアの土を踏むことができるかなあ」とさびしそうに語っていたのが印象的でした。私は「きっと、いつか、帰れるよ」と励ますのが精一杯でした。
日本人にもせめて存在を知ってほしい
ワシントンには、ペトロスさんのように、エリトリアからの難民が多くいるのですか。
土井
 多いですね。また、エリトリアほどではないにしてもやはり権威主義的国家である隣国のエチオピアから多くの難民たちが逃げてきています。ペトロスは、自分の難民認定申請を担当した弁護士から頼まれてアシスタントをしていたらしいのですが、優秀な彼は、自分自身も米国の弁護士資格をとり、今は、エリトリアやエチオピアをはじめとする諸国から迫害を逃れてワシントンにやってくる人々を代理する弁護士になっています。
 私自身も、2000年に弁護士になってから、アメリカにわたる2005年までの5年間、アフガニスタンやエチオピア、イラン、中国、ビルマなどから逃れてきた難民たちを代理していましたから、彼と同じような仕事をしていたなんて、なんたる奇遇、と思った次第です。
土井さんがエリトリアにいたころも、イサイアス大統領政権下だったのですよね。その時の大統領に対する印象はいかがでしたか。
土井
 1997年当時、イサイアス大統領は1993年の独立を実現した人物として絶大な人気を誇っていました。確かに、メディアの取材は自由に出来る訳ではありませんでしたが、その年の5月に民主的な憲法草案ができたばかりで、まもなく、多党制の議会政治に移行するはずでした。私も、刑法の草案作りを手伝うかたわら、外国の選挙法などを調べ、エリトリア政府に資料として提供していました。政府、少なくとも私と付き合いのあった法務省の人は、本当に民主主義体制に移行するつもりだったと思います。
 しかし、1998年5月にエチオピアとの国境紛争がおきてから、選挙も延期され、挙国一致の軍事体制が強化されました。そして、2001年を境に、イサイアス大統領は、後戻りできない独裁化の道を歩み始めたのです。
 アルジャジーラテレビの名物記者リッツカーンが2008年に、イサイアス大統領にインタビューしています。そこで大統領は、西欧的な意味での選挙を行なうつもりはない、と断言しています。きっと彼は、北朝鮮の金正日やイラクのフセインのように、世界各地の独裁者たちと同様、猜疑心にむしばまれ、パラノイア的心境になっているのではないでしょうか。
そのようなエリトリアに対して、HRWとしてはどのような活動をしていますか。また、日本は何をすべきでしょうか。
土井
 エリトリアにはHRWのスタッフやリサーチャーが入れない状況が続いています。エリトリアの現状を考えると、人権活動家はエリトリア国内での活動はほぼ出来ないと言って差し支えないでしょう。エリトリア市民となんらかの方法でコンタクトが取れれば、リサーチしたいと思っているのですが……。
 エリトリアと日本は、直接的な関係はあまりありません。日本だけでなく、エリトリアは中国やリビアをのぞき、ほとんどの先進国と関係がありません。とても残念なことですが、エリトリアという国の存在自体を知らない人がほとんどではないでしょうか。ですから、日本人にはまず、エリトリアという国の存在を、そしてその人びとの苦しみを知ってほしいです。まずはそこから始めなければと思っています。
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PROFILE

土井 香苗

1975年神奈川県生まれ。1994年東京大学入学。大学3年生で司法試験に合格し、4年生のときNGOピースボートのボランティアとして、アフリカで一番新しい独立国・エリトリアに赴き、1年間エリトリア法務省で法律作りに従事する。2000年から弁護士活動をする傍ら、日本にいる難民の法的支援や難民認定法改正のためのロビーイングやキャンペーンにかかわる。06年から研究員として国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチのニューヨーク本部に在籍。07年から同NGO日本駐在員。08年9月から同東京ディレクター(日本代表)。
ヒューマン・ライツ・ウォッチのHP:
http://www.hrw.org/
 
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