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Series フォト&エッセイ
遠いパラダイス 藤原 章生
06/05/15

最終回 故郷への愛憎はいつ尽きるのか

冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そう考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族、人種に閉じこもり始めた。人々が鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。

 バスに乗って、島を横切った。一晩、脚を縮めたり伸ばしたりしながら硬い座席で揺られていた。着いたのは、さして特徴のない平たい町だった。それでも、バスから降りると、行きかう人々の頬が朝日に照らされ、一見とてもきれいに見えた。
  キューバ島の東部、オルギンという町だ。
「ジャーナリストかぁ。・・残念だけどね、それじゃあ、泊められないわ。規則だから、しようがないんだ。こっちも泊めたいのは山々なんだけど、残念だねぇ。ほら、法律で決まっているから・・」
 初老の宿主は、よく似た生真面目そうな息子と二人並んで、本当に申し訳なさそうにした。私もがっかりした。これで3軒目。早いところ宿を決めて動き出したかったし、古いつくりで清潔そうな、その一軒家を一目で気に入ったからだ。
 彼らが指し示す宿泊業者向けの通達書類には、
「以下の外国人には指定されたホテル以外での宿泊を認めてはならない」
と印刷され、そこに外交官などと並び、ペリオディスタ(ジャーナリスト)の職名が連なっていた。他のラテンアメリカの国なら、規則などあってないようなものだが、やはりキューバだ。しかも、規則破りと取り締りの攻防戦が続くハバナとは違う、地方の話だ。国の許可を得て民宿を営む、どちらかと言えば模範的な市民は、一人の客のせいで閉鎖の憂き目にあうような危険を犯したくない。私はあっさり引き下がり、町からかなり外れた国民休暇村のようなホテルに泊まらざるを得なかった。

<オルギンはぼくにはまったく退屈だった。高い建物のない四角い商業の町で、謎めいたところや個性がまったくなかった。涼をとることのできそうな街角も物思いにふけることのできるような場所もない暑い町だった>(安藤哲行訳、以下同じ)

オルギンに近いレイナルド・アレナスの生地。背中を見せる男性はアレナスの叔父=05年11月

 キューバ生まれの作家レイナルド・アレナスは遺作となった「夜になるまえに(Antes que anochezca)」でオルギンをこんな風に評し、町の人間をがっかりさせた。もっとも晩年の彼は亡命先のニューヨークでエイズを患い、欝(うつ)がこうじたこともあるのか、旧友から家族から誰彼かまわず非難の矛先を向けた。入院費も払えず、アパートのベッドで息絶え絶えとなったアレナスは自分の過去を語り、それを恋人の男性が筆記するという形をとった。このため、遺作は、多くの亡命キューバ作家たちのそれと同じく、ひげ面の独裁者や母国をなじる言葉で散りばめられているが、同時に彼の怒りは故郷やかつての友人ら身近な者たちに向けられた。
 アレナスは幼いころ育ったオルギンに近い集落を舞台にデビュー作「夜明け前のセレンスティーノ」を書いた。その後、彼は革命後のハバナを舞台にした作品を幾つか残しているが、オルギンを振り返ることはなかった。この町がよほど嫌いだったのだろう。

郊外の丘から見下ろすオルギンの町並み=05年11月

 だが、見たところオルギンはさほどひどい町ではない。コンクリート製の平屋が立ち並ぶ四角っぽさ、味気なさがあるのは確かだ。しかし、町外れの丘から鳥瞰すると、そこには、海流の風が緑の草原を通り抜ける爽やかさもある。それでも1959年の革命後、農業青年の一人としてハバナで勉学の機会を与えられ、2度と故郷に帰らなかったアレナスにとり、この町は、屍のようにしか思えなかったのだろう。
 革命の年、アレナスは多感な16歳で、幼いころから薄々感じていた同性愛嗜好を強く意識し始めていた。故郷は唾棄すべき墓場。そう思うのも不思議はない。外に出ることを渇望する若者にとり、故郷は墓場のようなものだ。私が海風の心地よさを感じたあの丘も、アレナスに言わせればこうだ。

<(丘を)上りつめると頂上にコンクリートの十字架がそびえている(中略)。あるとき、その十字架で首を吊った男がいた。僕はオルギンを巨大な墓と見なしていた。低い家並みは太陽に痛めつけられた墓地みたいだった>
<あるとき、どうにも退屈だったのでオルギンの墓地に行った。そこが町全体の複製であることが分かった。墓地はのっぺりとした飾り気のない家並より規模は小さいとはいえ同じだった。セメントの箱だった。その町の住民全員が、そして自分の身内がその箱=家で何年も暮らしたあと、その小さな箱に収まることになるような気がした。そのときぼくは、出られるようになったらその町を出よう、できれば二度ともどらないようにしようと心に決めた。遥か遠くで死ぬことがぼくの夢だった>

オルギンで輪タクに乗る女性=05年11月

 作家、丸山健二が初期の作品群で繰り返し描いたように、10代とは故郷を憎む季節だ。故郷に地中深くに巣くう影のようなものが、地面から足元へと蜘蛛の巣のように這い上がる。そして、その影が自分を押さえつけその地に押しとどめようとする。影は自分自身が生み出したものなのに、10代の自分はそれに気づかない。そして、周囲をうらみ、影を振り払おうとする反動が故郷憎悪となる。その地を去ることができなければ、憎悪は抑えられないエネルギーとなり、人によってはそれが暴力に昇華し、激しい性衝動に代わり、ときに文学に向けられる。そんな若者が旅をし故郷に舞い戻る成長物語は古今東西の一つのパターンだろう。

 私もご多分に漏れず、10代のころ、自分の場所を嫌った。赤い幟(のぼり)舞う、うらぶれた根津の谷底から、狭苦しい歩道を這いのぼり上野の山へと向かう陰気な坂、胃液と香水の入り混じった吐き気を催すような朝の地下鉄。どんよりとした空の向こう、屋上から根津の谷をはさんで見える、刑務所の煙突のような東大校舎・・。そしてとどのつまり、自転車でどこまで走っても、どこに逃げ込んでも、いつまでも同じような商店街や歓楽街が続き、同じ電信柱、同じ電線が空を覆う。
 すべては相対的だ。別の地の人々が訪れれば、ここは美しい都なのかも知れない。雑誌などが喧伝する「下町情緒あふれる町」なのかも知れない。だが、私はこの町からできるだけ遠くに逃げたいと思った。
  そんな感覚も10代のころの一時的な反発と思っていた。だが、私の場合、そうならなかった。東京に舞い戻るたびに、この町への違和感は増し、「離れてみると故郷の良さがわかる」ということは今に至るまで一度もない。常に人が流れ込む東京はそもそも故郷には、なり得ないのかも知れない。

 でも本当のところ、自分が1歳から18歳まで過ごしたこの町を好きになれれば、と思うこともある。私は東京を避け、あえて地方の大学を選んで以来、仕事でやむにやまれず戻ってはきたものの、どういうわけかこの地に馴染めないまま現在に至る。
 18までは板橋区と足立区、その後、札幌、鹿児島、長野で暮らし、30代はじめの2年間ほどを首都圏で暮らした。そのときは、会社の寮がある板橋区と船橋市(千葉県)に居を構えた。その後、メキシコやアフリカに住み、40歳で再び帰国すると、今度は子供の学校の関係から目黒区に暮らした。そして再びメキシコに行き、45歳になったこの春、4年ぶりに帰国し、いまは練馬区に暮らしている。
 私がこの町に馴染めないのは、23区内の周縁部や北部に暮らしたからでは、と思ったこともあった。だが、そうではない。東京はどこも大して変わらない。町並みは大同小異、やや美しくない表現を借りれば「目くそ鼻くその範疇」である。目隠しされて、ある商店街や駅前通りに放り出されても、そこにあるのは、どこも、けばけばしい看板と焼肉屋、ラーメン屋、薬の安売り店が立ち並ぶキッチュな空間だ。

「ここは仕事だけだね。あとは何もない。残りたい理由など他にない」
 90年代に知り合ったスリランカ人は私が何も聞かないのに、4年にわたる東京生活をこう振り返った。
「東京は安全でいいわね。夜に一人で歩いても恐怖を感じないし。人々は勤勉だし、あまり暴力的ではないし・・」

朝焼けに染まるハバナで=05年1月

 まる6年、東京に暮らし、昨年、飲食業のビジネスを始めた西アフリカ、カメルーンの女性はここに暮らす良さを聞かれ、少し考えてからこう言った。ただ、日本人の友人がいるかと聞くと、答えはこうだ。
「知り合いはたくさんいるけど、友人というとね・・。何かが足りないのか、私の問題なのか、なかなかできない。強いて嫌なことと言えば、住居を借りたりするとき、人々がとても不寛容なこと。なかなか落ち着く居場所が見つからない。それに、何事も外人に対して厳しい。合法、違法であれ、外人はいつまでたっても外人のままでしょ。人々はあちこち海外旅行に行くのに、よその世界、外国人に対して本当に無知。それが気になるわね。それに何か人を疲れさせるネガティブなエネルギーのようなものがある気がする」

 私の場合、外国で暮らしたから変わった所もあるだろう。ただ、東京に帰る度に感じるこの疲労感。その大小はあれ、根の部分は、初めてこの町を出たころも今も、さして変わらない気がする。もちろん状況次第で例外はあるし、個人的につき合う分にはいい人が実に多いのも事実だ。ただ、群衆がかもし出す空気、人とすれ違うときに感じるネガティブな何か。それがこの町にあるのは確かだと思う。
「僕、もう東京には住めない。気が悪いというのか、何だか人々のストレスをもろに受けちゃうみたいな感じで」
 先日話を聞いた現代思想専攻の神戸の大学教授はそんな言い方をした。「気」などと言われると、目に見えない分、誰にも彼にもうまく説明はできないが、そういう雰囲気が漂っているのを私も実感する。その空気は、どうしてだか80年代からこの方、どんどん悪化しているように思える。ただ、人は群れの中に紛れていれば、次第に慣れてくる。私もすでに帰国して1カ月半が過ぎ、この東京に慣れ始めている。いずれ、こうした空気を感じることもなくなるだろう。
 帰国当初は、やはりラテン世界から戻ったせいか、人々、特に中高年の男性と若い女性の表情がずい分険しく思えた。余裕のある表情をなかなか見つけられない。そして、売店やフランチャイズ店の人々のマニュアル言葉の使い方が、前以上に一般社会に伝播している。

 公立中学のPTA会報で先生を紹介しようと、質問項目をつくったところ、教員らは「個人情報ですから」と、出身地や最終学歴での専攻科目、えと、昔のニックネームを明かそうとしない。理由を聞くと、
「私はかまいませんが、一人でもそれが嫌だという先生がいるかも知れませんので、そういうことはちょっと・・」
 と頑なだった。たった一人に嫌な思いをさせたくないという大義が本音だとしても、それで、全員が匿名的な存在になることをよしとする。匿名の世界で何が起きているのかと言えば、そこでは「非国民」「売国奴」「目がキモイ(気持ち悪い)」「死ね」といった個人攻撃が横行する。
 この4月、フランスのデモに触れた一部の人々は「なぜ日本でデモが起きないのか」と嘆いた。フランスではイラクで人質になった人を国を挙げて救おうとしたのに、日本人は同じ状況に置かれたボランティアの若者たちを罵倒し続けた。その文化の違いだけを見ても、フランスで起きたことが、そのまま日本で起こるはずもないことはわかりそうなものだ。だが、人々は何かに囚われたかのように、美化された過去を、60年代を懐かしみ、「激動の時代」がさも、この国にあったかのような錯覚を抱き、3畳一間のフォーク演歌をがなり散らす。それをさも良きことのように、NHKや新聞がどういうわけか繰り返し伝える。

 東京に舞い戻り、こうした現象を目にしたとき、私に浮かんだ言葉は「気持ち悪い」の一言だった。でも、それは表面に表われたほんの兆候に過ぎないのだろう。その下には、なんとも一言では言い表せない、否定的なドロドロしたものがあるように思えてならない。それが、東京に漂うネガティブな何か、なのかもしれない。では、それは何なのだろう。

人が行き交う池袋駅東口前の歩道=06年5月

 レイナルド・アレイナスは故郷近くの町オルギンを捨て振り返らなかった。でも、どうしてだろう。私はこの東京で、その何かが生まれるからくりを知りたいと思っている。それはここに住んでいるから、という理由だけではない。おそらく、自分の記憶がここから始まっているからだろう。
 3歳のとき、池袋駅東口の駅前で迷子になった。グレーや黒のコートを着た男たちが周囲を所狭しと行き来し、私はその灰色の波に紛れ、途方にくれた。おそらく自分の一番古い記憶はそれだ。いまのパルコがある辺りには、地球を模したような色のタイルの絵が大きく描かれ、駅前の歩道には所狭しと物乞いが並んでいた。
 その時代が良かったのか、今の方がいいのか。それはわからない。でも、自分の記憶がそこから始まっている以上、その地にこだわるのは当たり前のことなのだろう。

(長い間、「遠いパラダイス」のご愛読、ありがとうございました。)

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PROFILE

藤原 章生

1961年、福島県常磐市(現いわき市)生まれ。
北海道大学工学部資源開発工学科卒業。住友金属鉱山で鉱山技師を経て89年に毎日新聞社入社。長野支局、大町駐在を経て92年より外信部。93から94年、メキシコ、グアダラハラ大学留学(メキシコ文化研究)、95年10月から01年3月までヨハネスブルク支局、アフリカ特派員、02年4月からメキシコ市支局、ラテンアメリカ特派員。03年から04年にかけ、米国、イラクにて、イラク情勢、米大統領選を取材。05年、第3回開高健ノンフィクション賞受賞。

主な著作:
『世界はいま どう動いているか』
(共著、岩波ジュニア新書)

『絵はがきにされた少年』
(集英社)

絵はがきにされた少年

「夜になるまえに(Antes que anochezca)」

夜になるまえに
レイナルド・アレナス著、安藤哲行訳
国書刊行会

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