風
 
 
 
 
 
 
[知ることの価値と楽しさを求める人のために 連想出版がつくるWEB マガジン
Series フォト&エッセイ
遠いパラダイス 藤原 章生
06/03/15

第20回 日本人をどう思います?

冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そう考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族、人種に閉じこもり始めた。人々が鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。

ボリビアのティワナク遺跡で新聞を囲む男性たち、06年1月

 「中南米の人々は日本人のことをどう見ていますか」
  最近、偶然、同じ質問を3人の方から受けた。一人は雑誌編集に携わる人で、もう一人はラジオの司会をするタレント、そして、高知県の中学の社会科の先生だ。
  これは簡単なようでいて、一言で答えられるような問いではない。それゆえ、同じ質問を中南米人にしても、
「え?」
  と絶句するか、
「日本? そうねえ。経済の奇跡に、自動車もすごいし。いやあ、すばらしい国じゃないの」
  という、あまり根拠のない褒め言葉が返ってくるだけだろう。
  長年、チリに暮らす知り合いの日本人に聞いてみると、苦笑しながらこう答えた。
「それは難しいなあ。だって、何も知らない人に聞いても答えようがないし」
  その通りなのだ。問いに無理がある。一般論を導くのは何においても容易でなく、間違いやステレオタイプを広げる結果になってしまうことが多いが、それを避けるため、個人の意見を一つ聞こうとしても、すぐに暗礁に乗り上げてしまう。質問者と回答者の間で「日本人」の定義がまったく違うからだ。例えば、こんな風になる。

「日本人についてどう思いますか」
「そうねえ、日本人。素晴らしい人々だねえ」
「何でまた」
「トヨタにニッサン。長持ちするからねえ。林道だってへっちゃらだしねえ。フォードなんか買った日には、すぐ故障だからねえ。やっぱ日本製じゃないとねえ」
「日本人についてはどうですか」
「素晴らしい人々だよ」
「といいますと」
「ジャッキー・チェンなんかいいんじゃないか」
「ジャッキー・チェンは中国人ですけど」
「あ、そうなの? でも、ブルース・リーがいるじゃないか」
「あれも中国人ですけど」
「いや、ブルース・リーは日本人だって聞いたぞ。日本の空手家だろう」
「いや、彼は中国のカンフーです」
「あ、そうだったのか。それは初耳だ。まあ、中国人も日本人も素晴らしいよ」
「はあ」
「頭いいからね。商売がうまいし。いまその辺で売られている海賊版の商品も全部、中国と日本からだろう。もう、こっちは商売上がったりだよ」
「あれは中国からですよ」
「そうそう。中国に台湾、韓国、日本といろいろだよ」
「いや、だから、日本は中国じゃないんですよ」
「あ、そうか。やっぱり遠いからねえ。そう、日本と言えば、ダライ・ラマがいたじゃないか。大したもんだ。それにヨガも確か日本のものだよねえ。うちの妻は最近、瞑想にこっててさあ」

  と、「日本」の定義についての堂々巡りに終わる。もちろん、メキシコ辺りには日本への思い入れが極端に強く、石庭と茶室のある日本風の家をわざわざ建て、着物を着て暮らしている茶道の師範などもいる。私の空手の師範も、そのまま黒澤明の映画に出しても誰もメキシコ人と気づかないような、古き良き厳格そうな日本人の面構えをしている。
  12歳のときに学校でいじめられ、引きこもりになり、ゲームとアニメーション、マンガの世界に没入し日本語を勉強し、日本語弁論大会で入賞した青年をはじめ、最近はマンガや少女性愛の世界から日本通になる人も多い。官僚などの中には、「中国人」と言うだけで一般の日本人がやや神経質な反応をするのを心得ている人も結構いる。でも、まだ少数派である。一般大衆は日本のことを知らないのだ。

キューバ東部の町、オルギンで、05年11月

 サンパウロ辺りに行くと、東洋人の中では日系人が多数を占めるため、中国人も韓国人もみな「日本人」と呼ばれ、閉口している人も多いのかも知れない。ただ、これは私の偏見かも知れないが、国外に住む中国人の場合、「どうせわからないだろう」と割り切っている風なところがある。以前、南アフリカで親しくしていた中国料理店のマネージャーのワンさんとこんな話をした。
「この店は、テイクアウトと、中の座席で食べるのとずいぶん味が違うねえ」
「あ、わかりますか。あなた、日本人。やはり、味がよくわかるねえ」
「作ってる人が違うの?」
「そうそう。テイクアウトは黒人のコック。中で食べるのは特別だから、中国人のコック。だから、味が違うの」
「なるほど。でも、テイクアウトの客が文句言うんじゃないの」
「全然、文句なんかないね。テイクアウト買うのは黒人と白人。中国料理の味、全然わからないから何でもいいの」
  ワンさんは、この違いがわかるかどうかという一点について言えば、あからさまな差別をしていることになる。ということは彼の中では、「日本人は特別」と言いながら、本当の中国の味はわからない、くらいに思っているのだろう。中国人:味のわかる人、日本人:まあまあ味のわかる人、その他:味のわからない人、と何のためらいもなく区別しているのだ。私はそれを聞いたとき、なんとも合理的だなあと思いつつも、
「はっきりしていてよろしい」
  と、むしろ爽快な気分になったのを覚えている。ワンさんとはその後、色々な話をしたが、なぜか、このときの会話がいつまでも残っている。多分、私はその晩のワンさんの言葉を単に面白いと思っただけでなく、そこに潔さのようなものを感じ、自分もそうありたいという風に思ったのではないだろうか。

  だから、先日も、カリブ海のハイチの下町を巡り、通りを歩く人々や物売りと一瞬の笑顔を交わし、青年から嬉しそうに
「ジャッキー・チェン!」
  と声がかかっても、
「君ねえ、ジャッキー・チェンは中国人。僕は日本人。根本的に違うんだから」
  などと思うことはなくなった。一言で言えば、
「まあ、どうでもいいや」
  という気分なのだ。どうせ、中国人と日本人の違いなど彼らにとってはさして重要ではないし、その違いもわからないだろう、と思ってしまう。では、その違いは自分にとってどれだけ重要か、と自問しても、それも大したことはない。

サンチャゴの中央広場、プラサ・デ・アルマの絵画市で、05年

 昨年、ハリケーン取材でニューオーリンズにいたとき、こんなことがあった。テキサスからやってきた米陸軍の軍用車に乗り込んで、捜索活動を見ていたときのことだ。
  途中から加わったニューオーリンズ警察の黒人警官2人が捜索の後半、どこかから仕入れてきた運動靴のカタログとヌード写真の雑誌を荷台で見始めた。するとそのうちの一人が、褐色のいかにも「ラティーナ」といった雰囲気の混血女性の写真を見せながら、
「こんなの、あんたの国、中国にいるかい?」
  と聞いてきた。私はなんの躊躇もなく、
「そういうのはなかなかいないね」
  と答えた。
「じゃあ、こんなのは、どうだい、中国にいないだろう」
「いないな。大体、尻の形が違う。全体にそんなにでこぼこしてないからな。それに色ももっと薄い」
「そりゃそうだ」
  すると、そこまで聞いていたテキサス部隊のオヤジが、
「中国じゃねえよ、日本だよ、この人は」
  と口を挟んだ。
「あ、そうか。ごめんごめん。日本人か」
  と黒人警官は応じた。それからしばらくして、別のヌード写真を食い入るように見ていた彼は、
「これ、すごいなあ。中国にいないだろう、こういうの」
  というので、
「いないなあ。大体、腰が違うんだって」
  と答えたところで、今度はもう一人の黒人警官が、
「中国じゃないって、日本だっての」
  と訂正した。それに対し、私はこんな反応をした。
「いいよ、どっちだって。君たちにはどっちでも一緒だろ」
  それを聞いた黒人警官2人は、どういうわけか少ししょげてしまい、
「わかったよ、あーあ」
  といった落胆の表情を垣間見せた。テキサスのオヤジは何も言わない。多分、私の言葉を
「どうせ君たちは学校で地理を勉強しなかったのだろう。その程度の君たちにとっては、どっちも同じだ」
  という風に受け止めたのかも知れないと、私は深読みした。そうでなければ、子供が先生にしかられたときのような彼らの表情を説明できない。

ポルトープランスの中心街を歩く衣装売りの女性
06年2月、タヒチ

 そんな話を在米の日本女性にすると、彼女は少し角のある言い方でこう応じた。
「それってすごい日本人的。この国(米国)は自分が何者かってことを主張しないとまともに生きていけない国だから、あなたの言い方を聞いて、『なんだこいつは』って思ったのよ」
  もしこれが本当なら、私の目から見ると、米国とはかなり特殊な世界ということになる。こんな些細な会話の中でも、自分の国籍、あるいは、父祖の地にこだわり、それを主張しないといけない。私は日本で生まれ育った普通の日本人である。日本国籍を持つがためにいろいろと優遇され、有利な生き方をしていることは間違いない。だからと言って、あらゆる場面で、自分が日本人であることにこだわる気はない。それは、先にあげた、チリに長年暮らした知人の境地にも近いものかも知れない。
「日本人をどう思うかったって、日本人をそもそも知らない人にそんなこと聞いても、しょうがないじゃない」
  という感覚だ。彼らの中では中国も日本も同じ。なら、それでいいじゃないか。それで、私個人と彼らとの関係が変わるわけでもあるまいし。

  例えば、日本にウルグアイ人記者が来て、
「日本人はウルグアイ人をどう見ていますか」
  と聞かれても、大方の人はうまく答えられないだろう。
「パラグアイ人って言えば、南米のラテン人だから明るくて、話好きで、いい人たちでしょ」
「パラグアイじゃありません。私はウルグアイ人です。ウルグアイについてどう思うかですよ」
「あ、ごめん。ウルグアイって言えば、あれかねえ。イグアスの滝がすごいねえ」
「それはパラグアイ」
「というとあれ、結構、ガウチョとかいてねえ」
「それはアルゼンチン!」
  そこまで話して、ウルグアイの記者はさびしい気分になって、
「ここの連中にとっては、ウルグアイもパラグアイもアルゼンチンも全部いっしょです」
  というリポートをすることになるのか。早晩、面倒くさくなり、ウルグアイが何たるかなどをとうとうと主張することはなくなるだろう。極端な話、国籍などそのようなものではないだろうか。

キューバのハバナで、05年11月

 過去4年間、どこの国でも割と簡単に親しい知人ができ、2度3度通うと、無償で私の仕事を手伝ってくれる人も多かった。暇を持て余しているという訳でもないのだろうが、何日も私の仕事に付き合ってくれ、何も要求しない人ばかりであった。これは、中南米に限らず、米国でもイラクでも同じだった。
  多くの人々が私とつき合うことに鬱陶しさを感じないばかりか、むしろそれを喜んでいた。でも、それは私が日本人だからだろうか。そういう部分もないことはない。だが、日本人という看板は私のアイデンティティーの一部でしかない。そんなことはあり得ないが、仮に私が中国生まれの中国育ちであっても、彼らの私に対する態度はさして変わらなかったのではないだろうか。
  では逆に、私が彼ら中南米人から疎まれ、毛嫌いされたらどうだろう。私はそれを自分が日本人だからと国籍のせいにするだろうか。多分しない。おそらく、私個人に何か問題があるのかと考えようするだろう。

首都ラパスの中心街を歩く人々
06年1月、ボリビア

 さて、中南米の人々は日本人をどう見ているか。リマで食事を終えた帰り道、親しくしているペルーの日系弁護士、男女3人に、「日本人についてどう思うか」と問いかけたとき、どういうわけか彼らはしばらく黙り込んでしまった。日本人と比較的触れ合う機会の多い彼らだから、何か言えるだろうと思っていたが、口ごもりがちになるのは、日本人全般をあまり良く思っていないからだろう。この辺りの話は一度、原稿(『月刊 毎日フォーラム』2006年2月号)(注)にしてあるので、これ以上深入りしないが、容易に答えようのない質問だと彼らは即座に察知したのかも知れない。
  なぜなら、日本人と言っても、彼らがこうして親しくしている私も含め、いろいろな人間がいるため、おいそれと一概に感想など言えないからだ。質問そのものにも、一つの答えが隠れている。日本人をどう思うかと聞くことは、聞く側に日本人はかなり一様な民族だという思い込みがあるからだろう。
  イチローという選手が米国で活躍している。でもそれはイチロー個人が優れているのであって、イチローがやって来た日本という国とは直接何の関係もない話なのだ。ペルー人のフジモリという人がいろいろと騒ぎを起こしているが、それはフジモリの両親が生まれた日本とは何ら関係のないことだ。なのに、なぜ一部の日本人たちは彼らを「日本人の代表」のようにみなし、彼らにこだわり、親しみを覚えるのか。国籍や血筋に異常にこだわる人々という答えがそこに表れている。
  かくいうお前も日本人じゃないか。と言われれば、その通りだが、日本人意識から一度遊離し、それを鳥瞰してみれば、自分が属している日本人という対象をいくらでも批判できる。
  ラテン世界での血統への執着は、日本に比べればはるかに薄い。それゆえ、「日本人について」と聞かれても、身近な友人のことは話せても、誰しもなかなか一般化はできない。それの方がはるかに健全ではないだろうか。

(敬称略、つづく)

(注) 『月刊 毎日フォーラム』2006年2月号 より


  日本人を見る目
   中南米人がみる「奇妙で暗い日本人」

「なぜ日本人はこれほどの関心を示すのでしょう。ちょっと奇妙ですね」
  チリ最高裁のエスピノサ副広報部長は日本の報道陣の名刺を机に並べながら、首を傾げてみせた。
「日本からは私の所に10人も来たのに、肝心のペルーからは1人の記者しか来ません」
  昨年11月6日、日本からチリに入国し、翌7日からサンチャゴで拘束されているペルーのフジモリ元大統領の事件を指している。
「そう言えば、やはり数年前、この裁判所の玄関ホールに日本のテレビクルーが10組も来て、職員一同あ然としたことがありました」
  日本で「アニータさん」、チリで「チリ芸者」と呼ばれた、アニータ・アルバラードさんの事件のことである。日本人の夫が横領で得た大金を贈られた妻アニータさんが買った豪邸を差し押さえる裁判に、かなりの数の日本の報道陣が殺到したという。アジェンデ左翼政権が倒される73年の軍事クーデターからこの方、日本のメディアがチリに殺到したのは、アニータさんと今回のフジモリ氏の事件くらいだろう。
「ただ、あれはアニータという女性がちょっと変わった面白い人でしたので、エンターテイメント性がありましたが、一政治家のフジモリ氏になぜ日本はそれほど注目するのか」
  エスピノサ氏は社交も含めきちっと家庭教育を受けたような人だ。「奇妙です」という言葉以上のコメントをあえてしない。彼の心理を読めば「日本人は自分たちにばかり関心のあるよほどのナルシスト、自意識過剰で自己愛の強い人々」といったところだろうか。
  ある記者は彼に「フジモリ氏は日系で初めて大統領になった人で、日本大使公邸占拠事件を解決した英雄ですから」と説明したそうだ。
「では、もしチリ人の子息が米国の大統領にでもなったら?」
  と聞いてみると、氏は少し考え
「なった時点でひとつのエピソードとして報じますが、その人はもう米国人なのですから、いつまでも追いかけることはないでしょう」
  と答えた。
  ガーナのメディアは国連のコフィ・アナン事務総長の話を常に特大で報じているのだろうか。ドイツのメディアはドイツ系家庭出身のアルゼンチンのキルチネル大統領を特別視しているのか。
  国籍に血統主義をとる日本と出生主義をとる主な国々との違い。ほぼ単一民族国家と多民族国家という違いもあるだろう。だが、自分がその一端を担いながら言うのも変だが、やはり中南米から見て、フジモリ氏が何を食べたかまで報じる日本の報道は、ちょっと考えものではないかと思う。
  フジモリ氏は日本国籍も併せ持つ日系人だが、やはりペルー人である。大胆な突入作戦を敢行したり、無辜の市民を犠牲にする激しいテロ対策を挙行したのも、ペルー人的な気質に負うところが大きいのではないかと私は思う。
  そこに「日本人の血」を求めるのは、日本人の民族主義か劣等感の裏返しではないだろうか。エスピノサ氏ら日本人の挙動を身近に目撃した人は、そんな風に見抜いているのではないだろうか。
  血にこだわる割に日本政府や企業は、フジモリ氏ら特別な人を除けば、概して日系人にさして優しくはない。
  ブラジルで鉱山エネルギー大臣や国営石油公社ペトロブラスの総裁を務めたシゲアキ・ウエキさんがこんな話をしてくれた。
「私たち兄弟が高校、大学のころ、牧場を営む日系一世の父がこう言ってくれたんです。『お前たち社会に出たら好きな事をしたらいいよ。だけど一言だけ言っておくね。就職するのなら、日本企業にだけは入ってはだめだよ』 日本企業は日系人を差別しますからね」
  現地事務所で、社会に通じ実力もある日系人職員が、言葉も話せないような来たばかりの駐在員の下働きをしなくてはならない。ウエキさんの時代ほど徹底していなくとも、今もこうした傾向は根強い。国際協力機構(JICA)が人事制度を変え、日系人ら現地採用者に出世の道を開いたのはつい最近のことだ。
  日本人を指す「ポンハ」という蔑称があるが、これをよく日系人の集まりで耳にする。「あの人はポンハみたいじゃないね」「典型的なポンハ」などと使う。
  中南米はまずは一対一の人間関係を重視する。挨拶もできない、気の利いた意見も小話も披露できない、暗くて表情がない、自分たちだけで固まる。そんな特徴を彼らは「ポンハ」と呼ぶ。
  そんなもの勝手だろう。暗くて何が悪い。男がちゃらちゃら明るく振舞う必要などない、という意見もあるだろう。だが、暗さは伝播するし、周囲を不安にさせる。一人むっつりした人がいると、パーティーは台無しである。
  80年代、南米のある国に駐在する日本大使の処遇が、ゴルフクラブの理事会で議題になった。ゴルフ好きのその大使はいつも日本人と来て、他の会員には挨拶もしなかった。「あの大使の顔を見ると気分が悪くなる」と除名が検討されたが、「一大使だけというのはどうか」という異論も出て、結局、各国大使は無条件で会員になれるという会則を抹消することになった。迷惑を被ったのは他の大使連中だった。
  何事も一般化は禁物だが、中南米でこうした声をよく耳にするのは確かだ。ただ、中南米人と同じく日本人にも良い面はかなりある。
「他人や周囲がどう思うかといった気配りや思いやり。お金や時間にきちっとしている。そんなものが中南米には欠けている。そうした気質に触れると、日本人を敬う気持ちが強まる」
  日本を何度か訪ねたペルー人の男性はそう話していた。日本のいい面を持ちながら、世界のルールに合わせるのが、やはり肝要なのだろう。

BACK NUMBER
PROFILE

藤原 章生

1961年、福島県常磐市(現いわき市)生まれ。
北海道大学工学部資源開発工学科卒業。住友金属鉱山で鉱山技師を経て89年に毎日新聞社入社。長野支局、大町駐在を経て92年より外信部。93から94年、メキシコ、グアダラハラ大学留学(メキシコ文化研究)、95年10月から01年3月までヨハネスブルク支局、アフリカ特派員、02年4月からメキシコ市支局、ラテンアメリカ特派員。03年から04年にかけ、米国、イラクにて、イラク情勢、米大統領選を取材。05年、第3回開高健ノンフィクション賞受賞。

主な著作:
『世界はいま どう動いているか』
(共著、岩波ジュニア新書)

『絵はがきにされた少年』
(集英社)

絵はがきにされた少年

PAGE TOP
Copyright(C) Association Press. All Rights Reserved.
著作権及びリンクについて