 |
スペインの奇跡を起源とする 聖母グアダルーペの像 05年12月、ペルー北部グアダルーペ |
ラテンアメリカの女たちは哀れだ。そんな思いがあふれてきた。夜、ペルーの首都リマで、空港に向かうタクシーの中でのこと。道路わきの電信柱に「チャマン(Chaman)」と赤字で書かれた看板があった。
「あのチャマンって、霊を操るやつ?」
そうたずねると、運転手は
「あ、あれ? そう、そう。ここの女どもはまだあんな馬鹿なことを信じて。呪いだとか、運命だとか、全く、馬鹿が」
とずいぶん強い口調で言うので、この人の奥さんも、結構、のめりこんでいるのだろうかと思った。
「当たるの?」
とまた刺激するようなことを聞くと運転手は
「馬鹿らしい。女はああいうものをすぐ信じる。日がな、あんなことに金と時間を費やして、こっちは一日中、働いてるのに」
と、より深刻な口調になったので、私は黙ることにした。
チャマンとは、シャーマンのスペイン語版で、ボトルに入った強い酒やコーヒー汁の表面に映る色合いなどを通して「霊的な世界」と交信し、顧客の置かれている状況や未来を占う人々のことだ。運勢ばかりでなく、探し物を見つけたり、敵に呪いをかけたりもする。薬草や聖水、小石、お守りなどいろいろなものを小道具にし、体にさっと降りかけられるスプレー入りの聖水も売っている。
看板は同じものが、ほぼ5メートルおきの電柱にぶら下がっている。よく見ると、「コチャバンバ」という山の方の地名と電話番号が書かれ、あまり目立たない白い字で「結びのスペシャリスト(Especialista de unirse)」とあった。
縁結びということだが、日本の神社などにあるそれとは違う印象だ。日本の場合、
「誰か素敵な異性に出会えますように」
という割と漠然とした、しとやかな祈りを思い浮かべるが、ペルーで「結び」という言葉を聞くと、もっと深刻な現実が浮かんでくる。そして、逃げた夫、去った男が戻るよう聖水をあび、奇妙な風体のチャマンに草で体を叩かれながら、丸裸で必死の祈りをささげる女性たちの姿が目に浮かぶ。
ラテンの女たちは哀れだ。そんな言葉がよぎったのは、多分、後味の良くない仕事をした後だったからだ。そこには哀しい女たちが幾人も現れては独り言のように、自らの不幸を語り、涙を浮かべて消えていった。
 |
中央広場でタバコなどを売る少女たち 05年12月、グアダルーペ |
私は数日間だが、ペルー北部のグアダルーペという町にいた。周辺を合わせれば人口7万にもなるが、教会や町の庁舎が立つ中央広場は50メートル四方ほどの小さな町だ。取材先で、
「その話なら、ヒロン通りのペルシ・ゴンサレスが知っているよ」
「確か、パン職人のチョーロが言ってたぜ」
などと言われるや、私が雇った運転手のぺぺは
「そいつなら俺の従兄の同級生だ。いま午後だから家にいるよ」
とすかさず答える、そんな小さな町だ。私が早朝ひとりで歩いていると、
「あんた、ぺぺの友達だろ」
「きのう街道の向こうを、ぺぺと歩いてたろ」
と町の人間に声をかけられる。中央広場に面した食堂で「これ、うまいね」と名物のパボ(七面鳥)のサンドイッチをひとりで三つも食べたら、翌日通りで会ったオヤジが
「あんた、パボ好きの日本人だろ」
などと声をかけてくる。ほとんど、松山に赴任する「坊ちゃん」の世界である。
ここに来たのは、町が日本で小学生の女の子を殺した日系ペルー人の故郷だったからだ。男は高等学校の5年生だった20歳のころ、裁判ざたになっただけでも1件の幼女強姦、1件の幼女強姦未遂を犯していた。だが、聞いていくとそれ以外にも、裁判所に告発されていない事件がいくつかあった。
そこから北に80キロほどの所に、やや大きめの町、チクラヨがある。そこの新聞社で警察回りをしている女性記者の知人、ソニアと2人で私は町に入った。だが、よそ者2人が町を歩いても、ただ目立つだけで、町の人間はなかなか心を開かない。そこで、たまたま親しくなった電話貸し業のマルコの紹介で、50年代のぼろぼろのシボレーを乗り回すぺぺを道案内人にした。
3人で動くことで仕事はスムーズになった半面、小さな町なのでいろいろと気をつかう。ペペの信頼で多くの人を知ることができても、町の人間がいると話しづらいということもある。私は取材対象によって1人で応じたり、ソニアと2人、あるいはペペを加え3人で近づいたりと、その場に応じてパターンを変えた。
 |
娘を犯されたエステラ(手前)とその姪 05年12月、グアダルーペ |
「ここは日本とは違うんです。倒されても、誰も起こしてくれない。自分で立ち上がるしかないのです。娘はあの男に犯されてから13年も経つのに、いまもひどい後遺症を抱えている。男を信用できないのです。男を好きになることもできない。22歳だというのに、いまだに恋もできない」
少女の母エステラは私にそう語った。日本で逮捕された男がまだ20歳だった13年前、当時9歳だった少女は男に家に連れ込まれ乱暴された。娘の上腕には、いまも男の噛み痕が残っているという。
「倒されても・・・」という言葉を聞いたとき、コロンビアの女性ディアナを思い出した。ディアナと知り合ったのは、コロンビアの作家、ガルシア・マルケスの作品に登場する女性像について調べていたときだ。私は無作為にあらゆるコロンビア女性から生い立ちを聞き、30代前半のディアナからはこんな話が出てきた。
「私は小さなころから、『倒れたら自分で立ちなさい』と言われて育った。だから男たちにどんなにひどい目に遭わされても平気。目の前に好きな男がいれば、その男にすがる。その男になら何をされても構わないと思う。多分、向こうが求めてるのはセックスだけかも知れない。だとしたら、その男は遅かれ早かれ私に飽き、私を捨てる。でも、それでもいい。私には、その時の気持ちが大事。その後、どんなひどい目に遭っても仕方ない。そのときは、自分で立ち上がればいい。そしてまた歩き出すしかない」
母エステラも同じことを言った。
「被害女児へのリハビリ? そんなもの、ここにはない。国も州も町も何もしてくれない。ねぎらいの言葉もない。私たちのように貧しい家族はやられたらやられただけ。自分たちで立ち上がるしかない。あの男の家には出稼ぎでためた金があるから、裁判を金で買い、男は3ヵ月で釈放された。その後も男は他の女児らを狙い続けた。こんな悔しい、ひどい思い、あなたにわかる?」
最初、インタビューを申し込んだとき、女性はかなり鋭い視線でこちらを値踏みした。私は黙って見返すしかなかった。でも、私はそのとき、彼女との間に何か伝わるものがあるように感じた。案の上、その数時間後、エステラは暗い家へと私を招き入れてくれた。化粧をほどこしたのだろう。路上で会ったときとは別人のように見える彼女は、そんな場に似合わず、ずいぶん艶っぽかった。
それは多分、こういうことだろう。彼女自身も、男への不信感は根強い。犯された娘の他にも子供を抱える彼女はかなり貧しい。それは多分、前の夫やその後付き合った男たちから、養育費などのお金を得ていないせいだろう。それでも、
「娘がこのまま男を愛することもなく終わるのかと思うと、可哀想で」
という言葉が示すように、彼女の中には、どんなひどい目に遭っても、男を求める気持ちがまだある。
「ここの男たちはひどい」
という憎悪の影には、ここではないどこか別の世界は、まだしもまともではないかという幻想を抱いているのだろう。そして、普段目にすることのない異国の男を前に彼女は、怒りの涙を流しながらも、その目の光の中にさりげない艶っぽさを見せる。
「あなたの写真、撮ってもいいですか」
去り際にそう聞くと、
「いえ、写真は誰にも撮らせないんです」
と答えながらも、彼女はすでに右手を前髪にやり、はにかんだ笑みを浮かべている。
「苦しむ母親」という表情を撮ろうとこちらがシャッターを押し続ける中で、窓から差し込む光を受けた彼女の表情はよりリアルに、そしてより女らしくなっていく。そしてデジタル写真をその場で彼女に見せると
「まあ」
と、咲き乱れたような笑顔を見せた。
 |
夜店でトウモロコシや豆類を売る少女 05年12月、グアダルーペ |
2、3日そこで寝れば、町のことも少しはわかる。中央広場から街道をはさんだ東側にプエブロ・ホベンと呼ばれる地がある。これは「若い村」という意で、首都リマをはじめ主な町には同じ名前の地区がある。つまり、主に先住民、シエラと呼ばれる山の方から下りてきた人々が暮らす貧困地区のことだ。半砂漠の砂地の道を歩いていると、男が20歳だったころの光景が浮かんでくる。
この町では小学校から男女別々だ。街道をはさんだ町の方にある学校から10歳前後の女学生がひとり貧困地区に帰ってくる。地区といっても、当時はまだ、半砂漠の埃舞う裸地にぽつりぽつりと家が立つだけだ。白昼、歩く者もない。貧しい家の両親は、町の少しは金のある家や仕事場へと行ったきり、夜まで帰って来ない。
「そのモンストロ(怪物、極悪人の意)がここで何をしていたか」
助手のソニアはすでに男の呼び名を「マルディート(悪人)」からモンストロに変えていた。
「そのモンストロはここで、好き放題やってたんだよ。ここじゃあ、誰もいない。泣き叫んだって誰も出てきやしない。こんな砂漠で裸にされて・・・」
その男が犯し、妊娠させたという少女についての証言を集めるため、我々はその辺りを歩きまわっていた。すでに叔父ら2人の一致する証言を得ていたが、念のためと、少女の姉の家を訪ねた。少女は生んだ子を山の方へと託し、チリに行って結婚し新しい生活を営んでいると聞いたからだ。
小さな雑貨屋を経営する姉は、不審そうな顔で鉄格子の扉の外にいるソニアと私の所まで出てきた。4歳ほどの娘が、不思議そうに私たちを見上げている。
「この人は日本の新聞記者で、私はチクラヨの記者です。実は、日本で少女を殺して捕まった男のことで・・・」
そこまで言うと、姉の表情は瞬時に険しくなり、喉の奥から搾り出すようなしゃがれ声で、
「ノ・ロ・コノスコ・ナーダ!(そんな男のことは何も知らない)」
と叫んだ。
憎悪。ひどい憎悪だ。
「オディア、ロ・オディア(憎んでる、あいつを憎んでる)」
ソニアはそういうと、それまで見せたことのない暗い表情になった。
 |
聖母グアダルーペの「ご開帳」を 見に祭りを訪れた母と娘 05年12月、グアダルーペ |
その晩、昼から何も食べていないソニアと私は町の広場の食堂に行き、またパボのサンドイッチを食べた。ようやくのように我々もそれぞれの身の上話をする。
「子供? いま6歳。父親はあれよ、最初から妻帯者だったし、上司だったから、一緒に住めるなんて思ってもいなかったしね。でも、子供は欲しかった。だから子供をくれって頼んだの」
子供が生まれるとわかると男はもう近づいて来なかった。その話を聞き、私は以前、長話をしたコロンビアのフェミニズム研究の学者の話を思い出した。
「男なんてタネさえくれればもういらない。寄り付かないでほしいってこと。男は夫であれ愛人であれ、セックスと出産のために必要なだけで、あとはストレスのタネにしかならない。いまの若い女たちはみんなそう思ってますよ」
そんな話をするとソニアは
「でも、タネなら誰でもいいってわけじゃない。やっぱり子供の父親が誰だったのかってのは大事。好きになった男の子供じゃないとね・・・。でもその男はすごいマッチョでやきもち焼き。パーティーなんか行くと、いつもその男のそばにいなくちゃならないし、他の男と食事にも行けない。別れてせいせいしたところはあるけど。でも、やっぱ夜はちょっと寂しいね」
帰り道、平安時代の貴族たちに通い婚というのがあったという話をすると、それを女の側に都合よく解釈した彼女は、
「わたし、それがいい。色んな男が夜通ってきて、昼間はいなくて。それがいいや」
と繰り返した。しばらく黙ったところで、彼女はこうつぶやいた。
「それにしても、ここの女はひどい目に遭ってるわ、ほんとひどい目に」
アフリカ南部のザンビアで、ともに酒を飲んだ初老の男が、左手の付け根を右手の人差し指でトントンと叩きながらこう言った。
「いやあ、それにしても、あんた。肌の黒い者は、とにかくひどい目に遭っているよ」
私はそのとき、自分に何ができるだろうと考え、多分何もできないと思った。
リマの通りで電信柱の看板「チャマン」を見たとき、咄嗟に「ラテンアメリカの女たちは哀れだ」と思った。それは、あの北部の町で知り合った女たちの表情がよみがえったからだろう。「わたし、それがいいな」というソニアの言葉とともに。
彼女たちのために、自分は何ができるだろう。タクシーの窓から暗い空を見上げ、私はしばらく考えてみた。そして、同じ結論にいたった。多分何もできない。こうして書く以外、何もできない。
(敬称略、つづく)
|