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Series フォト&エッセイ
遠いパラダイス 藤原 章生
05/11/15

第16回 マグダレーナ川の湿り気

冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そう考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族、人種に閉じこもり始めた。人々が鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。

マグダレーナ川を行く船
05年、コロンビア北部ムグンゲ

 コロンビアにマグダレーナと呼ばれる川がある。南部の山岳地帯を源流に、中流域で流れを広げ、一気に北のカリブ海へと注ぎ込む大河だ。この川の下流、湿原が広がりはじめる辺りにスクレという名の小さな町がある。
 スクレとはフランス語で砂糖を指す。その名の通り、ここはサトウキビ・ブームに沸き、欧州や中東から移民が押し寄せる町だった。だが、砂糖価格の下落とゲリラの出没で、いまはさびれてしまった。かつて、夜半になっても華やいだ人々がそぞろ歩きした裏通りを、いまは赤ん坊の頭ほどの大きさのカエルが埋め尽くす。
 スクレに行くには、ムグンゲと呼ばれる河岸の町から船外機つきの小船でマグダレーナ川を1時間ほど遡らなければならない。
 コロンビアは生物多様性が世界一豊富な国といわれる。高地から熱帯を流れる川には無数の種類の微生物、植物がある。遠めにこげ茶色に見える川の水は、手を差し入れてみると金色に近い透明さで、手にからみつくような豊沃さを感じる。スクレに人が集まったのは、この水がサトウキビを苦もなく大きく育て、糖分の多い果汁を生み出すからだ。

 スクレは作家、ガルシア・マルケスの一家が暮らした町でもある。私がここを訪ねたのは、作品『予告された殺人の記録』の舞台を見ておきたいと思ったからだ。
 美しい男女の俳優を配した同名映画の印象からだろうか。町は思ったよりも小さくみすぼらしく見えた。そこは、マンゴの木の鬱蒼とした緑と、黄ばんだ土で塗り固められた、隠れ里、あるいは廃墟のような第一印象だった。
 映画の関係者はこの町を見て、「これでは絵にならない」と考えたらしい。撮影は小船で1時間半ほど下った右岸の古都、モンポスで行われた。コロニアル風の白壁の町モンポスが舞台となれば、イメージは何もかも変わる。そこにあるのは「真昼の決闘」が行われるような広場と、ぎらついた真っ白い光。現れる人々の衣装も、パナマ帽も、すべて白い光の中の出来事として観た者の記憶に残る。
 町全体が森に覆われたようなスクレには乾いた印象がない。夜ともなれば、ゆったりと流れるマグダレーナ川からの霧が町を覆い始める。その生暖かい湿りが家々に入り込み、寝間の人々の汗をしたたらせる。その熱気、ことのほか甘いサトウキビを育むマグダレーナの水が、この町の人々を情動へとかりたてる・・・。と、そんな想像もしたくなるようなムードがこの町にはある。

映画が撮影されたモンポスで
踊りの練習をしていた中学生、05年

 物語はさして込み入っていない。花嫁を探しに放浪の旅を続ける男が河岸の町に降り立ち、墓参りをしていた美しい娘に一目ぼれする。資産家の御曹司である男は、娘の兄や母に近づき、金にものを言わせて、娘との婚礼にこぎつける。だが、盛大な挙式の晩、娘は男の手で実家に突き返されてしまう。処女ではなかったからだ。そして、翌朝、処女を犯したとみなされた別の男が、娘の兄の手で、町民が見守る中、刃物でめった突きにされ息絶える。
 題名『予告された殺人の記録』の通り、作品は殺人の予兆がありながら、なぜ誰ひとり止めることができなかったのか、という殺された男の友人の疑問をベースに進む。
「処女は家の名誉である。その名誉を守るため、家の男たちはそれを犯した者を殺さなければならない」
 そんな掟を暗黙のうちに抱えた、カトリック色の強い町の土着性をからめながら、物語は真実と嘘の間を行き来しつつ、謎解きのように進められる。

 スクレを訪ねてみると、当時の目撃者ばかりでなく、事件が起きた1951年にはまだ生まれていなかった世代までが、その謎解きを続けていた。それは、かなり事実にそった形で小説が書かれたせいだろう。登場人物の名称や家柄、例えば、殺されたイタリア系移民の医学生をアラブ系移民の高等遊民的な若者に変えてみたりと、あれこれいじってはいるものの、登場人物のモデルをすべて特定できるような描き方をしている。
 町一番の美貌の娘、アンヘラ・ビカリオのモデルは、マルガリータ・チーカという名の当時、小学校教員をしていた22歳の女性だった。町民はいまも
「本当に美しい人だった」
 と声をそろえる。

肉や魚を売る小路を人々が行き交う
05年、スクレ

 ガルシア・マルケスが2003年に発表した自伝は『語るための人生』という題名がつけられている。これは、原題“Vivir para contarla”のうまい翻訳だが、スペイン語としては、
「しゃべるために暮らす」
「おしゃべりだけが生きがい」
 といったニュアンスが込められている。
 カリブ海沿岸とそこに近いコロンビア北部の人々は「コスタ(沿岸)」という言葉から「コステーニョ」と呼ばれる。このコステーニョには、自他ともに認めるパチャンゲーロ(祭り好き)が多く、男尊女卑を当然と考えるマッチョが幅を利かし、早口のカリブ風スペイン語でベラベラと好き勝手なことをしゃべり続けるという特徴がある。
 コロンビアの知人は、2004年に出版されたガルシア・マルケスの最新作『わが悲しき娼婦たちの思い出』(未訳)とその原案である川端康成の『眠れる美女』を比較し、こんな批評を口にした。
「川端の研ぎ澄まされた感性で削り込んだ文体と、ガルシア・マルケスのおしゃべり文体では比較にならない。彼はいわゆるトロピカル文学というやつで、朝歩いていると、道の脇の木がざわついていて、なんだかこっちもそわそわして、その先のバナナ売りが『どうしてる、元気かい』と聞いてきたんで、こっちとしちゃあ気分が悪いんで・・・、てな調子で、あったもの見たもの、思ったことをただそのままだらだらと書いているだけだ。ガルシア・マルケスが川端に憧れるのはわかるが、余計なものをそぎ落としていく日本の文化と、何でもかんでもべたべたと上塗りして貼り付けていくコステーニョのそれでは比べようがない」
 スクレに着くまで、私はこの町で起きた忌まわしい事件を探るのは容易でないと思っていた。まがまがしい掟を抱える町では、人々の口も重いのではないか、と考えていた。ところが、いざふたを開けてみると、人々はそれこそが真実であると信じているのか、独自の仮説を好き勝手に話し続ける。おまけに
「ガルシア・マルケスはもともとマリコン(同性愛者)で、殺された男と深い関係にあった」
 などと、聞きもしないのに、そんなことを長時間にわたって力説する男性もいる。村人の噂話は
「誰がマルガリータのアウトール(最初の男)だったのか」
 につきるが、これも
「私は彼女本人の口から聞いた」
 という身内の話を含め、幾多の説がまことしやかに語られていた。
 だが、答えはわからない。マルガリータが公には何も言わないまま、何一つ書き残さないまま死んでいったからだ。

マグダレーナ川の船着場から見たスクレの町、05年

 1951年、事件から8日目の深夜、町にいられなくなったマルガリータは夜陰にまぎれ、母親とともに小船でスクレを発った。そして、そこから直線距離で80キロほど北西にあるスクレ州の州都、シンセレホスの小さな家に移り、2003年に75歳で亡くなるまでそこで暮らした。
 事件からちょうど30年が過ぎた1981年、ガルシア・マルケスは小説を出版した。誰もがほとんど忘れかけ、話題にもしなかった事件が再び注目され、マルガリータの周辺は急に騒がしくなった。もともと外出をめったにしなかった彼女は家にこもるようになった。共に暮らした姪は、
「とても働き者で花嫁衣裳のデザインや機械編みの仕事を黙々と続け、身内を支えてきた。いつも自分は後回しの人で、お酒もほとんど飲まず、家でのときは参加しましたが、よその家のパーティーに行くこともありませんでした。あの小説は読んでいないはずです。持っていなかったし、手にすることもなかった。いつも明るく振舞っていましたが、あの事件のことはまず話しませんでした」
 マルガリータは友人に請われ、本が話題になった1981年に一度だけ、コロンビアの新聞『エクセルシオール』のインタビューに応じた。そこで彼女はこう話している。
「相手はカエタノ・ヘンティレ(殺された男)でした。私はまだ少女で、美しい恋愛でした。もし彼の母親にそのことを話していたら私たちは結婚していたでしょう。私の運も違ったものになっていたかも知れません」
 だが、姪はこの言葉を否定する。
「殺されたカエタノとはプラトニックな関係にあっただけで、それ以上のことは何もなかったようです」

早朝、通りを行く人々をながめる男性
05年、スクレ

「いまなら、結婚して処女だとわかったら、『何かおかしいんじゃないか』と逆に突き返されるわ」
 コステーニョの人々は男女ともこんな冗談を口にするが、マルガリータの時代はそうではなかった。マッチョの世界が作り上げた古い掟、そしてそれを世界に広めた小説の犠牲となり、彼女は死ぬまで黙り通した。彼女の感覚では、そうせざるを得なかった、いや、そうするのが賢明だったのだろう。

 彼女が暮らしたシンセレホスに川はない。スクレのような豊かな湿り気もない。
 目を患った彼女は、何も見えないまま逝った。死の間際、彼女は夜陰にまぎれて去ったスクレを思い描いただろうか。そこには、あの豊かな、生きている川に浸る自身の姿があったのだろうか。

(敬称略、つづく)

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PROFILE

藤原 章生

1961年、福島県常磐市(現いわき市)生まれ。
北海道大学工学部資源開発工学科卒業。住友金属鉱山で鉱山技師を経て89年に毎日新聞社入社。長野支局、大町駐在を経て92年より外信部。93から94年、メキシコ、グアダラハラ大学留学(メキシコ文化研究)、95年10月から01年3月までヨハネスブルク支局、アフリカ特派員、02年4月からメキシコ市支局、ラテンアメリカ特派員。03年から04年にかけ、米国、イラクにて、イラク情勢、米大統領選を取材。05年、第3回開高健ノンフィクション賞受賞。

主な著作:
『世界はいま どう動いているか』
(共著、岩波ジュニア新書)

世界はいまどう動いているか

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