冷戦が終わり、諍いも隔たりもない世界が広がる。そんな風に考えたのもつかの間、人々は以前よりも内向きに、自らの殻、国家や民族に閉じこもり始めた。これは一時的な反動なのだろうか。それとも、こうした息苦しさはこれからも続くのか。人々が国家や民族、人種という鎧を剥ぎ取り、自分自身になれる時代はやってくるのか。ジャーナリスト藤原章生氏が、世界各地の現場から、さまざまな人間との出会い、対話を通して考察する。
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訓練前、厳しい顔で教官を見つめる捕虜たち 1999年1月、キサンガニ |
「村で一日中、畑を掘ってるよりはましだ」
少年の言葉に納得できなくて、私は何度か聞き返した。十代前半で前線に立たされ、敵につかまり、今度は新たにかつての友軍と戦うために前線に立たされる。将棋の歩と同じだ。その少年たちは、兵隊になった理由について、口々にこう語った。
「親に叩かれながら、農民を続けるのはもう嫌だった」
「兵隊になるのも一つのゲームという感じがした。自分の国のためにもなるし」
「(捕虜という)状況を考えれば、また兵士として前線に行くのは、多分自分にとって最善の選択だと思う」
少年たちとはいろいろな話をしたのに、どうしてだか、こうした、わずかでも前向きな言葉ばかりが印象に残っている。
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捕虜の中には幼い者も多い 1999年1月、キサンガニ |
1999年の初め、今から6年余り前の話だ。私はコンゴ民主共和国のキサンガニという町にいた。目的の一つは、コンゴ戦争で前線に立たされている少年兵に会うことだった。少年兵といっても、私が会ったのは、前線でルワンダ軍に捕らえられた敵軍(コンゴ軍)の尖兵、つまり捕虜である。
炎天下、土ぼこりを上げながら、捕虜たち約300人ほどが軍事訓練を受けていた。その中に1割ほど幼い顔が混じっていた。
状況は少し込み入っていた。その町、キサンガニは一応、コンゴ第3の都市ということになっていたが、アフリカの中央にあるコンゴのさらに奥地で道路も寸断されているため、まさに陸の孤島だった。当時、コンゴは大西洋岸に近い首都キンシャサを本拠とする西側と、このキサンガニなどがあるコンゴ川上流の東側に分かれていた。西側をコンゴ政府軍が握り、東側はルワンダ政府軍が支配下に置いていた。
その境界、つまり戦闘の続く前線に近いキサンガニに入るのは難しく、私はルワンダ軍の知人のコネで軍用機で現地入りしていた。
なぜルワンダ軍がコンゴにいるのか。それもやや込み入っているが、手短に説明すると、ルワンダは古くから王族階級を中心とする少数派のツチとその下位に置かれたフツという二つの「民族」が対立を繰り返してきた。両者の違いが「民族差」なのかどうかという議論は、さらに込み入っているので、ここでは省くが、いずれにせよ、二つに色分けされた国民の対立は1959年のフツの民衆革命で極まり、長年、国を動かしてきたツチの指導層は亡命を強いられる。
その後、ツチは長いゲリラ活動の末、30年余り政治を握ったフツの指導層を追い出し94年に国に戻る。その際、追い出される側のフツの手によってツチに対する大虐殺が起き、3ヵ月間で推定100万人もの人々が殺された。
ツチは大虐殺の首謀者を追って、フツが難民として逃れたコンゴへと越境し、96年にはコンゴ内戦を引き起こし、翌97年にはコンゴ人の反政府勢力を引き立てる形で首都キンシャサまで進軍している。
ところが、ルワンダ人はやはり外国人である。新たに政権を得たコンゴ人は選民意識の強いルワンダのツチを嫌い、98年にはルワンダのツチ対コンゴ新政府軍の戦争に発展した。
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手を高く振り行進の練習をさせられる 元コンゴ政府軍の捕虜たち 左奥はツチの教官 1999年1月、キサンガニ |
当時ツチが支配していたキサンガニで私が会ったのは、捕虜となったコンゴ政府軍の元兵士たちだった。ただ、その多くはツチに追われ行き場を失ったルワンダのフツである。少年兵たちは当初、「自分はコンゴ人だ」と話していたが、しまいには
「自分はフツだ」
とはっきりと言う子もいた。
私はその前夜、コンゴ川流域の熱く湿気の多い兵舎でなかなか眠ることができず、しかも、訓練を見たその日は飲み水を忘れ、かなり消耗していた。獣のような体臭が漂う教練場で、写真を撮るため走り回ったため、めまいがしそうな気がした。多分、私自身、目の前の光景にかなり殺気立っていて、精神的に参っていたのだろう。それでも、
「何であんなにたくさん子供がいるのか」
と、私を連れてきてくれたルワンダ軍の諜報員を介し、指導教官にたずねた。
すると、教官は
「コンゴ政府軍は前線に子供ばかり立たせる。だから、捕虜に子供が多いんだ」
と答えた。
「では、その子供をなぜ、あなた方はまた訓練しているんですか」
「これは再教育の一環だ。行進などの訓練は規律を教えているに過ぎない。基礎学習から政治、社会についても教えており、元少年兵たちはリハビリがすめば故郷に帰す」
私は教官の言葉を信じることができなかった。諜報員の男にそれを言うと、
「頼むからもうそれ以上聞かないでくれ。ここまで入れただけでも異例なんだから」
と耳打ちした。
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会見に応じる3人の元コンゴ軍少年兵 1999年1月、キサンガニ |
訓練の後、3人の元少年兵に話を聞いた。いずれも指導教官が用意した子供たちだった。どこにいても捕虜の群衆が私を取り囲むので、我々は熱いトタン屋根の小屋に入った。諜報員が通訳として、そして教官が近くで耳をそばだてていた。
「みな訓練で疲れている。それに朝から何も食べていないのだ。早めに切り上げてほしい」
そう教官に促されたが、私は3人の少年を前に、いたたまれない気持ちになり、流暢に質問が出てこなかった。のどが渇ききり、そして目の前の光景に圧倒され、すでにどっと疲れていた。外では、カンカン照りの真っ白い地面の上で、捕虜の面倒を見ている初老の女性が、
「お前は、お前は」
と怒鳴りながら、10歳くらいの捕虜の子を枝で作った鞭のような物で叩いていた。子供は
「ヒャー、ギャー」
と叫び、地面を転げ回っていた。なぜ一目散に逃げないのだろう。逃げたら余計やられるから、我慢して鞭打たれているのだろうか。私は驚いて、とっさにカメラを向けるが、3人の元少年兵は何の感情も示さず、そこに座っていた。
カブワナ・ビホイキ(16) |
コンゴ東部ゴマ出身、父はビール工場勤務、母はトマト売り |
シモン・ムチニャ(16) |
コンゴ東部サケ出身、父はバナナ酒売り |
ムドゥドゥ・ビヤモンゴ(17) |
コンゴ東部ムシシ出身、両親とも農民 |
3人はどう見ても13歳くらいにしか見えなかった。しかも、シモン・ムチニャはまだ声変わりしていなかった。だが、教官が脇にいるせいか、言うことは結構大人びている。
「幼な友だちが入ったんで、コンゴ軍に2年もいたけど、こっち側(ツチ軍=ルワンダ軍)の方が軍隊らしい。来て良かった」
「小学校6年までしか勉強できなかったけど、ここでは政治や市民社会、それに護身術も学べる」
「やはり将来は大事だ。多分、戦争はずっと続くと思う。悪いのはネポティズム(縁故主義)だ」
「人は誰もそれぞれ進む道がある。自分は戦術について学ぶのが好きだ。だから、兵士になるのが自分の道だったんだろう」
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こん棒を銃代わりにして訓練する少年の捕虜たち 1999年1月、キサンガニ |
私は彼らから泣き言が聞きたかった。私の目から見れば、こんなひどい少年時代はないように思えたからだ。
バッグの底をさぐると、英国製のきついペパーミントの飴があった。3人に渡すと、そのときばかりは目を輝かせ、それぞれ一粒だけ口に入れた。それは、普通、子供がなめると辛いと感じるようなかなりきつい味のする飴だった。
3人は目を細めて鼻をスースー言わせながら、その飴を吸い続けた。喉がカラカラだった私も残った一粒を口に入れた。一瞬、口の中に冷たさが広がり、救われたような爽快さがあった。
子供たちはほんの少し心を開いたのか、急に打ち解けた雰囲気になった。物をもらった礼は言葉で返せと、誰かに教わったのだろうか。こちらが聞きもしないのに口を開いた。
「朝から晩まで畑で土を掘り返しているよりは、こっちの方がましだ」
と冒頭のような言葉を私に寄越した。
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見張り役として銃を持たされる 元コンゴ政府軍の少年兵 1999年1月、キサンガニ |
そのころ、コンゴ戦争を間近に目撃していたのはごく少数のジャーナリストだけだった。国連機関もフランス軍も、ルワンダ国境まで足を運んだ米国の軍事要員も、前線に近づくことはなかった。キサンガニでも、ジャーナリストを見かけることはなく、普通なら最後まで居残り、戦乱が明けると真っ先にやってくるダイヤモンド取引のレバノン人もインド人も姿を消していた。
「こんなところで、ルワンダ軍が少年兵を訓練している。こんな非人道的なことがあっていいのか」
私は世界に向けて繰り返し叫び続けるべきだったのだろうか。
少年兵ならアフリカのどの前線にもいる。いや、少年兵だからこそ、前線にいるのだ。「アフリカ最強の戦士」などと自己宣伝しながら、ツチの兵隊たちは結局、再教育した子供の元捕虜たちを前に立てている。誰も一番先に死にたくはない。あの子供たちは弾除けに使われるのだ。
少年たちの言葉から、私が掴み取ったのは結局「農民よりまし」の一言だった。それは、どうすれば彼らを救えるのかと考えても、答えを見出せない私自身が、少しでも救われたかったからだろう。
コンゴではその後も戦争は続き、ユニセフのホームページによれば、過去5年で推定330万人が殺されたという。
(敬称略、つづく)
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